何も奇跡を行えなかったイエス
川崎 公平
マルコによる福音書 第6章1-6節
主日礼拝
■先ほど読みましたマルコによる福音書第6章の5節は、たいへん衝撃的なものがあると思います。「そこでは、ごく僅かの病人に手を置いて癒やされたほかは、何も奇跡を行うことがおできにならなかった」。「奇跡をしなかった」というのではないのです。ごく僅かな例外を除いて、このとき主イエスは「何も奇跡を行うことがおできにならなかった」と書いてあります。全能の神のひとり子であられる主イエス・キリストに、できないことがあったというのです。福音書を書いたマルコは、この一文にたいへんな思いを込めたに違いないと思うのです。
ここまで、マルコによる福音書は連続していくつかの奇跡物語を書き記してきました。それは具体的には、第4章の最後のところから始まります。嵐を静める奇跡。悪霊を追い出す奇跡。病人を癒やし、死人を生き返らせ、そのように数々の奇跡を行ってみせた主イエスが、ところがここでは打って変わって、何も奇跡を行うことができなかったという、たいへん不思議な情景を福音書は伝えるのです。イエスさまにできないことなんかあるか、おかしいじゃないか、という感想もあり得るかもしれませんが、福音書を書いたマルコは、深い恐れをもってこの言葉を書き記したと思います。なぜなら、ここで主イエスがほとんど何も奇跡を行うことができなかったのは、「人々の不信仰」のゆえであったからです。6節に、「そして、人々の不信仰に驚かれた」と書いてあります。
聖書に出てくる奇跡というのは、単純なようで、なかなか一筋縄ではいかないものがあると思います。そうではないでしょうか。福音書を読んでいると、いろんな奇跡物語が出てくるのです。そしてそういう物語を読みながら、「こんなおとぎ話」とばかにしたり、でも本当に困ったとき、もがくような思いで、「もし奇跡が起こったら」と、ふと夢を見るような思いに誘われたり、でも現実にはやっぱり奇跡なんか起こりっこないんだと醒めた思いになったり……。奇跡なんて、本当にあるのでしょうか。けれども本当は、私どもはもっと違うことを心配しなければならないのかもしれません。主イエスはここで、ナザレの人びとの不信仰をご覧になって、びっくりされたと書いてあります。そしてそのために、奇跡を行うことがおできにならなかった。「どうして、ここまで不信仰になれるんだろう。人間というのは、どこまで神を侮ることができるんだろう」。そのように、今主イエスがこの教会をご覧になって、その不信仰にびっくりされるということがなければよいがと、ふと思うのです。
なぜ、不信仰はあるでしょうか。神を信じない不信仰というのは、主イエスからご覧になると、驚きの対象でしかないのです。そのことを、私どもは今一度、真剣に考え直さなければならないと思うのです。
■この福音書の記事の内容自体は、非常に単純です。主イエスが、いわば久しぶりに里帰りをなさったような形で、生まれ故郷であるナザレの会堂で説教されたというのです。当時の習慣では、大人の男性は誰でも会堂で説教することができたそうです。「やあ、イエスくん、久しぶり。なんかすごい貫禄付いたね。今日はひとつ、きみが説教してくれないか」。そうしたら、噂通り素晴らしい説教で、ナザレの人びとは、一方では嬉しかったと思います。ああ、昔はあんなにちっちゃかったのに、こんな立派になって……。その説教を聴いて、人びとはそれこそ驚いたと、2節に書いてあります。
「この人は、このようなことをどこから得たのだろうか。この人の授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡は一体何か」。
「授かった知恵」と言っています。「どうもこれは、勉強してどうにかなるレベルではなさそうだ。神から授かった知恵だ。そうとしか考えられない」。その意味では、ナザレの人たちはきちんと聴くべきものを聴き取っているのです。しかもナザレの人びとは、奇跡もきちんと信じています。「その手で行われるこのような奇跡は一体何か」。奇跡なんて、そんな非科学的なことは、などと言わずに、きちんと驚いています。きちんと驚きながら、そして深い感銘を受けながら、ところがそこに信仰が生まれることはなかったというのは、たいへん不思議なことのようですが、よく分かるような気もします。なぜなら、3節以下にこう書いてあるからです。
「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで私たちと一緒に住んでいるではないか」。こうして、人々はイエスにつまずいた。イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親族、家族の間だけである」(3、4節)。
考えてみればたいへん不思議なことですが、主イエスは30歳になるまで、しがない町大工としての立場を貫かれたのです。きっと人びとに愛された大工さんであったと思います。この大工というのは、家を建てるような仕事ばかりでなく、家具とかいろんな道具類をトンカチやって作るような仕事も含んだようです。「おーい、うちの棚が壊れちゃって、急いで何とかしてくれないか」。「よーし、任せとけ」。神のひとり子であられるお方が、そのことと何ら矛盾することなく、まったく人の目に立つことのない、ひとりの村人としての立場を、30歳になるまで貫かれたのです。まさか自分たちの隣に神の子が生活しているなんて、誰も考えもしなかったのです。驚くべきことです。しかもこのお方は、いわゆる神童ではありませんでした。よく私どもの周りにも、神童と呼ばれるような子どもが現れます。小さな頃からとんでもない才能を発揮して、それが大人になってますますすごいことになるか、それとも二十過ぎればただの人になるか、ところが主イエスは、神童でも天才でもなかったらしいのです。それどころか兄弟姉妹、親戚縁者含めて際立った存在はいなかったらしく、だからこそ3節に書いてあるようなつまずきの言葉が、思わず村人たちの口から漏れました。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで私たちと一緒に住んでいるではないか」。繰り返しますが、神のひとり子であられるお方が、その〈まことの神〉としての身分と何ら矛盾することなく、〈まことの人〉としての生活を貫かれたのです。それは、神なのに神さまらしくないという話でもないのです。むしろ神ご自身に他ならないお方だったからこそ、徹底してご自分を隠すことがおできになったのです。フィリピの信徒への手紙第2章6節以下にこう書いてあります。
キリストは
神の形でありながら
神と等しくあることに固執しようとは思わず
かえって自分を無にして
僕の形をとり
人間と同じ者になられました。
神のみ子イエスは、徹底的に「人間と同じ者になられました」。「自分を無にして」であります。そのような神の子キリストを見て、信仰が生まれるのか、それともかえって不信仰が生まれるのか。賛美が生まれるのか、それとも……。フィリピの信徒への手紙はここで、ここまでへりくだってくださったキリストを賛美する歌を歌うのですが、むしろそれが、つまずきを生んでしまうのか。もしそうなら、それはなぜなのでしょうか。
■ここでひとつ私どもの目を引く言葉は4節です。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親族、家族の間だけである」。これも容易に理解できる言葉です。預言者は、他のところではどんなに尊敬されても、自分の故郷ではそうはいかない。他のところでは先生、先生と尊敬される人であっても、家に帰ればただの人。そうだな、きっとそういうことはあるだろうな。そう言えば、自分だって似た経験があるぞ。
皆さんの中の多くの方が、いちばん伝道したいのは自分の家族だと思いながら、それがいちばん難しいと感じておられるかもしれません。家族に伝道するというのは、伝道の方法としていちばん手っ取り早いように思えるのですが、実はいちばん難しい。なぜなら、家族は自分の罪深さを全部知っているからです。自分がどんなにだらしない人間か、自分がどんなにわがままで、薄情な人間であるか、全部ばれている家族に、神の愛を伝えよう、聖書の素晴らしいメッセージを伝えてみようと思っても、「は? どの口が言うの?」などと言われると、ぐうの音も出ない。それでしまいには、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親族、家族の間だけである」。そうだな、イエスさまだって無理だったんだし。家族に敬われないとか、いよいよ自分も預言者の仲間入りかな……というレベルでこの言葉を理解したつもりになったら、大間違いであります。
ここであまり多くのことを話す必要はないのです。主イエスは、故郷のナザレでは受け入れられなかった。尊敬を受けなかった。しかしそれならば、他の町ではどうだったのでしょうか。主イエス・キリストは、故郷ナザレ以外では、正しく敬われたのでしょうか。死ぬまで、最後まで、敬われたでしょうか。むしろ、遂に誰もこのお方を敬わなかったからこそ、このお方は十字架に付けられたのではないでしょうか。ヨハネによる福音書第1章11節に、こういう言葉があります。
言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった。
この「言」というのはヨハネによる福音書独特の表現で、人となられた神、イエス・キリストのことを意味します。主イエス・キリストは、自分のところへ来たのに、自分のふるさとに来たのに、民はこれを受け入れなかったというのです。神の深い痛みと、深い悲しみを教えてくれる言葉です。しかもここに、どんなに深い神の愛が込められているか、お分かりになるでしょうか。「あなたがたがどんなにわたしを拒んでも、ここがわたしの故郷なんだ」。そうすると、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」というこの言葉の中に、実はどんなに深いキリストの愛が込められているか、そのことに気づきます。「あなたがどんなに不信仰でも、それでもあなたはわたしの家族なんだ」。
主イエスの故郷は、本当は、ナザレだけではありません。「言は自分のところへ来たが……」。天におられた神のひとり子が、この地上をご自分のふるさととしてくださって、そして私どものことをも、ご自分の家族と呼んでくださるのです。その家族に受け入れられない悲しみを、主はこのようにお語りになるのです。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親族、家族の間だけである」。ここはわたしの故郷なのに。この人たちは、わたしの家族なのに。そこまで徹底して、私どもと同じ場所に立ってくださったキリストの愛を、フィリピの信徒への手紙はこのように歌うのです。
キリストは
神の形でありながら
神と等しくあることに固執しようとは思わず
かえって自分を無にして
僕の形をとり
人間と同じ者になられました。
へりくだって、死に至るまで
それも十字架の死に至るまで
従順でした。
(フィリピの信徒への手紙第2章6~8節)
■今日の説教の題を、「何も奇跡を行えなかったイエス」としました。この題を決めたとき、私が最初から思っていたことがあります。「何も奇跡を行えなかったイエス」。それは、このときのナザレの村での話だけではないのです。このナザレの人びとの不信仰がさらに大きく膨れ上がり、遂にその不信仰が主イエスを飲み込んでしまうかのごとくに、人間が、神を十字架で殺してしまいました。「イエスを十字架につけよ、イエスを十字架につけよ」と人びとは叫び続けました。「言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった」。そして人びとは、十字架につけられた主イエスに向かってこのように申しました。「おーい、お前、メシアだってな。たくさん奇跡もやったそうじゃないか。それなら、今すぐ十字架から降りてみろよ。それを見たら、信じてやってもいいんだぞ」。もちろん主イエスは、決して十字架から降りるようなことをなさいませんでした。「人々の不信仰に驚かれ」ながら、何の奇跡もなさらず、ただ罵られるまま、ただ殺されるまま、最後まで沈黙と、そして父なる神への従順を貫かれました。
本当はそこで、人びとは気づくべきだったのです。なぜここでイエスは奇跡をなさらないのか。なぜここで、神の子イエスが十字架から降りて来られないのか。神のひとり子が、まさしく神としての力を最大限発揮されたからこそ、「かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました」。私どもの家族となってくださるために、そうしてくださったのです。ところが人びとは、そのような神の子の姿を見ながら、ただあざ笑うだけであったというのです。「ぎゃはは、神の子だって! なーんにもできないでやんの」。そのあざ笑う声のいちばん深いところには、遂に救いを見出すことができない人間の深い絶望が隠されておりました。本当は、心のどこかで奇跡を待ち望んでいるくせに、奇跡なんかあるわけないと斜に構えたり、でもやっぱり、もし神がいるなら奇跡でも何でも起こして助けてくれないかと夢を見てみたり……。結局、どこにも救いを見出すことのできないみじめな人間が最後にすることは、虚しい笑いで神をあざけることでしかないのです。けれどもそんな私どものために、神がしてくださった本当の奇跡とは、神ご自身が人となってくださって、ここをご自分の故郷としてくださったこと、そして私どもをご自分の家族と呼んでくださったこと、これにまさる神の恵みの奇跡はないのであります。
主の十字架の前で、ただひとり、ローマの百人隊長がそのことに気づくことができました。十字架につけられた主イエスを仰ぎながら、「まことに、この人は神の子だった」(第15章39節)と言い表したのです。今、私どもの目の前にも、信ずべきお方が与えられているのですから、目を開いて、耳を開いて、心を開いて、わが主イエス、わが神イエスと、真実の礼拝をこのお方におささげしたいと思います。お祈りをいたします。
主イエスよ、あなたはここをご自分の故郷としてくださいました。私どもを、あなたの家族と呼んでくださいました。今はただ悔い改めて、あなたの愛を受け入れさせてください。わたしたちの家族を、わたしたちの町を、この国を、どうかあなたの住まわれる場所としてくださいますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン