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ここへ!

2023年4月30日

嶋貫 佐地子
ヨハネによる福音書 第11章38-44節

主日礼拝

主イエスが、命を与えに来られた、というのは、主が、何度も言われていたことでした。
「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(10:10)と、主は言われましたし、それから、「わたしは彼らに永遠の命を与える」(10:28)、とも言われました。
主は、命を与えに来られたのです。

ヨハネによる福音書の初めには、こんなふうにありました。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(1:1)
そして言いました。「言の内に命があった。」(1:4)
彼の内に、命があった。

主の命。それを主は、与えに来られたのです。別名、永遠の命、といいます。

永遠の命は、神様との交わりに生きる命のことです。

自分の命について、私どもは普段は、これといって深く考えているわけではないと思います。朝起きましたら、それがあって、けれどもそんなことを考えているいとまもなく、一日が過ぎてゆきます。あっちが痛かったり、こっちが苦しかったりすると、急に不安になって、そういう肉体的な命については、少しは考えるかもしれません。でももう一つの、神に生きる命について、これについてのほうが、私どもにはよっぽど大事でありますので、朝起きたら何より、その第一の命のほうを考えなくてはならないと思うのです。そうしますと、おのずと肉体も、自分の命全部が、神様に生かされていると、思えると思うのです。

その神様との交わりに生きる「永遠の命」について、でも、永遠の命といえば、私どもは、それは将来いただくものであると信じております。このラザロの物語の、マルタも言いました。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」(11:24)

それは将来、終わりの日のことです。その時には、主がもう一度おいでになって、主を信じる者は、一斉に呼び起こされ、そして死んだ者も復活させられます。その時には、その時に与えられる命というのは、それは完成された命であり、主ご自身の「栄光の体と同じ形に変えてくださる」(フィリピ3:21)、というものであります。主の栄光の体と同じ形に、変えられる。もちろん神になるわけではありません。でも主の栄光に、輝くような命です。ですから、永遠の命というのは、その終わりの日に、その時に、決定的に与えられるものです。

でも、それは将来の希望だけではなく、いま、現在、私どもは「もう」、主の命に与っております。信仰によって。本当に主イエスのお言葉によるとそう言えるのですね。これを私の神学校時代の恩師であり、かつての東京神学大学の学長でもありました近藤勝彦先生が、こうおっしゃいました。永遠の命というのは将来だけれども、いま、現に、信仰によって「与り始めている」。

「与り始めている。」不思議な表現ですけれども、「これを、なんつったらいいかな、私どもは『よみがえりの主』と、いるから、主の命に、与れる」と言われました。
主イエスは「わたしはよみがえりなり、命なり」(11:25)と言われましたが、その主イエスと「いま一緒にいる」から、私どもは、その主の命に与れる。感謝して本当に生きられる。
そして先生がその時こう言われたんです。
「それはまったく同じ命だよ。
将来と今、同じ命だよ。」

私は、「将来と今、それはまったく同じ命だよ」、と言う言葉に、嬉しくなりました。ほんとうにそうだと、思いました。将来もいまも、主の命です。なぜなら、私自身もそうですが、私どもは皆、いま生きているのは、主の命に、生かされておりますからですもの。
主にゆるされて、救われて、生かされておりますもの。
その命を、主が与えに来てくださいました。

だから、それに「与り始めている」私どもですから、たとえ死を迎えても、私どもは「死んでも生きる。」(11:25) いつか主に、起こされる時まで、主の命の中で、眠りながら、生きることができるのです。

でも、その主が「命を与える」ということは、それは文字通り、主が、ご自分の命を与えられることでした。

ベタニアの村で、一人のひと、ラザロが死にました。もう墓に葬られていて、死後4日も経っていました。しかし主がこれから、その人を、墓の中から呼び出されます。でもこのことで、人は主イエスを殺そうと、主の十字架が決まってゆきます。ラザロを墓から出す代わりに、主イエスが墓に入れられます。
そして、こういった、神の命など要らぬという、人間の罪と、その結果の死と、一緒に、主イエスが、神に打たれます。私どもの代わりに。

主が命を与えるということは、まことにご自分の命と引き換えに、ご自分の命を差し出すことでした。

その主イエスが、いま、ラザロの墓に向かっておられます。ラザロの二人の姉妹も、大勢の人たちも一緒でした。しかしその背中は、死に立ち向かう、
「わたしはよみがえり」、という背中でした。「わたしは命」、という背中でした。

そしてもっと近くで見てみますと、その背中は、感情を露わにしておられました。私どもの、死に対する悲しみに、涙を流された背中でした。また烈火のごとく、罪と死に対して怒っておいでの背中でした。それから、父なる神とご一緒の、父への祈りの中で、歩いておいでの背中でした。

その主に、私どももついて行きながら、でも私どもは思います。こんなに、自分の命に、私どもは真剣だったでしょうか。感情的だったでしょうか。主イエスがこれほどまでに、取り返そうとしておられるこの命について、しばしば忘れて、私どもにはそれぞれ負っている悩みがありますから、時々、ため息をつきながらこう思う。生きるのはたいへんだ。

マルタとマリアの姉妹が、主イエスに、「あなたがいてくださいましたら、弟は死ななかったでしょうに」(11:21、32)と言いましたが、ほんとうに、主イエスがおられなければ、私どもは死んでしまいます。生きているけれども、神に対して死んでしまいます。そういうことについて、主イエスの方が、これほどまでに感情的で。
周りの人たちにラザロについて、「どこに葬ったのか」(11:34)と、主が言われた時には、それは、「あなたはどこにいるのか」(創世記3:9)、と、完全に、死の支配の中にあるラザロへの言葉にも聞こえます。それにマリアなんて泣き崩れてよれよれでした。そしてマルタは、もう弟は、「においます」(11:39)、と言いました。もう腐り始めております。

ほんとうに、人は死んだら腐ってゆきます。墓の前では、そのにおいが、その死の臭いが、ついて行った者たちにも、墓にも、全体に立ち込めていました。当時のお墓は、洞穴になっておりまして、岩をくり抜きまして、真っ暗な、奥の奥の方に遺体が納められ、そして獣が入らないように石でふさがれました。
しかし、主が、墓の石を取りのけろと言われて、そしてその場に立ち込めている、人間の、腐ってゆく、におい全体に言われました。
「もし信じるなら、神の栄光を見ると言ったではないか。」(11:40)

あなたがたは神の栄光をこれから見る。神が神であるということを。
神は神である。
その光の前では、死は無能である。

そのとき、主は天を仰いで祈られました。
「父よ、私の願いを聞き入れてくださって感謝します。私の願いをいつも聞いてくださることを、私は知っています。しかし、私がこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたが私をお遣わしになったことを、彼らが信じるようになるためです。」(11:42)

そして主は、大きな声で叫ばれました。
「ラザロ、出て来なさい。」(11:43)

すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。(11:44)

 

先ほどの近藤勝彦先生ですけれども、私は先生の説教の中で、忘れられない説教の一つに、この箇所があります。主の、「ラザロ、出て来なさい。」それを近藤先生がこういうふうに言われたのです。この言葉、出て来なさいという、これは、動詞ではない。
文法で言うところの、「方向」を表す副詞だ。その通りでありまして、原文でいうと、「ラザロ」、そのあとに単語が二つ。その両方が動詞ではなく副詞で、そのまま訳しますと「ここへ」「外に」。それが合わさると、動詞のように「出て来なさい」、と訳せるわけですが、その説教の中で、先生がおっしゃいました。
主は叫ばれた。
「ラザロ、ここへ!」

主は叫ばれた。
ここへ!
それは英語で言うとHere!
ここへ!

主の、命の中へ。

このあいだですけれども、近藤先生とその説教のことで話しておりましたら、先生は少年のような輝きでいつも楽しそうに話されるのですが、キリストの呼び声、わはは、あれは動詞がないんだもの。だって死んじゃってんだもの。だから起きろ、歩け、じゃない。
死んじゃっているから、動詞の主体になれない。と言われました。なのに、「ここへ!」と言われただけで出て来るんだもの。
それは、主体はラザロではなく、キリストの呼び声なんだ。すべてを起こす声なんだと。
ここに福音のすべてがある。
そこにゆるしがある。ゆるしているから、この呼び声で、出て来るんだ。

 

キリストに呼ばれるということは、ゆるされているのです。

その命の中へ、

「ここへ!」

そこに、いまも、将来も、私どもの命があります。

 

 

天の父なる神様
「ここへ!」そう言われた、私どもです。信じて、飛び込みます。
主に御名によって祈ります。アーメン