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逆風の中で

2023年7月9日

マルコによる福音書 第6章45-56節
川崎 公平

主日礼拝

■逆風の中で漕ぎ悩んでいた弟子たちのところに、湖の上を歩いて主イエスが来てくださったという話を読みました。そしてもうひとつ、まるで関係ない話のようですが、53節以下には、たくさんの病人を主イエスが癒やしてくださったと書いてあります。これらはいずれも、〈奇跡〉と呼ばれる出来事です。

私どもが聖書と向き合うときに、どうしても避けることができない問題のひとつは、〈奇跡〉であると思います。私どもはしかし、何となくこの問題から逃げているかもしれません。奇跡なんて全部作り話だと退ける勇気もなく、けれども、たとえば教会に行っていないような家族や友人に、「あなた、本当にこんなこと信じてるの?」とか言われたら、うーん、ああ、いや、まあ、と言葉を濁したくなるような誘惑を知っているのです。ところがそんな私どもが、たとえば大きな病気になって、突然余命二週間ですと言われたり、あるいは家族がたいへんな困難にぶち当たったりすると、もちろんできる限りの手立てを尽くしながら、けれども最後には、何か奇跡でも起こったりしないかな、と願わない人はいないのではないでしょうか。ちくしょう、ドラえもんがいてくれたらなあ、などと下らないことを(しかもわりと真剣に)考えたり、奇跡を欲しがるくせに、聖書に奇跡のことが書いてあると、それに対して素直な態度を取ることができないのです。

ところがここで聖書が奇跡について考察している言葉は、たいへんに鋭いものがあります。「パンのことを悟らず、心がかたくなになっていたからである」(52節)。この「パンのことを悟らず」というのは、この直前に書いてある5つのパンと2匹の魚の話のことです。主イエスが弟子たちの持っていた僅かなパンと魚で、五千人をお腹いっぱいにしてくださったと書いてあります。弟子たちは、たいへん興奮したに違いありません。自分たちのパンと魚を、自分たちの手で、五千人の群衆に、配っても、配っても、全然減らない。その手ごたえを忘れたわけがないのです。ところがこの52節で何と言われているかというと、そのような奇跡を自分の体で体験したのに、悟るべきことを何も悟っていなかった。むしろ弟子たちの心は、ますますかたくなになっただけだというのです。

「心がかたくなになった」と書いてあります。新共同訳では「心が鈍くなっていた」と訳されましたが、ここはやはり「かたくな」という翻訳の方が適切だと思います。直訳すると「心が石になる」という表現です。そしてもうひとつ、これは聖書協会共同訳にも注文をつけたいところですが、その「心がかたくなになっていた」という文章の最初に、原文では「しかし」という逆接の接続詞が入っているのです。これを正確に翻訳しているのは文語訳聖書で、「彼らは先のパンの事をさとらず、反つて其の心鈍くなりしなり」。パンの奇跡を経験したために、かえって、むしろますます、「心がかたくなになった」と聖書は書くのです。

聖書の伝える奇跡というのは、その意味で、決して分かりやすいものではありません。私どもは、二千年前も昔の書物に、やれ神の子が水の上を歩いたとか、パンを増やしたとか、病気を癒やしたとか、そういう話を読みますと、「まあね、大昔の人が書いたわけだから」と軽蔑したりするのですけれども、聖書は決して、われわれが考えるような幼稚な意味で、こんな奇跡があった、こんな奇跡もあった、どうだすごいだろう、という話をしているのではないのです。奇跡というのは、神が私どものためにしてくださるものです。そして私どもは、奇跡を通していつも神から問われていると思うのです。「どうだ。これに対して、あなたはどういう態度を取るのか」。けれども問題は、私どもがなかなかふさわしい態度を取ろうとしないということなのです。「パンのことを悟らず、むしろそのためにかえって、心がかたくなになる」ということが起こります。心がかたくなである限りは、どんなに大きな奇跡を経験しても意味がありません。飲みにくい薬を無理やり飲みこむように奇跡を信じたって何の意味もないのです。私どものかたくなな心を柔らかくするために、主イエスは今もどんなに心を砕いておられるかと思いますし、この聖書の記事を読みますと、既にこの12人の弟子たちのために、主がどんなに苦労なさったか、そのことがよく分かると思うのです。

■この弟子たちのかたくなさ、石のような心のかたくなさとは、どういうことであったのでしょうか。このとき、弟子たちは自分たちだけで舟に乗って漕ぎ出し、向こう岸を目指していたのですが、逆風のために湖の真ん中で、にっちもさっちも行かなくなったというのです。日が暮れて、夜になり、やがて丑三つ時というところで、この12人はどんなに心細い思いをしたかと思います。ところがそこに主イエスが近づいて来てくださったとき、弟子たちは「幽霊だと思い、叫び声を上げた」と書いてあります。「ぎゃあ、お化けだ」と叫ぶ弟子たちの態度に、主イエスは、そんなことでいちいち傷つくようなお方ではありません。「なんて馬鹿なんだ」と軽蔑なさるようなこともなかったと思います。そのようにおびえ、慌てふためく弟子たちの心のかたくなさを悲しみながらも、「いとおしくて、ほっとけない」という思いであったに違いないと思うのです。

その主イエスの心が凝縮したような言葉が、50節の最後にこう書いてあります。「安心しなさい。私だ。恐れることはない」。「わたしだよ。わたしがここにいるよ」と言われるのです。

先ほど出エジプト記の第3章をあわせて読みました。神の前に立たされたモーセが、「神よ、あなたのお名前を教えてください」とお願いしましたら、「私はいる、という者である」と神はお答えになりました。「私はいる」。「これこそ、とこしえに私の名/これこそ、代々に私の呼び名」。その「私はいる」という言葉は、たとえば英語で言えば “I am” です。この神の名が新約聖書においてもしばしば現れる。その典型的な箇所がここです。わたしだよ。わたしがここにいるよ、というのは、それはそのまま、神ご自身のご臨在を意味すると、誰もが理解しました。しかしそれにしても、不思議なお名前であります。「私だ」。「私はいる」と言われるのです。

ある説教者が、この「わたしだ」という主イエスの言葉を説き明かしながら、「ほら、お母さんここよ」と言い換えてみせました。迷子になってわんわん泣いている子どものそばで、迷子センターのお姉さんがどうなだめすかしてもどうしようもないというところにお母さんが現れて、「ほら、お母さんここよ」。その神の親心が、そのまま神の名になっているのです。「安心しなさい。私だ。恐れることはない」。その神の親心を、しかし問題は、私どもがどういう心で受け止めるかということなのです。

「安心しなさい。わたしだよ」。私どもの信仰というのは、結局のところ、このひと言を聴き取ることができるか、できないか、一切はそこにかかっているのだと思うのです。「安心しなさい。私だ」。どんなに不思議な奇跡を経験させていただいたとしても、もしも私どもの心がかたくなであったなら、そのために「安心しなさい。わたしがここにいるよ」という主イエスのみ声を正しく聞き取ることができなかったら、どんな奇跡も何の意味も持たないのです。しかしまた逆に言えば、「わたしだよ。わたしがここにいるよ」という、このひと言さえ聞き取ることができれば、それで十分なのです。

少し前に、ご自宅でほとんど横になっているという方を訪ねて祈りをしに行きました。私も牧師として、しばしばそういう訪問をするわけですが、そのたびにさまざまなことを考えさせられます。10年以上前に、それこそ奇跡的な回復を与えられて、病の癒しをいただいて生かされた方です。その意味では、私は神の奇跡を素直に信じている方です。あの人の病気が治った。神さま、ありがとうございます。この人の病気も治った。ああ、神さまが癒してくださったんだ。けれどもそこで、私どもがよく承知していることは、どんなにたくさん奇跡をいただいたとしても、それで何度病気を癒やしていただいたとしても、最後の病気だけは決して治らないということです。けれども、その最後の床にあっても、「安心しなさい。わたしだよ。わたしがここにいるよ。だから、恐れることはない」という主イエスのみ声を聴き取ることができるなら、本当はそれ以上何もいらないのであります。

■53節以下には、たくさんの病人が癒やされたという話が出てきます。どこでもイエスがおられると聞くと、とにかく病人を誰かれ構わず連れて行って、「せめて衣の裾にでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆、癒やされた」と書いてあります。しかしこのような聖書の記事については、評価が分かれるかもしれません。ただ奇跡を欲しがって大騒ぎしているだけの群衆を批判することだってできるかもしれません。けれども、福音書記者マルコは、ここに出てくる人びとを批判するためにこの記事を書いたわけではないと思います。そんな批判的な口調は、ひと言も見つからないのです。

55節に、「イエスがおられると聞いて」と書いてあります。この「イエスがおられる」というのも、英語で言えば、”I am” ではありませんが、”he is” です。「あのお方がおられる!」というひと言を、マルコはそれなりの思いを込めて書いたと私は思うのです。「イエスがおられる」。事実、主イエスはこの人びとのそばにいてくださったのです。病気の人をひとりひとりお癒やしになりながら、そのひとりひとりのためにも、「安心しなさい、わたしだよ」と声をかけてくださったのではないでしょうか。「わたしがいるよ。だからあなたはここに来たんだね。わたしがいるから、だからあなたは、大切な人をここに連れて来たんだね」。そのような主イエスの思いをここに読み取ることは、決して間違っていないと思います。

■けれども、その前の湖の上での出来事は、もう少し深刻な私どもの現実を映し出していると思います。「イエスがおられる」と申しましたが、けれども弟子たちが湖の上で経験したことは、むしろ逆に、「ここにイエスはおられない」ということでしかなかったからです。45節の最初に、「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ」と書いてあります。主イエスは、舟にお乗りにならなったのです。なぜだろう。このときは何か特別な理由があったんだろうか、と考えてみても、あまり実りのある話にはならないと思います。なぜなら、この舟の上の弟子たちの姿は、そのまま私ども自身の現実がここに描かれているとしか考えられないからです。

私どもの生活の中にも、いくらでも逆風が吹きつけるでしょう。湖の真ん中で、たったひとり小さな舟に乗って、四方八方どこをどう見まわしても光が見えないんです。なぜなら、まだ夜明けは来ないからです。私どもはいろんなことで悩みながら、苦しみながら、必ず朝は来る、必ず夜は明けるのだと分かっているつもりなのですが、今はしかしまだ夜なのです。真っ暗闇の中で、漕いでも漕いでも解決は見えないし、いやちょっと待てよ、こんなに死に物狂いで舟を漕ぎ続けているけれども、本当にこっちの方向で合ってるのかな、などと考え始めると、それだけで私どもの心は崩れるのです。心が腐るのです。何よりも、心がかたくなになるのです。そしてそういうときにいちばん深刻な問題になることは、ここに主イエスがおられないということなのです。いや、もちろん、主イエスは今も私どもと共におられます。そのことを私どもは何度も教えられるのですけれども、目に見えなければいないのと一緒じゃないですか。私どもが漕ぎ悩んでいる、その現実には何も変わりはないのです。その意味で、この舟の上で漕ぎ悩んだ弟子たちというのは、そのまま私どもの姿と重なるのです。

45節の最初に、「弟子たちを強いて」と書いてあります。強烈な言葉ではないでしょうか。神を信じない人には、この言葉の激しさは分からないかもしれません。神を信じているからこそ、「強いて」というこのひと言の強烈な意味がよく分かるのです。そうではないでしょうか。どうして自分はここにいるんだろう。どうしていつまでもこんなところで苦しんでいるんだろう。この逆風は、いつまで続くんだろう……。舟の上でふと気づくのです。なぜ自分がここにいるのか。主イエスがそのことを強いたからだ。他の誰の意志によるのでもない。今わたしがここに生きているのは、ただわたしの主、イエス・キリストのお考えによることなのだ。神を信じて生きる人間は、どんな立場の人であっても、この言葉の意味がよく分かるはずなのです。

この舟に乗っていた、ペトロという名をいただいた主イエスの一番弟子がおりました。ことにペトロは元漁師ですから、この湖の上でもいちばん責任を感じたかもしれませんし、それだけにいちばん心細い思いをしたかもしれません。このペトロが、のちにお甦りの主イエスの前に立たされて、こういうことを言われました。あなたは若い時は、自分で自分の帯を締めて、行きたいところに自由に行っていたかもしれないが、これからは違う。むしろ他の人に縛られて、行きたくもないところに連れて行かれるのだ(ヨハネによる福音書第21章18節)。神を信じて生きる人間は、そのように、主イエスに強いられて生きる厳しさと、そのすばらしさを、よく知っているはずなのです。

■主イエスは、弟子たちを強いて舟に乗せ、しかしそのままほったらかしにしたわけではありませんでした。46節には、「そして、群衆と別れると、祈るために山へ行かれた」と書いてあります。何を祈っておられたのでしょうか。弟子たちのために、祈っておられたのではないでしょうか。逆風に漕ぎ悩む、私どものためにも祈ってくださっているのではないでしょうか。だから48節にも、「イエスは、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て」と書いてあります。目をつぶってお祈りをして、お祈りが終わってふと目を開けると、あ、弟子たちがたいへんだ、という話ではないでしょう。祈りながら弟子たちのことをご覧になり、弟子たちの悩みをご覧になりながら、だからこそ祈っておられたのです。

ここで時々学者たちは意味のない議論をします。ガリラヤ湖はずいぶん大きな湖なのに、そしてこのときはまだ真夜中なのに、どうして山の上から弟子たちが漕ぎ悩んでいるとかそんなことが見えたんだろうか。イエスの視力はどのくらいだったんだろうか。心がかたくなだから、そういう議論しかできないのだと思います。けれども本当は、今も主イエスは私どもの悩みを見ていてくださるのではないでしょうか。だからこそ湖の上を歩いて弟子たちのところに来てくださったのです。

私どもはそれでも、どうしてもっと早く来てくださらなかったかと文句を言うかもしれません。わたしのところにも、もっと早く来てくださいよ、と言うかもしれません。けれども主イエスの立場に立って考えるなら、主はひと時だって弟子たちのことを忘れたことはなかったし、ずっと祈っておられたし、祈っておられたからこそ、来てくださったのです。

主イエスは私どものためにも、今もどんなにはらはらしながら祈っておられるかと思います。その主イエスの親心に慰められた人間は、やれ来るのが遅いだの早いだの、もうそんなことを考えることはなくなるのです。今もいつも主イエスは、私どものためにも祈っていてくださるし、祈りながら、近づいてくださるのです。聖書は決して昔話ではありません。

■ただもうひとつ、どうしても気になるのは、48節の最後の「そばを通り過ぎようとされた」という、この表現です。え? せっかく来てくださったと思ったのに、どうして素通りするの? 学者たちの中にもこれは解釈困難であるという人がいるのですが、私はそんなに難しく考えなくてもいいのではないかと思っています。旧約聖書にある程度親しんでいると、しばしば主なる神が通り過ぎる、という表現に出会います。預言者エリヤがバアルの神と戦ったとき、けれどもイゼベルという王妃に追われて40日40夜さまよい歩いて、神さま、もう死にたいですと申しましたら、主が通り過ぎて行かれて、激しい風が山を裂き、風の後に地震があり、地震の後に火があり、けれどもその中に主はおられなかった。けれどもその火の後に、かすかにささやく神のみ声が聞こえたと言われるのです(列王記上第19章)。それに似て、主イエスが弟子たちの前を「通り過ぎた」と書かれているのも、神ご自身が弟子たちのために姿を現してくださって、「わたしだよ、わたしがここにいるよ」と言われたのと同じことです。

けれども弟子たちは、通り過ぎる主イエスを見てお化けだと言いました。この弟子たちを、私どもは笑えるでしょうか。今もわたしのところに近づいてくださる主イエスを無視したり、来るのが遅いだの早いだの、それは主イエスを見てお化けだと言った弟子たちと、そんなに変わりはないだろうと思います。しかし興味深いのは、そういう弟子たちのために「イエスはすぐに彼らと話をし」(50節)と書いてあることです。

「イエスはすぐに彼らと話をし」という表現に違和感を覚えた方もあるかもしれません。何を話したんだろう。何分間くらい話をしたんだろう。「彼らを話をし」というのは、どうもこの情景に合わないようで、たとえば「イエスは彼らに声をかけて」などと書いてあった方がしっくりくるような気がするのですが、ここはやはり「話をした」と、原文にもそう書いてあるのです。ある程度の長さの話をした、会話をしたという意味の言葉です。何をお話しになったのでしょうか。「ぎゃあ、お化けだ」などと騒いでいる弟子たちを一所懸命慰めよう、励まそうと、たとえばわんわん泣き続けている子どもをあやすように、「ほら、お母さんここよ、だいじょうぶだって」と……。それをひと言で伝えようとすると、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」ということになったのでしょう。

私は思うのですが、「イエスはすぐに彼らと話をし」というこの表現も、のちの時代の教会が大切にしたものではなかったかと思うのです。今も私どもは、このように礼拝をしております。そして牧師が、30分、40分という長い話をするのです。けれども本当は、礼拝の説教というのは、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」。それだけですむはずなのです。そしてそれだけですむはずの礼拝説教の中核をなすのは、いつも、「私だ」という、このひと言なのです。神の御子、イエス・キリストが、ここにおられる。このお方が私どものためにいつも祈っていてくださるし、近づいてくださる。「安心しなさい。私だ」。その意味では、礼拝の説教というのは、30分も40分も語る必要はなくて、5秒で終わるはずなのですが、実際には5秒で終わらないのはなぜかというと、私どもが恐れているからです。「私だ」と言われても、心がかたくなになっているからです。そんな私どものかたくなな心をやわらかな心に変えるために、主イエスは今も、どんなに心を砕いて、この礼拝を準備してくださることかと思うのです。その神の愛に、私どもはここで触れるのです。

この礼拝から始まる一週間も、どんな逆風に出会うか分かりません。けれども、私どもの主は生きておられます。「安心しなさい、私だ。恐れることはない」とのみ声を、いつもやわらかな心で聞き取ることができますように。お祈りをいたします。

 

逆風の中で漕ぎ悩んだ弟子たちの姿を、身につまされる思いで読みます。あなたの御子イエスが、こんなに心を砕いて弟子たちのところに来てくださったのに、ますます心がかたくなになったという弟子たちの姿は、あまりにも自分とそっくりで、つらくなるほどです。逆風をついて弟子たちのところに来てくださった主が、今私のためにも祈ってくださる、近づいてくださると信じさせてください。今特に厳しい逆風の中に立たされてると思う者がありましたら、あなたが特別に顧みてくださいますように。「安心しなさい。私だ」と、そのやさしいみ声を鮮やかに聴き取らせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン