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かたくなな心を悲しみ

2023年1月22日

川崎 公平
マルコによる福音書 第3章1-6節

主日礼拝

■東京神学大学で長く教えた、近藤勝彦先生という神学教師がいます。何年か前に、この場所で説教をしていただいたこともあります。この近藤先生の説教集のひとつに、『中断される人生』(教文館)という本があります。個人的なことで恐縮ですが、私が18歳のときに信仰告白をした際に、同じ教会にいた神学生のお兄さんがこの説教集をプレゼントしてくれました。以来30年たつわけですが、折に触れて思い起こす大切な言葉になっています。

この説教集の冒頭に、書物のタイトルにもなっている「中断される人生」という題の説教があります。これをまずご紹介したいと思います。少し長く引用しますが、決して聞きにくくはないと思います。

礼拝の中で個人的なことを話すことは、はばかられることですが、私の父は48歳で死んでいます。私の家内の父は、もっと若く、46歳で死んでいます。二人とも、いまや人生佳境にいり、これから仕事を完成に向けよう、果たすべき責任を果たしていこうという時、そしてしたいことがふんだんにある、まさにその時に死んだわけです。それは中断された人生であった、と言ってよいと思います。おそらくはどなたでもそういうことがあると思いますが、私は、あと10年もすれば自分も死んだ父親と同じ年齢になることを思い、この「中断される人生」というものがあるということを考えざるを得ないのです。一体そこで悔いなくその人生の中断を受けとれるでしょうか。……

聖書はしかも、この事態をある人々だけの特殊なケースとして見なしているのではありません。……「中断される人生」は、実は万人の真相だと言ってよいと思うのです。私たちは、まだまだしたいこと、なすべきことがあり、いまどうしてもこれをしなければならないというまさにその時に、その営みを中断される、ということが起こるのです。否、それがすべての人生です。このことに一体どのようにして私たちは、耐え得るでしょうか。

しかしよく考えてみますと、キリスト者というものは、この「中断される人生」を特別な仕方でいますでに生きている人ではないでしょうか。日曜日ごとの礼拝の生活は、まさにそうした中断される人生を生きていることなのではないか、と思うのです。日曜日ごとの生活において私たちは、日常生活の営みを断ち切り、いわば人生を中断して、礼拝の中へとやってきます。時にはそれがつらく思えることがあるかもしれません。週日の仕事、課題、義務、責任が私たちを離しません。……それを断然断ち切ることは、時に甚だつらいことがあります。……

しかし、それならば、まさにその人生の中断においてこそ、私たちには知るべきことがあるのではないでしょうか。日曜日ごとの人生の中断において、私たちは一体何を学ぶのでしょうか。それは、人生の主人は結局は自分自身ではないということです。自分の人生の主は、自分自身ではなく、神こそわが人生の主であるという厳粛な事実を、そこでこそ私たちは学ぶのです。人生におけるこの日曜日ごとの中断をもって、私たちは神こそわが人生の主だ、と言い切っているのです。……

このことはまた、それがたといどんなにすばらしく、夢中にさせる仕事であり、生活であったとしても、日々延長するだけの人生、中断されない人生には、結局のところ真の慰め、究極の意味、完成や救いはない、ということだと思います。それはまた、人間は自分では自分を救い得ないという単純なしかし動かしがたい事実でもあります。……むしろそれ〔自分の人生〕を中断して、断然神の御前にまかりいでる、……まさにここにこそ喜びがあります。それは、日曜日の独特の喜びです。人生はこの喜びに極まるのです。

かなり長く引用しましたが、お聞きになるだけで理解できると思います。日曜日の礼拝の喜びとは、人生を中断される喜びだと言います。なぜそれが喜びになるのか。自分の人生の主人は自分ではない、神が自分の人生の主でいてくださるということを知るからです。ただひたすら延長するだけの人生というのは、それがどんなにすばらしく、どんなに充実していたとしても、何の救いもないと言います。自分が人生の主人である限りは、何の救いもない。神が、わたしの主でいてくださる。そのことを、私どもはこの日曜日の礼拝において知るのです。

このこととおそらく関係があるだろうと思いますが、先日の長老会でこういうことが話題になりました。どうも最近、礼拝前の私語が増えてきたようだから、ひとつ先生からびしっと注意してくれませんか、と言われましたので、今ここで注意させていただいております。鐘が鳴ったらなるべく早く礼拝堂に入る。礼拝堂に入ったら、どうしても必要な連絡事項以外は話さない。ひまだからって週報とか雪ノ下通信とか、印刷物を読んだりしない。これは基本的なことです。しかしまた、私がこの教会でいつも感銘を受けることは、ずいぶんたくさんの方が、かなり早い時間から礼拝堂で静かに座っていることです。そういう教会の気風というものは、大切にしたいと思うのです。「その間、何をしていればいいんですか」と聞かれることがありますが、よい手本となる人たちがたくさんいると思います。何もしないのがよい。聖書を読んだりお祈りをしたり、そういうことも含めて何もしないのがよいかもしれません。何もしないと言っても、座禅を組んで無になるとか、そういう話ではありません。自分の人生を中断して、本当はあのこともしたい、このことも考えなきゃ、晩ごはんの買い物どうしようかな、そういうことをすべて中断させられてここに座るとき、そこで知るのは、自分の人生の主は自分ではない。神がわたしの主でいてくださる。「人生はこの喜びに極まるのです」。その喜びの中に立つために、どうしても礼拝前の静けさが必要なのです。

■今日読みましたマルコによる福音書の記事で主題になっていることは、安息日であります。先週読んだ第2章の最後の部分から引き続いて、ここでもまた、安息日にしていいことは何か、してはいけないことは何か、ということを巡って論争が起こりました。そこで主が言われたこと、主がなさったことはたいへん明確であります。会堂の、きっと隅っこの方に、片手の萎えた人が座っていたのでしょう。その人に、「真ん中に立ちなさい」と、主は声をかけられました。わざわざ真ん中にお呼びになったのは、もちろん、全員がよく見えるように、ということでしょう。そして言われました。

「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」。

あなたがたの真ん中に立っている、この人をよく見なさい。「あなたがたは、この人に善いことをしたいのか、それとも悪いことをしたいのか」ということを越えて、むしろ主イエスがおっしゃったことは、「神はこの人に何をなさるのか」、それをあなたがたの目できちんと見なさい、ということであったと思います。神は、安息日というこの日に、この片手の萎えた人のために善を行うのか、悪を行うのか。安息日というのは、神がこの人の命を殺すのではなくて、神がこの人の命を生かしてくださるんだ。救ってくださるんだ。神が、この人の主でいてくださるのだ。安息日だからこそなされる、神のみわざを、あなたがたの目でしっかりと見なさい。

しかし、少なくともここでは、主イエスのたいへん激しい問いかけは、人びとの心にひとつも刺さりませんでした。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」。これ以上簡単な質問もないだろうと思いますが、「彼らは黙っていた」。なぜかというと、彼らの心が頑なになっていたからだと福音書は書いています。「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら……」。主イエスは、たいへん激しく怒っておられます。また深く悲しんでおられます。彼らの心が頑なであったからです。神に対しても、隣人に対しても、頑なな心であります。なぜそこまで頑なになったのでしょうか。その頑なな心に立ち向かうように、神の御子に他ならないお方が、この手の萎えた人のために善いことを行ってくださる。その命を愛してくださる。そのための、安息日であったのです。

今、この礼拝堂においても、神が私どものために善いことをしてくださいます。私どもの命を殺すのではなく、生かしてくださる。愛してくださる。神が私どもの主でいてくださるのです。その神の思いを知るために、礼拝堂に座ったら、「今から1時間、自分は何もしないのだ。神が、わたしのためにしてくださることがあるのだ」という心を造ることが、どれだけ大切なことかと思うのです。

だから、先ほど読みました申命記第5章の伝える〈十戒〉の第4の戒めにおいても、「安息日にはいかなる仕事もしてはならない」と教えられるのです。その最後のところ、15節にはこう書いてありました。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない」。あなたがたが、今ここに生きている。生かされている。それはそもそもどういう経緯のことであったか、よく考えてごらんなさい。神が、あなたの主でいてくださる。あなたが安心して息をつくことができるようにしてくださったのは、主なる神ではないか。「そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」と言うのです。

■「安息日をおぼえて、これを聖くすべし」。毎週私どもは、そのように唱えます。安息日とはもともと週の最後の日、すなわち土曜日のことを意味したわけですが、私どもキリスト教会は、日曜日こそが安息日であると考えるようになりました。それは常識的な理解として問題ないだろうと思います。「安息日をおぼえて、これを聖くすべし」。おそらく皆さんもこういうことを聞かされて、いろんなことをお考えになるだろうと思います。そして当時の人びとも、相当いろんなことを考えました。

今日読んだ福音書の記事が伝えているのは、安息日をめぐるいざこざです。どうしてこういう難しい話になったかというと、「安息日にはいかなる仕事もしてはならない」という律法の言葉が発端となって、では仕事をするとはどういうことか、それが絶えず問題になったからです。福音書にしばしば登場する律法学者というのは、まさしくこのような問題に答える役目を果たしていたのです。安息日にしていいことは何か、してはいけないことは何か。そのことについて水も漏らさぬ詳細な規定を定めました。今でもイスラエルで土曜日にエレベーターに乗ると、ボタンを押さなくてもすべての階に止まってくれるそうです。なぜかというと、「ボタンを押す」という労働をすることが固く禁じられているからだそうです。こういう話を始めると、いくらでも面白い話を紹介することができるのですが、たとえば土曜日には料理なんかできませんから、前日の金曜日まで用意しておかないといけない。その用意した料理を温めるにしても、ボタンを押したりいろいろ仕事をしないといけませんから、お鍋の温度を一定に保ってくれるオートマチックホットプレートが売られているそうです。安息日があればこそ、開発された家電製品です。

こういう話をすると、何をばかばかしい、と思われるかもしれませんしが、案外私どもも、日曜日の礼拝をどう守るかということについて、実に簡単にファリサイ的な思考回路に陥ってしまうことがあると思います。皆さんも安息日の話を延々と聞かされて、特に「中断される人生」などと言われると、微妙な感情になった方もいらっしゃるかもしれないのです。「いやいや、そんなこと言ったって、中断できないことはいくらでもあるでしょうが。どうしても日曜日の礼拝を休まなければならないことはあるんです」。それはそうです。だいたいここにいる皆さんだって、電車やバスが動いているから礼拝に来ることができたのでしょう。じゃあ、電車やバスの運転手さんも礼拝に来ることができるように、たとえば日曜日の朝だけでなく夜にも礼拝をしないと。あるいはウィークデイにも礼拝をした方がいいんじゃないか。そういう工夫を教会がすることも大切かもしれませんが、そういう工夫のいちばん深いところに、いつの間にか変な律法主義が忍び込んで来ないとも限りません。

特にここで問題になったのは、医療行為であります。手の萎えた人を癒やすなんて、そんな仕事を安息日にしてはだめだ。日が暮れたら安息日が終わるから、その時間になったらまた来なさいね、と言えばいいだけじゃないか。そのように当時の律法学者は考えました。もちろん、命に関わる病気であるならば、安息日であってもできる限りのことをすべきだと教えたようです。しかし死ぬほどでなければ、病人・けが人がどんなに苦しんでいても、安息日が終わるまでは我慢させたのでしょうか。およそ愚劣な話であります。

しかも主イエスはそこで、安息日にしていいことは何なのか、してはいけないことは何か、そんな議論は一切なさいませんでした。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」。今日は安息日じゃないか。だからこそ、神はこの人の命を救いたいんだ。神が、この人の主でいてくださるのだ。この主イエスの言葉が分からなかったら、私どもが今どんなに熱心に日曜日の礼拝を厳守してみせたって何の意味もないし、逆にたいへん忙しい生活をしている人が、それでも年に2回でも3回でも、あるいは何年ぶりの礼拝出席であったとしても、何とか日曜日の礼拝に来ることができたというときに、「神がわたしの命を救ってくださるのだ」。そのことが分かるなら、神が安息日をお定めになった目的が十分に果たされたと言わなければならないのです。

だからこそ――今申しましたことと決して矛盾しないと思いますが――私どもには日曜日の中断がどうしても必要なのです。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」。答えは明らかでしょう。神は、私の命を愛してくださる。生かしてくださる。この神の愛がなければ生きられない自分であることを知るために、どうしても私どもには、日曜日の中断が必要なのです。それは、ファリサイ的に規則を押し付けるようなこととは違うのです。

■申命記第5章を読みました。読めば読むほど、思いのほか現代的な意味を持つ言葉ではないでしょうか。「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」。そう言いながら、申命記は、「あなたはこうしなさい」ということよりも、「あなたの隣人が休むことができるように」、そのことに心を配っているようです。「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」。家族を休ませなさい。奴隷を休ませなさい。家畜を休ませなさい。そして忘れちゃいけない、外国人労働者を休ませてあげなさい、と言うのです。もしも日本中の、ことに人の上に立つ人びとがこの聖書の心を理解するようになったら、それだけでどんなにすばらしい国になるだろうかと思いますし、あの主イエスのお言葉こそ、その心を見事にとらえていると言わなければなりません。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」。

改めて思うのです。この片手の萎えた人が、どんな思いで礼拝堂に座っていたか。ひとつの伝説によれば、この人は左官であったと言われます。仕事中に何かの事故があって、自分のいちばん大切な手に障害が残ってしまったのかもしれません。それこそ、自分の人生が中断されたと思ったとしても無理はありません。そんな人が、いつものように会堂の片隅に座っていたときに、しかしその日は、いつになく人びとの関心がその人に注がれました。同情の思いではありません。何とかしてこの人をダシにして、イエスを罠にかけることができないかと、ただそれだけの興味関心で、人びとはひそかにこの片手の萎えた人に注目していたというのです。主イエスの怒りと悲しみは、既にそこで始まっていたと思いますし、そのとき主のお心の中には既に、あの申命記の言葉が甦っていたかもしれません。

それで主イエスは、まるで彼らの罠に自分からかかるように、この片手の萎えた人に声をおかけになりました。「真ん中に立ちなさい」。神の愛の注がれる、そのど真ん中に立ちなさい、ということでもあったと思います。そして言われました。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことではないか。命を救うことではないか」。今ここにいるすべての人に尋ねたい。神は、この人を愛しておられるのだ。あなたがたは、この神の思いに対して、どう答えるつもりなのか。申命記を読んだことがないのか。この片手の萎えた人が、今日こそ本当に慰められて、安らぎを得る、そのための安息日じゃないのか。それなのにあなたがたは、安息日だというのに、この隣人を何だと思っているのか!

■けれども、この主イエスの言葉は、人びとの心にはひとつも刺さりませんでした。かえってこのことがきっかけになって、「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」というのですが、ずいぶん悪い奴らもいたものだ、ということではすまないと思います。私どもも実にしばしば、心が頑なになることがあるでしょう。神に対しても、隣人に対しても、心が頑なになる、それはどういうときかというと、自分の正しさに固執しているときだと思います。まさにこのファリサイ派と同じです。自分は絶対に正しい。間違っているのはあいつだ。そのように自分の正しさを確信すればするほど、私どもが簡単に忘れるのは、単純に言って、愛することです。そして私どもが愛することを忘れるときに、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」という、こんなに簡単な質問にも答えることができなくなるくらい、心が頑なになることがきっとあると思うのです。

福音書というのは、いちばん単純に言えば、なぜ主イエスが十字架につけられたのか、その理由を明らかにする文書です。今日読んだこの箇所は、そのことを実にはっきりと伝えてくれます。主イエスが怒り、また深く悲しまれた人びとの頑なさというのは、私どもの頑なさでもあると思います。深い恐れを覚えないわけにはいきません。しかし、私どもが最も深く恐れなければならないのは、主イエスが人びとの頑なな心を悲しまれながら、その頑なさの犠牲になるように十字架で殺されたということです。ここで、私どもはすべての言葉を失うのです。

最初に紹介した近藤先生の説教の終わり近くに、こういう言葉があります。これもそのまま引用したいと思います。

イエス・キリストにおける神の子の地上の御生涯は、私たちの目にはまさしく「中断された人生」でした。しかし主イエスのその「中断された人生」の中で、神は極まった仕方で、惜しみなくその愛を示されました。

人の罪が、十字架の上で、主イエスのご生涯を力ずくで中断したのです。しかしまたそれは、神のみ旨によるものでした。そして神がこのお方を復活させてくださったとき、そのことによって神こそが私どもすべての者の命の主でいてくださることを明らかになさいました。だからこそキリストの教会は、復活の記念の日である日曜日を、新しい安息の日として重んじないわけにはいかなかったのです。今私どもも、この神の愛の中に立ちます。そうしたらまた私どもも、頑なな心を捨てて、隣人に対しても新しい心で向かい合うことができるようになるのです。お祈りをいたします。

 

私どもの主でいてくださる御神、今もあなたの御子の御声が聞こえます。「真ん中に立ちなさい」、あなたもここに立ちなさいと、私どもを礼拝に招いてくださいます。ここで知るあなたの愛が、ただ私自身を満足させるだけでなく、すべての人に及ぶものであることを、心に刻ませてください。頑なな心を捨てて、神の前に立ち、また隣人の前に立つ勇気を与えてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン