正気に返ってイエスのもとに座った男の物語
川崎 公平
マルコによる福音書 第5章1-20節
主日礼拝
■鈴木雅明さんという音楽家がいます。日本におけるバッハ演奏の第一人者としてよく知られた方で、この教会でも演奏会をしてくださったことがありますので、親しみをもって覚えておられる方も多いと思います。ただ音楽家としてでなく、キリスト者としても尊敬できる方だと思っています。最近ある書物の中で鈴木雅明さんのインタビュー記事を読みました。聖書やキリスト教とはあまり関係ない出版物であるはずですが、にもかかわらずかなり大胆な伝道の言葉になっていると感じました。神の思いを理解せずしてバッハの音楽を理解することはできないということを、はっきりと語っておられます。
特に印象に残ったことは、その終わりの方で、こういうことを言っておられるのです。「バッハの音楽は、自分を正してくれる」。実は同じことを別の機会でも語ったことがあったのだけれども、そのときには勝手に編集者が「癒される」と書き換えてしまった。いやいや、ぼくは「癒される」なんて言ってない、「正される」と言ったんだ。もちろん、バッハの音楽というのは、「癒される」ということもあると思うし、最近の流行りの言い方では「整う」なんてこともあるかもしれない。けれども自分にとってはやっぱりそれでは足りないので、バッハの音楽によって「心が正される」。バッハの音楽にそういう偉大な力がある、神秘的な力があるという話ではありません。バッハの音楽は、すべて神を拝むためにささげられたもので、その音楽の背後におられる神が、私どもを正してくださるということです。
「われわれは、正されなければならないのだ」。こういう言葉を語ってくれる音楽家が、果たしてどれだけいるだろうかと思いました。静かな口調ですが、しかしそれは現代という時代に対するかなりはっきりとした(もしかしたら、憤りをも含んだ)問いかけになっていると、私は感じました。現代は――という言い方がきっと許されるだろうと思いますが――癒しを求めている時代だと思います。それこそ「整う」などという現代的な表現は、そのことをよく表していると思います。何かとストレスの多い社会なのです。ふつうに生きているだけで心が乱れ、体が乱れ、そういう自分を整えるために、たとえばサウナにでも入ってみよう。ヨガもいいんじゃないか。あるいは体操をしてみたり、断食をしてみたり、場合によっては宗教音楽を聴いてみたり、そうやって、ああ、癒された。心が整った。体が整った。自律神経が整った。けれどもこのすぐれた教会音楽家がひそかに問いかけていることは、「われわれは、神によって正されなければならないのだ」ということだと思うのです。この国に住む、おそらくほとんどすべての人が、癒しを求めていると思います。そしてもしかしたら相当数の人が、癒しを与えてくださる神をどこかで求めているのかもしれません。けれども、自分は神に正されなければならないとは、ちっとも考えようとしないのです。そこに、人間の根本的な問題があると思うのです。
■悪霊に取りつかれた人と、主イエスとの出会いを伝える福音書の記事を読みました。「この人は墓場を住みかとしており、もはや誰も、鎖を用いてさえつなぎ止めておくことはできなかった」(3節)。「彼は夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分の体を傷つけていた」(5節)。こういう表現を読むと、ああ、これは頭のどうかした人だと誰もが思うでしょうし、こういう人が自分の近くにいなくてよかった、という感想を持つ方がいても不思議ではありませんし、事実この地方に住んでいた人たちは、このひとりの男、たったひとりのためにどれだけ苦労したか分からないのです。しかしこの聖書の記事をよく読めば読むほど、決してこの男は特別な人間ではないだろうと思わされます。
たとえば、この男は墓場を住みかとしていたと書いてあります。なぜわざわざ墓場なんかに住むのかと思いますが、当時は岩山に掘った横穴に遺体を置きました。この悪霊憑きの男が住んでいた穴にどのくらいの状態の遺体があったのか、それは分かりませんが、とにかく雨露をしのぐことはできたのです。それにしたって尋常なことではありません。私は思うのですが、この人は、生きた人間が怖くなったのだと思います。だから、墓場がいちばん心の安らぐ場所になったのです。私どもも、本当に絶望したときには、暗い部屋に引きこもることがあるかもしれません。死体の転がっているところで生活するなんて、考えるだけでぞっとしますが、生きている人間と死んだ人間の身体と、どっちが怖いでしょうか。死んだ人間の身体は、決して人に危害を与えません。「きみのそういうところがだめなんだよ」とか、うるさいことを言う人は墓場にはひとりもいません。つまりこの人は、生きている人と一緒に生きることができなくなって、それで死人の居場所である墓場にしか自分の住みかを見出すことができなくなったのです。
その関連で、もうひとつこの記事において強烈な印象を残すのは、鎖とか足枷とかいう言葉です。この人は、「度々足枷や鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり足枷を砕くので、誰も彼を押さえつけることができなかったのである」(4節)と書いてあります。なぜ鎖でつながれたのでしょうか。そうでもしないと、この人が周りの人に危害を加えてしまうからでしょう。一緒に生きるべき人を傷つけ、人間関係を破壊し、それを誰も止めることができないのです。
ここでひとつ、誤解してはいけないことがあります。こういう困ったひとりの人を、周りの人たちがよってたかって鎖で縛って墓場に閉じ込めた、という話ではないのです。この記事をよく読むと話はまったく逆で、むしろ周りの人たちは、何とかしてこの人と一緒に生きようとしたらしいのです。「そんな乱暴なことやっちゃいけないよ。それじゃあ一緒に生活できないじゃないか」。それでやむなく鎖で縛りつけるという不幸な方法しか残らなかったわけですが、ところがこの人は悪霊に憑かれたことによって、その鎖をも引きちぎる力を得てしまいました。すべての足枷を砕いて、自由になって、墓場に逃げて行ったというのです。4節の最初には、「度々」と書いてあります。周りの人たちの、なみなみならぬ苦労が窺えます。「度々足枷や鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり足枷を砕くので、誰も彼を押さえつけることができなかったのである」。何度呼び戻しても墓場に逃げて行ってしまうひとりの人を、それでも何とかして、鎖で縛ってでも自分たちのもとに呼び戻そうとして、それでもこの人は鎖を引きちぎって墓場に逃げた。それほどまでに、この人は生きた人間との関わりを拒否し続けたというのです。
5節には、「彼は夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分の体を傷つけていた」とあります。なぜ叫び続けたのでしょうか。その叫びを受け止めてくれる人を、悲しいほどに激しく求めていたのではないでしょうか。「誰か俺の話を聞いてくれ。俺のことを受け入れてくれる人はいないのか」。すべての人を拒絶しながら、しかも同時に自分を本当に愛してくれる人を求めているのです。そういう人間が、「石で自分の体を傷つけていた」というのは……この言葉は、人によっては、読むに堪えないものがあるかもしれません。現代でも、いろんな形で自分の体を傷つける人はいるものです。「自分なんか生きていてもしょうがないんだ」。「みんなわたしのことが嫌いなんだ」。「わたしなんか死ねって、みんな思っているんだ」。それなら、といって、自分を傷つけたり、自分を殺したり、あるいは暗い部屋に引きこもったり。けれどもそういう人が、実はどんなに激しく人のぬくもりを求めているか、自分を受け入れてくれる人を求めているか。私どもも、そのことをよく知っているのではないでしょうか。自分自身のこととして。
■この悪霊に憑かれた人について、いささか詳しすぎる考察をしたかもしれませんが、ここで何と言っても決定的なことは、このひとりの男の前に、神の子イエスが立ってくださったということです。そのとき、何が起こったでしょうか。この悪霊に憑かれた男は、狂ったように主イエスをののしっているようにも読めますが、ひとつ不思議に思うことは、ここでマルコによる福音書は、「イエスが、悪霊憑きの男に会ってくださった。イエスが、この人のところに来てくださった」という言い方をしないのです。そうではなくて、たとえば2節、「イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場から出て来て、イエスに会った」。悪霊憑きの人が、自分から出て来てイエスに会ったのです。主語はイエスではなく、悪霊憑きの人です。6節以下も同様で、「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、『いと高き神の子イエス、構わないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい』と大声で叫んだ」。わざわざ遠くから、この人が走り寄ってきたのです。そんなにいやなら出て来なければいいのに、わざわざ主イエスのもとに走り寄ってひれ伏したというのは、一筋縄ではいかない人間の本性をよく表しているのではないでしょうか。
何とかしてほしいのです。どうにかして癒されたいと願っているのです。ところがそこに神ご自身に他ならないお方が現れたときに、思わず走り寄って、そしてひれ伏してまで何と言ったかというと、「いと高き神の子イエス、構わないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」。あっちに行ってくれ。関わらないでくれ。
私はこう思うのですが、もしもここで、神の子イエスではなくて、もっと別の癒しのカウンセラーが現れたら、この男はもう少し違った態度をとったかもしれません。こういう体操をやってみたらどうですか、効きますよ。寝る前にこういう音楽を聴いてみたらどうですか、きっとあなたの心が整いますよ。ちょっとものの考え方を変えるだけで、あなたの人生、ずっと楽になりますよ……。私どもの生きているこの時代にも、いろんな癒しを提供してくれる人がいるのです。そのこと自体、悪いことでも何でもありません。ところがここで、神の子イエスが悪霊に憑かれた男の前に現れたとき、この男は狂ったように叫び始めました。なぜかと言うと、このお方は、ただわれわれが癒されるためではなく、われわれが整うためではなく、どうしても神の力によって正されなければならない罪があったから、われわれの存在が根本的に歪んでいたから、これを正すために現れたのです。そのときに本性を現した悪霊の言葉が、これであります。「いと高き神の子イエス、構わないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」。「こっちに来るな。頼むから放っておいてくれ。どうして俺に関わるんだ」。
本当は癒してほしいのに、本当は何とかしてほしいのに、何よりも愛に飢えているのに……それなのに、こういうことを言ってしまうのです。人間というものは。
悪霊などと言うと、何だか突拍子もないような、例外的に頭のどうかしている人の話だろうと思うかもしれませんが、決してそんなことはないと思います。伝道者パウロという人は、ローマの信徒への手紙第7章で、自分のうちに悪霊が住んでいるとは言いませんでしたが、「罪が住んでいる」と言いました。このパウロの言葉をそのまま、この悪霊憑きの男の言葉として読んでみても、何も矛盾しません。
私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。……私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。……私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。(15、18~20、24節)
説明抜きに分かる言葉だと思います。「死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか」。悪霊憑きの男が、何を叫ぼうとどんなに暴れようと、主イエスはこの男を救ってくださいます。この男を愛しておられるからです。「汚れた霊、この人から出て行け」。悪霊よ、この人はお前のものじゃない。この人はわたしのものなんだから、わたしに返せ!
■そのあと、悪霊と主イエスとの間で、不思議なやり取りがありまして、しかし何と言っても強烈な印象を残すことは、この男が救われるために、豚の大群が犠牲になったということです。「レギオン」という名を持つ悪霊が、これ以上この人に住み続けることができなくなったので、主イエスの許可を得て豚の群れに乗り移ったというのですが――レギオンというのは、ローマの軍隊の単位で、六千人の兵士の集まりだったそうです。その大量の兵士になぞらえられるような悪霊の群れが、主イエスの許可を得て、豚の群れに乗り移ったら、何と二千匹の豚が、雪崩を打って湖に落ちていったというのです。誰よりも、悪霊に憑かれていたこの人が度肝を抜かれたと思います。「ああ、これがわたしを狂わせていたのか。こんなものがわたしの内に住んでいたのか」。
しかし本当は、豚の大群よりももっと大切な場面は、15節であると思います。「そして、イエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった」。服を着たというのは、人間としての生活の秩序に戻ってきたということでしょう。そして「正気になって座っている」というのですが、それはもちろん、主イエスの足もとに座ったということです。この人は、そのようにして、ようやく自分の場所を見出すことができました。座るというのは、弟子が先生に教えを乞うときの姿勢であるとも言われます。その意味では、この15節の「正気になって座っている」というのは、私どもの礼拝の姿勢を描いているということにもなると思います。主イエスの足もとに座って、み言葉を聞くのです。それ以外に、私どもが正気になる道はないのです。
いろんな癒しが溢れているこの時代だと思うのです。だがしかし、本当に私を正してくれる力はどこにあるのだろうか。たとえば、バッハの音楽も、もともとは人間を正してくださる神を礼拝するために作られたはずなのに、つまりわれわれが正気になって、神の足もとにひざまずくための音楽でしかなかったのに、それすらも自分の楽しみとか、癒しのためにしか聞こうとしない人間の自分勝手な心は、実はそれこそが悪霊と呼ぶべきものではないかと思うのです。キリストのみ言葉のもとに座らないと。それ以外に、私どもが救われる道はないのです。
この福音書の記事の中で、たいへん心寒い思いにさせられることは、しかしこのような出来事のあと、すぐに主イエスはこの地方から追い出されてしまったということです。「成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人に起こったことや豚のことを人々に語って聞かせた。そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと願い始めた」(16、17節)。なぜこんなことになったのでしょうか。まるで、皆が悪霊に取りつかれてしまったかのようです。「いと高き神の子イエス、構わないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」。はっきり言って迷惑だから、出て行ってほしい。関わらないでほしい。なぜそんなことを言ったか。突然豚の群れがいなくなって、その経済的な損失を嘆いたのだと説明する人もいます。そうかもしれません。普通に考えて、何千万円、何億円という損失が生じたのです。ひとりの人が救われるために、それだけの犠牲が必要だったわけですが、そのひとりの人の救いよりも、豚がいなくなったことの方が重大だったというのは、これもまた、私ども人間の本性を見事に言い当てる出来事であるかもしれません。自分たちの仲間が悪霊に憑かれて、「夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分の体を傷つけていた」、そのようなところから救われたという出来事は、本来、どんなに喜ぶべきことであったでしょうか。けれども、そのために豚二千匹が失われたとしたら、やっぱり豚の方が惜しい。一億円の方がもったいない。だから、イエスよ、出て行ってくれ。
■けれども、それでも、主イエスはこの地方の人びとのことを愛しておられましたから、最後に、この土地にひとりの伝道者をお遣わしになりました。
イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊に取りつかれていた人が、お供をしたいと願った。しかし、イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家族のもとに帰って、主があなたにしてくださったこと、また、あなたを憐れんでくださったことを、ことごとく知らせなさい」。そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことを、ことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた(18~20節)。
この人は、もちろん、鎖を引きちぎってでも墓場に逃れたかつての自分の生活のことを語ったでしょう。豚の大群が湖に落ちていったことも語ったでしょう。それをまず家族に語る。その地方の人びとに語る。もしかしたら、いちばん苦しいことであったかもしれません。聞く人は皆、この男の過去の荒れた生活や、恥ずかしい姿を全部知っているのです。そういう人たちのところに帰って、主があなたにしてくださったことを語れと言われるのです。せっかく過去の崩れた生活から救われたのですから、心機一転、新天地にはばたいてみたいというのが、この人の隠れた願いであったかもしれません。けれども、主イエスの御心はそれとは違っていたようです。「主があなたにしてくださったこと、また、あなたを憐れんでくださったことを、ことごとく知らせなさい」。私どもが伝道のために遣わされる、その相手もまた、私どもがろくでもない人間であることをよく知っているかもしれません。だからこそ、私どもに語り得ることは、結局このひとつのことでしかないのです。「主があなたにしてくださったこと、また、あなたを憐れんでくださったことを、ことごとく知らせなさい」。
このあと、聖餐を祝います。いつも聖餐への招きの言葉として、あの伝道者パウロの言葉を読みます。
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です。
わたしのためにも、主は来てくださったのです。罪人の頭でしかない、このわたしのために。そういう私どもに委ねられた伝道の言葉、主の憐れみを証しする言葉を待っている人が、きっと皆さんの周りにも現れます。そうしたら、恐れなく自分のことを語ればよい。神がわたしを正してくださる。そうして、わたしは主の足もとに座ったのだと、私どももそのように語ることが許されているのです。お祈りをいたします。
あなたに救われて、あなたに正されて、今私どももあなたの足もとに座ります。あなたの憐れみを証しするために、今立ち上がることができますように。私どもの救い主、主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン