主はわたしの羊飼い
マルコによる福音書 第6章30-44節
川崎 公平
主日礼拝
■今日読みました福音書の記事の最後に、「パンを食べた人は、五千人であった」(44節)とあります。昨年度まで用いていた新共同訳聖書では、「男が五千人であった」となっていて、それは現代的な感覚からすると、「え? 何で男だけ数えるの?」と思うのですが、新しい翻訳が「男が」という言葉を削除したのは、そういう現代的な風潮に配慮したからではありません。純粋に語学的に考えて、どうもここは「男が」ではなく、「人間が五千人」と読んだ方がよさそうだ、という結論になったのです。
いずれにしても、この五千人という数字は、きっと多くの方の記憶に残っているものだと思います。五千人が、お腹いっぱいになったのです。そのために費やされた食糧の合計は、パンが5つと魚が2匹。ところが、これはどうも、人数に対して量が多すぎたようで、大量の食べ残しが生じてしまいました。それを12人の弟子たちが手分けして集めたら、全員の籠、12の籠がいっぱいになりました。5つのパンと2匹の魚で五千人。余った食べ残しは12籠。案外多くの方が、この数字を正確に記憶しておられるのではないでしょうか。この出来事に立ち会った12人の弟子たちも、そしてまたこれを伝え聞いたのちの時代の教会の人たちも、絶対に忘れてはならない数字としてこれを大切に記憶し、また語り伝えたのだと思います。
なぜこのような物語が、ここまで愛されるのでしょうか。私の見るところ、この福音書の記事の心臓部とも言える言葉は34節です。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ……」。この五千人には、飼い主がいなかったのです。しかし今は、まことの羊飼いが彼らの前に立っておられます。そこで起こった出来事を見事に預言するかのように歌っているのが、先ほどご一緒に読みました詩編第23篇だと思います。「主は私の羊飼い。/私は乏しいことがない。/主は私を緑の野に伏させ/憩いの汀に伴われる」。そう言えば今日読んだマルコ福音書の記事にも、39節に「皆を組に分けて、青草の上に座らせるように」と書いてありました。「主は私を緑の野に伏させ」。その通りのことがここで起こっております。
■今日の説教の題を、「主はわたしの羊飼い」といたしました。この福音書の記事の主旨をひと言で言い表そうとしたら、きっとこういうことになるに違いない。「主はわたしの羊飼い」。ただし、それだけではないかもしれません。
私がよく説明を求められることは、「なぜ週報にその日の説教の題を載せてくれないか」ということです。いちばん単純な理由は、事前に決めた題と説教の内容がずれることはいくらでもあるからです。たとえば、今日の説教の題は、4週間ほど前に決めました。そしてその後、昨日の夜まで、場合によっては当日の日曜日の朝まで、原稿の準備をします。そのときに、「こういう主題で、こういう話をしてやろう」という考えで説教の準備をしたら、既に説教者は根本的な間違いを犯します。なぜかと言うと、説教の言葉は、説教者が自分で作るものではなくて、神さまからいただくものだからです。これは建前でかっこいいことを言っているのではなくて、私の生活の実感そのものです。そして、聖書の言葉、説教の言葉を神さまからいただいたときに、どうも自分が1か月前に決めた題は不適当であったと、考えを改めさせられる、悔い改めさせられるということが起こりますし、それは事故でも何でもないのであって、むしろそういうところにこそ礼拝説教の本質が現れてくると言わなければなりません。説教の言葉は、神さまからいただくものだからです。
したがって、説教の題があった方が便利なことも多いのですが、当日の週報にまで説教の題が載っているとそれは邪魔なのです。「ああ、今日は要するに、『主はわたしの羊飼い』という話なんだな」という先入観を捨てていただかないと、こちらとしては話しにくくてしょうがない。もう少し端的に申しますと、今朝私が語ろうと思っていることは、「主はわたしの羊飼い」という話ではありません。完全に的外れというわけでもありませんが、明らかに不十分だと思っています。そのことは、話の中で少しずつ明らかにしていきたいと思います。
■この段落は、30節から始まっています。「使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」。これは第6章7節以下で、主イエスが12人の弟子たちを伝道にお遣わしになったことが前提となっています。12節以下を読むと、「十二人は出て行って、悔い改めを宣べ伝えた。また、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒やした」とあるように、この12人は確かな手ごたえを感じて帰って来たようです。それで「使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」。この「残らず」という表現の中にも、弟子たちの充実感がにじみ出ているようです。「イエスさま、私はこんな説教をしました。悪霊どもは逃げて行きました。病気の人もいっぱい癒やしました」。そういう報告を12人が全員、「俺も、俺も」「ぼくも」「わたしも」と、話に切りがなくなってしまったかもしれません。
そのような弟子たちに主イエスが声をかけてくださった、31節の言葉はどのように読むべきでしょうか。「イエスは、『さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行き、しばらく休むがよい』と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである」。ひとつの読み方はこうです。主の弟子としての使命を果たすために、ただがむしゃらに全力疾走を続けることは、必ずしも賢明なことではない。「きみたちは、どうも興奮しすぎているようだけれども、いつの間にかずいぶん疲れがたまっているようだ。ここはひとつ、人びとの喧騒から離れて、静かなところで英気を養いなさい」。もちろんそういう意味もあったでしょう。しかしここで多くの人が、弟子たちはここで、祈るために退くことを求められたのだと考えます。その明確な根拠は、ここに「あなたがただけで、寂しい所へ行き」と書いてあることです。「寂しい所」。しばしば主イエスもまた、ひとりで寂しい所に出て行き、祈っておられました。たとえば第1章35節に、「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」と書いてあります。父なる神と、ふたりきりの時間を大切になさったのです。
しかしもうひとつ、この「寂しい所」と訳されている言葉は、通常は「荒れ野」と訳されます。今第1章35節を読みましたが、さらにさかのぼって第1章の12節には、「それからすぐに、霊はイエスを荒れ野に追いやった」と書いてあります。「イエスは四十日間荒れ野にいて、サタンの試みを受け」、しかもそのサタンの試みの中で、自分が救い主として何をすべきか、神のみ旨を祈りの内に問い続けられたと思うのです。
「サタンの試み」とありますが、この「試み」という言葉は「試練」とも「誘惑」とも訳すことができます。もしかしたら、主イエスは、最初の伝道で成功体験をして帰って来た弟子たちの姿を見て、そこにもサタンの誘惑があることにお気づきになったのかもしれません。興奮しながら、「俺も」「ぼくも」「わたしも」と話し続ける弟子たちの姿を見つめながら、主イエスは言われるのです。「荒れ野に行こう」。祈りの内に、自分たちが何のために使徒として選ばれたのか、もう一度神のみ前で確認することが必要だとお考えになったのかもしれません。
ところがその次の32節以下を読んでいくと、話は思いがけない方向に進んでいきます。「そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気付き、方々の町から徒歩で駆けつけ、彼らより先にそこに着いた」。考えてみると、これは尋常ではない光景です。五千人の群衆です。そんな数の群衆が、どんなことがあっても主イエスの舟を見失うまいと、何としてもあのお方のところに行くのだと言って、「舟はあっちに行ったぞ」「あっちだ」「こっちの道だ」と声をかけ合いながら、「方々の町から徒歩で駆けつけ、彼らより先にそこに着いた」。そこに集まったのが、繰り返しますが五千人です。それで、34節です。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」。
■今、さしあたり30節から34節までの話の流れを追ってみました。皆さんは、この話をどのように読み取られたでしょうか。伝道の旅から弟子たちが帰って来た。皆、充実感に満ち溢れていた。と、いうときに、「あなたがたは少し疲れすぎているようだから、今すぐ休みなさい」という意味だとすると、話がうまくつながらないのです。もしそういうことなら、もう一度舟を出して、何とか群衆から逃れるべきであったのです。けれどもそうではなくて、「今こそ、あなたがたは祈らなければならない」ということであれば、実はたいへんすんなりと、話がつながるのです。少なくとも主イエスにとっては、五千人の群衆のせいで、静かな祈りの時間が邪魔された、ということにはなりませんでした。むしろ、この群衆を目の当たりにして、ますます主イエスの祈りは深まりました。その主イエスの祈りの心を伝えるのが34節です。
イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
主イエスの祈りと、主イエスの深い憐れみが、最高潮に達しました。なぜかと言うと、この群衆には飼い主がいないからです。けれども今は、まことの羊飼いがここにおられます。「主は私の羊飼い。/私は乏しいことがない。/主は私を緑の野に伏させ/憩いの汀に伴われる」。そのために主イエスは、34節の最後に書いてあるように、「いろいろと教え始められた」。その教えは、本当は「教え」などという平凡な言葉で言い表すことのできない深みを持っていたと思います。五千人の群衆が、時間を忘れて主の言葉に聞き入りました。誰ひとり、途中で帰ろうとはしなかったのです。なぜならば、「主はわたしの羊飼い」。もし、今このお方から離れたら、わたしは死ぬ。主はわたしの羊飼いだから。
■しかし、先ほどから確認しておりますように、ここにいるのは主イエスだけではありません、荒れ野に連れて来られた12人の弟子たちがいます。荒れ野とは、祈りの場所です。しかしまた、サタンの誘惑が集中的に襲ってくる場所です。だからこそ、祈らなければならない。主イエスはここで、12人の弟子たちをご自分の祈りの中に引きずり込もうとするのです。「どうだ、この群衆を見て何も思わないか。この人たちには、飼い主がいないんだ。それなら、どうするかね」。どうすればいいのでしょうか。そのことを明らかにするのが、35節以下の話です。
そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちが御もとに来て言った。「ここは寂しい所で、もう時も遅くなりました。人々を解散し、周りの里や村へ行ってめいめいで何か食べる物を買うようにさせてください」。イエスはお答えになった。「あなたがたの手で食べ物をあげなさい」。弟子たちは、「私たちが二百デナリオンものパンを買いに行って、みんなに食べさせるのですか」と言った。
弟子たちの提案は常識的なものであり、実際にこれまでも同じようなことをしたことがあったのかもしれません。「じゃあ、そろそろお開きにしましょうか。もしよかったらまた来なさい」というようなことを、この弟子たちはいつも言い慣れていたのかもしれません。ところが主イエスは、いつもとは違うことを仰せになりました。「解散なんてとんでもない。あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。弟子たちの中に計算の早い人がいたんでしょう。「えーと、ざっと見積もって五千人だから、最低でも二百デナリオンのパンが必要ですね」。だいたい何百万円という値段を考えていただければよい。問題は、そんなお金はないということです。そしてそこにも、サタンの誘惑があったかもしれません。
主イエスはしかし、まさしくサタンの誘惑を退けるかのように、弟子たちに言われました。「二百デナリオンなんかいらないよ。あなたがたが持っているパンで十分なんだから。いくつあるか、数えてごらんなさい」。「パンが5つ、それに魚が2匹です」。ところが、それを五千人に配ったら、皆が満腹したというのです。
■皆さんが聖書の解説書のようなものをお読みになると、この奇跡についてこういう説明を読むことがあるかもしれません。どうしてこんな不思議なことが起こったか。よくこんなうまい説明を思いつくなと感心するのですが、実は群衆の中にも自分のお弁当を持ってきていた人が、しかも結構な数いたのだ、というのです。けれども、どうも隣のご家族は用意がないようで、自分だけお弁当を開くのは気が引ける。と、思っていたところで、主イエスと弟子たちが決して豊かとは言えない晩ごはんを仲良く食べ始めたのを見て、なるほど、皆で分ければ何とかなるかもしれないと思って、大げさに言えば愛の波紋がどんどん広がって、結果としては誰もひもじい思いをせずにすんだ……という説明を今でも大真面目に書く人がいますが、その説明は絶対に違います。聖書を真面目に読まないから、そういうふざけた説明が生まれるのです。
聖書を真面目に読むとはどういうことか。聖書が書いていることを、書いてあるままに読むということです。主イエスは、37節で、「あなたがたの手で食べ物をあげなさい」と言われたのです。「あなたがたがやらずに、誰がやるのか」。そして実際に弟子たちは、自分たちの5つのパンと、自分たちの2匹の魚を、五千人に与えたのです。皆が皆のお弁当を分け合ったという話ではありません。「あなたがたが、与えなさい」。
そうすると、「主はわたしの羊飼い」、今日の説教の題をそのように決めてみたのですが、それはどうも不適当であった、不十分であったと最初に申しました。主イエスはここで、「わたしが彼らの羊飼いなんだから、お前たちは横で見てろ」とは言われませんでした。「あなたがたが、この群衆の羊飼いになるんだ。そのために、わたしはあなたがたを遣わしたのだ。あなたがたは、既に福音を語る喜びを知っただろう。悪霊を追い出し、病気を癒やしただろう。今ここでも、この五千人を養うのは、あなたがたなんだ」。そうすると、「主はわたしの羊飼い」という私の説教の題は、ずいぶん甘ったれた理解だと言わなければなりません。その甘ったれた私どもの心を揺り動かすような聖書の記事だと思うのです。
きっと私ども以上に、12人の弟子たちは本当に戸惑ったと思います。「あなたがたの手で食べ物をあげなさい」。もしかしたら、それまで有頂天になっていた弟子たちは、たちまち天狗の鼻を折られるようなことになったかもしれませんが、もちろん、主イエスは、「ほーら見たことか、思い上がるな」と言おうとされたわけでもないのです。
■「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆にお分けになった」(41節)。ここに「祝福し」とあります。新共同訳聖書では「賛美の祈りを唱え」となっていましたが、確かに新しい翻訳の方が原文には忠実なのです。しかし「賛美の祈りを唱え」という新共同訳の味わいも捨てがたい。主イエスは、弟子たちの持っていた僅かなパンと、僅かな魚を手にとって、天を仰いで祝福してくださったのです。神を賛美してくださったのです。何気ない表現ですが、心を打たれます。
「5つのパンと2匹の魚」というのは、言ってみれば私どもの無力さの象徴でしょう。私どもはいつもそのように、自分の持っているものを数えるのです。「パンが5つ、魚が2匹。全然足りませんよ。せめて二百デナリオンくらいないと。ほら、神さま、これがうちの教会の会計報告です。全然足りないの、分かりますよね?」
ところが主イエスは、弟子たちのパンと魚を取って、「増えろ、増えろ」と呪文を唱えたのではありません。「神よ、パンが5つしかありません。これじゃ全然足りません。増やしてください」と祈られたのでは、ないのです。天を仰いで祝福し、あるいは賛美をささげ……。「神さま、ご覧ください、彼らのパンは5つです。魚は2匹です。すばらしいですね!」 私は思うのですが、私どもはなかなか自分の持っているものを手に取って、祝福したり賛美したりすることができません。その自分の持っているものというのは、お金でもいいし、才能でもいいし、境遇でもいいのです。自分には二百デナリオンもあると思い上がったり、パンが5つしかないと不安になったり、自慢したり、ひがんだり、ねたんだり、まさしくそれこそが、サタンの誘惑ではないでしょうか。ところが主イエスは、弟子たちのパンと魚を手に取って、まるで幼子のように何の疑問も持たないかのように、「神さま、ありがとうございます! これをご覧ください、すばらしいですね!」
その主イエスの手から、弟子たちは自分たちのパンを受け取りました。自分たちの魚を、主の手から受け取り直したのです。念のために申しますが、主が弟子たちの手にパンをお返しになったとき、パンは依然として、5つのままです。主イエスが祝福したら、パンと魚が千倍に増えた、なんて話はどこにも書いていない。41節の最後に、「二匹の魚も皆にお分けになった」と書いてあるではないですか。パンは5つのまま、魚も依然として2匹のまま。それを、そのまま、五千人に分けたのです。それなのに、「人々は皆、食べて満腹した。そして、パン切れと魚の残りを集めると、十二の籠いっぱいになった。パンを食べた人は、五千人であった」(42~44節)。
12人の弟子たちは、何を思ったでしょうか。ひとりひと籠、いっぱいになったパンと魚の残りを見つめながら、その重みを体いっぱいにずっしりと感じながら……。思い上がりを打ち砕かれたかもしれません。二百デナリオンとか何とか、サタンの誘惑に見事にかかった自分の言葉を恥じたかもしれません。しかしまた、主イエスに召されて、主イエスと共に生きる者の喜びを、体いっぱいに感じたに違いないのです。
私どもも小さな存在です。二百デナリオンはおろか、5つのパンすら持っていないかもしれません。けれどもそんな私どもの貧しさを、主イエスが手にとって祝福してくださるなら、私どもも主の弟子として立つことができます。そしてそのときに、最後まで忘れてはならないことは、「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」んでくださった、まことの羊飼いの憐れみであります。その憐れみに巻き込まれるようにして、私どもも今、立つべき場所を定めることができるのです。お祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる御神、今主のみもとに召し出され、主の憐れみに巻き込まれながら、私どももまた、自分の持っている貧しいものを差し出すようにと求められていると思います。自分の持っているものについて、思い上がったり、卑屈になったり、サタンの誘惑に負けっぱなしの私どもを、どうか解き放ってください。飼い主のいない羊のようなこの世界を、あなたが今も、どんなに深いまなざしでご覧になっているかと思います。「あなたがたが、彼らの羊飼いになるのだ」と、どうしてもその言葉にたじろいでしまいます。今、私どもの貧しさを手にとって、天を仰いで祝福してくださる御子イエスのお姿を、今ここでも鮮やかに仰がせてください。感謝し、主のみ名によって祈り願います。アーメン