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理解されないイエス

2023年2月26日

川崎 公平
マルコによる福音書 第3章20-30節

主日礼拝

■イエス・キリストというお方がこの世界においでになったとき、周りの人びとは、どうしてもこのお方を無視することができませんでした。いろんな人が、このイエスというひとりのお方に対して、実にさまざまな反応を示したのですが、とにかくすべての人が、どうしてもこの人を無視することだけはできませんでした。それは、現代に至るまで、ずっと変わることはありません。人類の歴史上、ナザレのイエス以上に多くの人の関心を呼び起こした人は、ただのひとりもいないだろうと思うのです。「この人は、いったい何者なんだろう」。無数の人びとがそのことを問い続けてきましたし、それは主が地上に現れたときから、最初からそうだったのです。

今日読みましたマルコによる福音書第3章の20節以下にも、いろんな人びとの姿が描かれています。まず20節には、「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった」とあります。主イエスはとにかく群衆にたいへんな人気があった。そのことについては、しばらく前の礼拝でもお話ししました。その群衆と呼ばれる人たちが、必ずしも主イエスのことを正しく理解していたとは言えないのですが、とにかくすべての人が、どうしてもこのお方を無視することができなかったのです。

けれども今日読んだ箇所には、さらにまた違った態度を見せた、二種類の人びとが出てきます。21節には、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」とあります。このイエスの「身内の人たち」というのは、どういうわけか少し間を空けて31節以下で改めて登場します。そこではより詳しく、「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち」と書いてあります。そのあたりのことは、次に31節以下を読むときに丁寧に考えてみたいと思いますが、既に今日読んだ21節で明らかになっていることは、イエスの身内、すなわち母マリアも、イエスの弟たちも、「あの男は頭がおかしい」としか考えることができなかったということなのです。

「あの男は気が変になっている」。みんながそう言っている。身内の者たちも、そのことは認めざるを得ない。ことに母マリアの心痛はいかばかりであったかと思います。それで、家族総出でイエスを取り押さえに来る、という事態になりました。しかし、この身内の者たちは、最初から「イエスは頭がおかしい」と考えたわけではなかったと思います。主イエスが30歳の頃、突然ナザレの家を飛び出して、神の国のことを教え始め、すごい奇跡をすることもあるらしい。それで第3章8節を読んだときにも申しましたが、それはもう、国中からおびただしい群衆が、イエスを目がけて集まってきたのです。そうしたら、家族はもちろん驚きはしたけれども、他方でちょっと誇らしい気持ちもあったと思うのです。「ああ、それ、うちの兄貴だよ。いやあ、確かにイエス兄さん、小さい頃からちょっとすごかったよな」、なーんて話すことができただけでも、鼻が高かったかもしれない。けれども、だんだんと手放しに喜んではいられなくなりました。遂に家族会議が開かれ、何としてでもイエスを取り押さえて、家に連れ帰らないといけない、という結論になりました。

■なぜ、そんなことになったのでしょうか。その理由を明らかにするのが、次の22節です。「エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また、『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた」。最初から申しておりますように、主イエス・キリストがその活動を本格的にお始めになったとき、すべての人がこれを無視できなくなりました。その結果、ガリラヤから遠く離れた都エルサレムの律法学者たち、つまり国のいちばん偉い人たちにとっても、ガリラヤで妙な動きをしているイエスという男を、これ以上放っておくわけにはいかなくなったのです。したがって、今読んだ22節で「エルサレムから下って来た律法学者たちも」と言っているのは、要するに国家当局による調査が入った、という意味です。国家権力を背後に持つ専門家たちが、ナザレのイエスの活動を厳密に調査し、検討した結果、公式見解を出したのです。「あの男はベルゼブルに取りつかれている」。「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」。ベルゼブルというのは悪霊の頭のことです。イエスのやっていることは要するに、悪霊の頭が子分である悪霊たちをりつけて、追い出しているだけだ。チンピラが好き勝手に暴れまわって、皆が迷惑しているというときに、親分が乗り込んできて、「こら! カタギの皆さんに迷惑かけんじゃねえ!」と一喝すれば、たちまち場が収まるのと同じことだ。そのように、国の権威を背負った専門家たちが、主イエスの働きを一刀両断したのです。

この律法学者たちの観察は、もちろんまったく間違っているのですけれども、100パーセント完全に的外れである、というわけでもないと思うのです。「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」というのはむしろある意味で、かなり核心に迫っていると思うのです。「イエスの働きは、悪霊を相手にするものらしい」。少なくともその点では、律法学者たちは正しく主イエスのことを観察していたと言わなければならないのです。もちろん、イエスは実は悪霊の頭ベルゼブルの化身なのだ、だからこんなに簡単に悪霊を追い出すことができるのだ、という観察はもちろん間違っているのですが、「イエスは悪霊を相手に戦っているのだ」という、この点では律法学者たちは正しく問題の核心をとらえているし、もしも私どもがそのことをとらえそこなっているならば、「イエスさまって、いったい何者なんだろう」といくら考えても、正しい理解に到達することはないのです。そして、少し率直な言い方になりますが、まさしくこういうところに私どもの信仰生活の弱さがあるのではないかと思うのです。「悪霊」なんて言われても、なんだかよく分からないのです。

前回第3章の13節以下を読んだときにも、やはり「悪霊を追い出す」という言葉が出てきました。そこでは主イエスが12人の使徒を任命し、これをのちの時代の教会の礎となさったのですが、この十二使徒を任命した目的は、「派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」と言うのです。使徒たちの務めというのは、そのまま言い換えて、私どもの教会の務めだと言ってよいでしょう。私ども鎌倉雪ノ下教会の使命は、伝道することである、それはすなわち悪霊を追い出すことである。別々の務めではないのです。伝道して、宣教して、そのついでにもしも必要があったら悪霊も追い出しなさい、ではなくて、主イエスにとって、伝道することと悪霊を追い出すこととはひとつのことでありました。そのために主イエスは一所懸命お働きになったし、今も教会が同じことをするようにとお命じになっているのです。私どもの教会の使命とは、すなわち悪霊との戦いである。ところがそのことをなかなか理解しないところに、私どもの教会の弱さがあるのではないかと思うのです。

■考えてみますと、主イエスの身内の者たちが、さすがに慌ててイエスを家に連れ帰ろうとしたのも、そのあたりに理由があったかもしれません。自分たちの身内のイエスが、立派な教えを語っている間はいいのです。病気を癒やしたり、パンと魚を増やしたり、そういうことならますます結構なことだと、誇らしく思ったに違いないのです。ところが、どうもイエスのしていることは、もっと違った意味があるらしい。律法学者の先生方が言っているように、イエスは悪霊との戦いを始めているらしい。「え、悪霊? そりゃやばいよ。絶対に連れ戻さなきゃ」。

きっと似たような感覚を、現代のわれわれも共有していると思うのです。たとえば、私のような教会の伝道者が、「汝の敵を愛せよ」とか、「明日のことを思い煩うな」とか、そういう立派な教えを説いているだけなら、むしろ多くの人が喜んで聞くと思うのです。そりゃあ、あなたの敵を愛しなさいとか言われてもすごく難しいけど、きっと大事なことだ。それができないから、戦争だって終わらないじゃないか。というように、聖書の教えを学んで、感心したり、悩んだり、喜んだり、慰められたり、そこまではいいのです。ところが実は、主イエス・キリストのお働きの根本的な目的は、「悪霊を追い出す」ことであり、教会に委ねられた働きの中心もまた同じ、「悪霊を追い出す」ことであるとするならば、どうでしょうか。「キリスト教の教えは立派だから、喜んで聞きましょう。『敵を愛しなさい』とか、何だか難しそうだけど、きっと大事なことなんでしょう。けれども、『皆さんは悪霊に取りつかれているから、これを追い出していただきましょう』という話になると……」。「それは、ちょっと、ごめんなさい」というのが、普通の反応ではないかと思うのです。だからこそ、主イエスのお働きはいつも、人びとの無理解に取り囲まれる結果となったのです。

けれども、ここで主イエスは悪霊を追い出しておられる。そのために弟子たちをお集めになり、ご自分と同じ働きをすることをお求めになった。それはなぜかと言うと、悪霊を追い出していただく以外に、私ども人間が救われる道はないからです。人間の救いというのは、ただ〈キリスト教〉というような教えを勉強すれば何とかなるような話ではないのです。ちょっと立派な話を聞いて感心したり、少しでもよい生活をしようと心掛けてみたり、そんな簡単な話で人間が救われるのなら、わざわざ神の御子キリストがこの世においでになる必要もないのです。そうではなくて、悪霊を追い出していただかないと、そしてそのためには神ご自身に他ならないお方が私どもの味方になって、一緒に戦ってくださらないと、私どもはいつまでたっても悪霊の奴隷であり、人間としてまともに生きることもできないのです。

■悪霊とはいったい何でしょうか。これを理屈で説明するのは難しいかもしれません。しかし、私どもはむしろ体験的に、悪霊の支配というものをよく知っているのではないでしょうか。私どもは、決して自由な生き物ではないのです。私どもは毎日、自分の意志で物事を考え、自分の決断で自分のしたいことをしていると思っているのですけれども、ふと我に返って自分の生活をふり返ってみると、実は自分がどんなに不自由な人間であるか、気づかされることが実にしばしばあるのではないでしょうか。まさしく何かの霊に振り回されているかのように、罪の奴隷になっているのです。自分の自由と責任においてしたこと、あるいは語ったことが、しばしば隣人を深く傷つけ、結局は自分自身の魂をも深く損なっていることがあります。そしてそういうとき、私どもも人間ですから、反省はするんです。なんであんなことやっちゃったんだろう。そのように反省して、これからは気を付けよう。でも、またやるんです。

特に、福音書を読んでいると深刻な思いにさせられることがあります。ここにわざわざ、「エルサレムから下って来た律法学者たちも」と書いています。エルサレムというのは神の民イスラエルの中心地であり、神の御子キリストを殺した都です。そこから来た律法学者たちというのは、国中でいちばん頭のいい人たちであり、いちばん信仰深い人たちであり、そしておそらく、いちばん理性的でもあった人たちが、神のひとり子のしていることを見て、「これは悪霊の頭ベルゼブルだ」と言い切った。そういう自分たちの論理を造り、その理屈を貫いた結果、遂に神のひとり子を殺してしまうのですが、なぜそういうことをしたのかというと、マルコによる福音書はその最後のところで、さりげなくその理由を明らかにしています。第15章の10節に、こう書いてあります。「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである」。いったい、ねたんだくらいで人を殺すということがあるのでしょうか。けれどもここでは、ユダヤの国の指導者たちが、何が何でもこのイエスという男を十字架につけなければならないと主張した、その様子を見たローマの総督のピラトは、何もそこまでしなくても、と思いながら、「ああ、この人たちは、イエスをねたんでいるだけなんだな」と、簡単に見抜くことができたのです。

考えてみればばかばかしいような話です。ただの嫉妬です。そして私はこう思うのですが、ここに出てくる国の偉い人たちが、何としてもイエスを殺さなければならないと、そのように自分たちを突き動かしている原動力が、まさか嫉妬などという下劣なものであったとは、自覚していなかったのではないでしょうか。むしろ正義感に満ち溢れて、確信をもって、神の正義の名のもとにイエスを十字架につけたのです。ところが他人から見れば、たとえばここではピラトが観察したら、バレバレなんです。「ああ、ねたんでるんだな」。

ねたんだくらいで人を殺すなんて、と思いますが、人間の歴史をふり返ってみると、いくらでもそういう例を見つけることができます。かつてヒトラー率いるナチス・ドイツが何百万というユダヤ人を殺すことができたのも、ドイツ民族の中にあった優越感、あるいはその逆の劣等感をうまく利用して、「ユダヤ人はけしからん。あいつらのせいで、われわれアーリア民族はこんなに苦しんでいるんだ」と理屈を立てて、そういう理論を大きな書物にまでして、結果あれほどの恐ろしいことが起こったし、現在でもひそかにヒトラーのしたことを支持する人びとは多いのです。その根底にあるのは、実はゆがんだ優越感であり、同時にまた劣等感であり、それは結局他人に対するねたみでしかない、ということは、他人から見れば簡単に分かるのですが、自分ではなかなか分からないのです。「悪霊」という言葉を使わずにこういう出来事を説明するのは、むしろ難しいのではないでしょうか。1年を経てなお終わりが見えないウクライナへの侵略戦争だって同じです。その根底には、きっと80年前にロシアが経験したヒトラーへの恨みがあるでしょうし、自分たちよりも豊かになった国々に対するねたみがあるでしょうし、そんなくだらない感情で核兵器でも使われたりしたら世界中が迷惑すると誰もが考えるのですが、戦争を続けている本人たちが、自分たちがどんなに深刻な悪霊の支配を受けてしまっているか、自分で気づくことは非常に難しいのです。

人間というのはかくして全然自由ではない、悪霊の奴隷でしかないのですが、それは今例を挙げたような大きな話をする必要もないので、世の中で起こっている大きな問題、私どもの身の回りで起こる小さな問題、いろんな問題を掘り下げてみると、結局は人間のねたみが原動力になっていることが多いのです。そういう悪霊に取りつかれた人間の救いのために、主イエス・キリストはこの世に来られたし、そのために一所懸命働かれたし、けれどもそれを誰も理解しなかったからこそ、このお方は十字架につけられたのです。

■「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて」(23節)、律法学者たちの主張に反論していかれます。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう」(23~26節)。これはそんなに難しい話ではありません。律法学者たちの言うとおり、もしも悪霊の頭の力で悪霊を追い出しているのだとすれば、それはただの仲間割れだ。そんなことをしていたらサタンの国はきっと没落してしまうだろうし、いくら何でも、サタンがそこまで頭が悪いとは思えないだろう。

しかしその上で面白いのは、次の27節です。「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」。意味が分かりましたでしょうか。強盗が家に押し入って、いちばん強い人をまず縛り上げて、それから家財道具一切を奪い取ってしまうというのですが、この押し入り強盗というのは、主イエス・キリストご自身のことなのです。

私どももまた、悪霊のとりこになっているのではないでしょうか。嫉妬心の奴隷になり、あるいはそれを理論づける理屈の奴隷になり、それでいろいろ屁理屈を言っては愛に生きようとしないのです。けれども私どもの心のいちばん深いところに主イエスが押し入ってこられて、私どもを支配しているいちばん強い人、悪霊の頭を縛り上げて、「その家を略奪する」。「この家は今後永久にわたしのものだ。神のものだ。悪霊なんかに支配させることは許さん」。その家とは、私ども自身のことでしかないのです。それほどまでに、神は、主イエス・キリストは、私どもを愛しておられるのです。私どもは、既にそのような主イエスの愛の侵略行為を受けたからこそ、今ここに立たせていただいているのです。

■この神の愛を理解すればするほど、「だからこそ、聖霊を汚すな」と言われる28節以下の言葉もよく分かってくると思います。

「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」(28~29節)。

「どんな罪も赦される」と言っておきながら、「赦されない罪がある」と言われると、逆に不安になるかもしれません。神の赦しには限界があるのでしょうか。赦される罪と赦されない罪と、やはりその間には越えてはならない境界線があって、その境界線を越えたところには、もはや赦しは存在しないのだから、油断するなよ、という話なのでしょうか。確かに難解な言葉かもしれません。しかし、あまり難しく考えすぎると、かえって間違いを犯すと私は思います。28節ではっきり主が言われたとおり、「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される」のです。赦されない罪は、ないのです。そのために、主イエス・キリストは私どものところに乗り込んでくださって、いちばん強い者、悪霊の頭を縛り上げてくださって、結局はそのために十字架につけられなければならなかったのです。

しかしそれならば、29節で「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず」と言われているのはどういう意味でしょうか。主イエスにそこまでしていただいたのに、それは悪霊のしわざだ、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」のだと言ってこれを拒否するということでしょう。主イエスの救いを自分で否定しておいて、しかもなおその自分を神が救ってくださらないのはおかしいと考えることは、いくら何でもおかしなことです。

私はむしろ、このようなことまで主イエスに言わせてしまった私どもの罪を、もう一度悔い改めるべきだろうと思うのです。「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」。そこまで言わなければならなかった、主イエスのお心の内に、どんなに激しい思いがあり、どんなに深い悲しみがあったことか。どんなことをしてでも、わたしはあなたを救いたいのだ。押し入り強盗のような真似をしてでも、わたしはあなたを救いたい、あなたを神のものとして取り戻したいという主イエスの思いの激しさに、もう一度私どもは思いを寄せなければならないと思うのです。そのとき既に、私どもは聖霊を冒瀆する罪からは完全に免れているのです。

罪深い私どもなのであります。けれども、「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される」と言ってくださるのですから、その神のわざ、キリストのわざ、聖霊のわざを汚すことのないように、今共に、十字架の赦しのもとに立たせていただくのです。お祈りをいたします。

 

主イエス・キリストの父なる御神、今もって悲しいことに、悪霊の支配を私たちは認めざるを得ません。あなたが生きておられるのに、平然と恐ろしいことを行い、しかもそのために理屈を立て、筋道をつけて、決して自分は間違っていないと自分を説き伏せながら、決して愛に生きようとしない私どもを、どうか聖霊の力によって救い出してください。あなたの霊によってのみ、わたしは立つ。すこやかな人間として立つのだ、との思いを新たにさせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン