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あなたの立つべき場所は、ここです!

2022年11月6日

川崎 公平
テモテへの手紙二 第3章10-17節

主日礼拝

(伝道開始105年記念礼拝)

■今朝、鎌倉雪ノ下教会の伝道開始105年を記念する礼拝において、伝道者パウロの書いたテモテへの手紙二を読みました。テモテへの手紙、しかもその二番目の方の手紙と言われるとますます、何だかあまり馴染みがないと思われるかもしれません。どんなことが書いてあったっけ、と思われる方もあるかもしれません。しかし私は、このテモテへの手紙というのは、その手紙の存在そのものが、たいへん興味深いと思っています。

考えてみると、新約聖書の半分近くは手紙です。それはつまり何を意味するのかというと、世界にキリストの福音を伝える手段として、〈手紙〉という形式を神がお選びになったということになると思います。それが既に興味深いことです。中でも多くの手紙を書いたのはパウロです。ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙というように、教会にあてて書かれたものが大部分ですが、面白いのは、個人にあてた手紙がいくつか並んでいるのです。それがテモテへの手紙の一と二、さらにテトスへの手紙とフィレモンへの手紙です。手紙というのは、やはり本来は、個人にあてて書かれるものでしょう。それだけに、パウロの人間らしい心がよく表れていると言えるかもしれません。

テモテというのは、パウロよりもずっと若い伝道者です。そしてパウロがいちばん信頼した伝道者が、このテモテであったかもしれないのです。このテモテへの手紙二の第1章の3節以下を読みますと、パウロとテモテの関係がよくわかります。

わたし(パウロ)は、昼も夜も祈りの中で絶えずあなた(テモテ)を思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝しています。わたしは、あなたの涙を忘れることができず(――どういう涙であったのでしょうか――)ぜひあなたに会って、喜びで満たされたいと願っています。そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます(第1章3~6節)。

テモテの祖母ロイスと母エウニケという名前が出てきます。母と娘、ふたりともパウロの伝道によってキリストの福音を受け入れ、洗礼を受けて、教会員になったのでしょう。私どもの教会の105年の歴史の中にも、このような母親たち、あるいは娘たち、息子たちを無数に数えることができるでしょう。しかしここで何と言っても興味深いことは、その娘の方のエウニケにテモテという男の子がいた。使徒言行録第16章にもそのあたりの経緯が書いてありますが、パウロが何年かぶりに同じ教会を訪ねたら、そのテモテが立派な青年になっていて、「ええ? テモテ君? そうか、きみも洗礼を受けたんだね!」 聖書に名前が出てくる唯一の三代目クリスチャンです。そのテモテが、今読みました第1章6節に「わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物」とあるように、遂には牧師としての按手礼を受けて、それでいつしかパウロ先生のお手伝いをして一緒に伝道の旅行をしたり、しかし今はパウロのもとを離れて、なお伝道者として献身の生活を続けていたのであります。

■そのテモテのもとに、パウロから手紙が届きました。若いテモテにとって、こんなにうれしいことはなかったかもしれません。テモテがひそかに涙を流して読んだのではないかと思う言葉を、いくつも見つけることができます。ついでに申しますと、現代の聖書学者のほとんどは、テモテへの手紙の一も二もパウロ本人が書いたとは考えません。これは明らかにパウロが死んだあとに、全然違う人が書いた文章だと、ほとんどの学者が考えます。しかし、私はそういう学者の意見をあまり鵜呑みにしない方がよいと思っています。パウロがテモテのために手紙を書いたという、その事実まで疑う必要はないのです。しかしテモテは、自分個人が受け取った宝物のような手紙を、ひとりで読むにはあまりにもったいないと考えたに違いない。それこそ祖母にも母親にも、また教会の仲間にも読み聞かせたでしょう。それが、それこそ教会の宝として他の教会でも回し読みされ、多くの人を慰め、やがて聖書の一部として定められたときには、最初にパウロが個人的に書いた手紙とはずいぶん違った姿になってしまったということは、むしろ当然のことだと思います。

しかし、もともとは、パウロがテモテ個人にあてた手紙です。若いテモテを励まし、慰めるために。しかし、なぜ励ましが必要だったのでしょうか。どういう慰めが必要だったのでしょうか。第3章の10節以下には、こう書いてあります。

しかしあなたは、わたしの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣い、アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます(10~12節)。

難解な言葉はひとつも書いてありません。キリストへの信仰のゆえに、パウロもテモテも迫害に耐えなければならなかったのです。テモテも、苦しかったに違いない。そこで、どうか耐えてほしいとパウロは書き送るのです。私どもの教会の105年の歴史を振り返るだけでも、本当にたくさんのことがありました。しかし今、105年の歴史を振り返るいとまはありません。問題は、今私どもがこのようなパウロの手紙を、どのように受け止めるかということです。たとえば12節。「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」。このような言葉を皆さんはどう受け止めておられるでしょうか。

■私が属している説教塾という集まりがあります。数年前のことですが、説教塾のいろんな集会やメーリングリストで、しばらくこのテモテへの手紙二の第3章10節以下のことが話題になったことがありました。ずいぶんいろんな議論がありました。そのときに、この教会の出身教職でもあるT先生が、「自分にもひとこと言わせてほしい」と、発言をなさいました。このT先生は、私よりもずっと年上ですが、神学校では後輩にあたります。長く社会人として生活なさって、お子さんも与えられて、そのあとに神学校に入られました。もともとは銀行員です。まず都内で勤務、しかしたいへんだったのはその次の地方の支店の上役がたいへん厳しい人で、これは本当の話だとT先生は強調しておられたのですが、毎週月曜日の朝に支店長室に呼び出されたそうです。「お前は昨日も教会に行ったのか!」「はい。行きました」。「よくこんな成績で教会になんか行けるな! なんでお客様を訪問しないんだ!」と毎週怒鳴られ、机を蹴飛ばされ、それで月曜日は仕事もろくに手につかず、外回りに行くふりをして自動車の中でぼーっとしていたといいます。

そういうときに、もしもこんな手紙をもらったら。自分の信仰の父と言えるような人から、こんな手紙をもらったとしたら、自分はきっと、声を出して泣いてしまっただろう、とT先生は言うのです。「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」。しかし、14節。「だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません」。

さらに15節には、「自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです」とあります。このT先生というのは、先ほど申しましたように鎌倉雪ノ下教会の出身で、そのおばあさまのことはよく存じ上げませんが、お母さまもこの教会の長老です。「幼い日から聖書に親しんできた」のです。字が読めるか読めないかというようなときから、加藤牧師の声を聴き続けたのです。銀行員の生活を経て、遂に伝道者としての献身の志を与えられ、なおこの教会で東野牧師の声を聴き続けたのです。そこで、T先生は言うのです。「もしも加藤先生から、もしも東野先生から、こんな手紙をもらったら、支店長室で泣くことはないだろうけど、ひとり営業車の中で、声を出して泣いてしまったに違いない。少なくとも自分には、このパウロの言葉は本当によく分かる」。教会の歴史というのは、そのようにして作られていくものなのだと思わされます。もう一度10節から読んでみます。

しかしあなたは、わたしの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣い、アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。

テモテ個人の心に寄り添うように、その心に語りかけるように、言うのです。テモテよ、よく耐えているね。「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」。「だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません」。つらいことは、いくらでもあるだろう。しかしあなたは、今立っている場所にとどまりなさい。そこから離れてはいけない。

■14節の「離れてはなりません」というのは、非常によい翻訳です。信仰から離れたくなる理由は、いくらでもあるのです。見える迫害。見えない迫害。さまざまな試練や誘惑。私どもの信仰生活を脅かす力はいつ何時、どんな形で襲ってくるか分かりません。しかしあなたは、「自分が学んで確信したことから離れるな」と言うのです。来年の春から用いることになっている聖書協会共同訳という新しい翻訳では、「だがあなたは、自分が学んで確信した事柄に〈とどまっていなさい〉」と訳されました。こちらの方が、原文のニュアンスには近いのです。「とどまれ!」と言うのです。何が起こっても、どんなことがあっても、そこにとどまりなさい。怒鳴られても、机を蹴っ飛ばされても、それで一日中仕事も手につかないようなことになったとしても、あなたはここにとどまればよい。

とどまる場所があるということは、すばらしいことです。「あなたはここにいればいいのだ」という場所がはっきりしているということは、それだけで既に何にもまさる慰めです。愛する人が悩んでいるとき、どうやって慰めたらよいのか途方に暮れるときにも、「自分が学んで確信したことから離れてはなりません」、そうすればあなたは生きることができる、耐えることができると愛する人に伝えることができれば、どんなにすばらしいことかと思うのです。イエス・キリストに救われて生きるということは、そのような確かな場所を見出すということです。そしてそれが、教会に生きるということなのです。ひとたびそのような場所を見出したならば、そこから離れることはありません。

テモテも、あるいは先ほど紹介したT先生も、「幼い日から聖書に親しんで」きました。もちろんそうでない方も、ここにはたくさんいらっしゃいます。年齢を重ねてから聖書に出会い、ようやく人生の終わり近くに信仰を言い表すことができるということも、大きな神の恵みです。しかしどちらかと言えば、聖書は小さい頃から親しんだ方がいいですよ、なんて低次元な話をするつもりはありません。

14節の後半から読むと、「あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです」と書いてあります。大切なことは、聖書に親しんだのが何歳からか、早ければ早い方がよい、ということではありません。幼い時ならその幼い時に、年を取ってからならその時に、誰が聖書のことを教えてくれたか。テモテよ、「あなたは、それをだれから学んだかを知って」いるだろう? 皆さんも、そうだと思うのです。自分に信仰を伝えてくれた人のこと、その意味で皆さんひとりひとりにとって、かけがえのない人の顔と名前を、皆さんも覚えているはずです。若い頃に出会った牧師のことを思い出す人もいるでしょうし、自分の母親のこと、おじいちゃん、おばあちゃんのことを思い出す方だっていらっしゃるに違いない。くどいようですが、教会の歴史というのは、そういったことの積み重ねでしかないのです。

しかもテモテは、迫害の中でこの手紙を読んだのです。「あなたは、自分が学んで確信したことにとどまりなさい。それを誰から学んだかを、きちんと思い起こしなさい」。つらいだろうね。分かるよ。しかしそこでこそ、あなたのお母さんのことを思い出しなさい。おばあちゃんのことを思い出しなさい。できれば、わたしパウロのことを、思い出してごらんなさい。それだけでテモテは泣いてしまったかもしれない。しかしその涙がただの人情に基づく涙でしかなかったら、何の意味もありません。あの人がいてくれたから。あの先生がいてくれたから。だから、私どもは聖書が分かるようになったのです。そうして、救いに導かれたのです。

■聖書とは何でしょうか。ここで決定的なことを語るのが16節です。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」と言います。「神の霊の導きの下に書かれ」とたいへん丁寧に訳されていますが、実は原文ではひとつの単語です。もっと単純に訳せば、「神の霊的な」とでも言えるでしょうか。聖書はすべて、神の霊による書物である。そうすると、新共同訳のように、「聖書はすべて神の霊の導きの下に〈書かれ〉」という翻訳も間違いではありませんが、もっと広い意味を読み取ることができます。神の霊の導きは、たとえば、何千年も前に聖書が〈書かれた〉ときだけのことのでしょうか。それだけではなくて、今私どもが聖書を〈読む〉ときにも、聖霊ご自身が語りかけてくださるのではないでしょうか。しかも私どもは、聖書をひとりで読むことはありません。少なくともそれだけではありません。聖書は、教会の書物です。たとえば、母親が息子のために、あるいは孫のために聖書を教えるというときにも、いやそういうときにこそ、神の霊が働いてくださるのです。そのようにして神の霊が、聖書を通して、教会の歴史を導いてくださいます。そのことを信じるからこそ、今も私どもは聖書を読んでいるのです。

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。

「神に仕える人は」とありますが、原文はもっと単純に「神の人」と書いてあります。神の人。いったい、どういう人でしょうか。「あの人だれ?」「あの人は神の人だよ」と言ったら、何だかすごい神々しい姿を思い浮かべてしまいますが、必ずしもそうとは限らないかもしれません。たとえば少し言い換えて、「あの人だれ?」「ああ、あの人は○○銀行の人だよ」。○○の人、という表現は、いろんな意味を持ちうるでしょう。属性とでも言ったらよいでしょうか。そして「あの人は○○銀行の人だよ」と言ったら、その人は怒鳴られながらでもその銀行に仕え抜くのです。別に銀行に恨みがあるわけではありませんが、きっとそういうこともあるだろうと思うのです。しかしここでは、私どもは「神の人」だと言います。あのハイデルベルク信仰問答が言うように、生きるときも死ぬときも、私どもは体も魂も、主イエス・キリストの所有です。そのように神に属する人だから、神に仕えるのです。そのために、神がこの教会を十分に整えてくださるし、そのために聖書が与えられているのです。

105年の歴史を振り返り、これを心から感謝しながら、今教会の主であるお方に明確に申し上げたいと思います。「あなたの恵みに、足りないところはひとつもありませんでした。神さま、ありがとうございます」。私どもの教会に聖書が与えられ、その聖書を教えてくれる信仰の父が与えられ、信仰の母が与えられ、だからこそ、なおこれからも私どもは確かな望みに支えられて、教会の歴史を作っていきます。神がこの鎌倉雪ノ下教会を守ってくださいますように。お祈りをいたします。

 

教会のかしら、主イエス・キリストの父なる御神、あなたが今ここに、あなたの教会を建てていてくださいます。これを慈しみ、さまざまな試練や誘惑を乗り越えさせて、105年の歴史を刻ませてくださいました。すべてはあなたの確かなみ旨によることです。今私どもひとりひとりもあなたに導かれて、この教会に生かされて、今このように聖書を学び続けています。罪人のかしらでしかありませんが、み子キリストに救われて、今神の人として十分に整えていただくことができますように。そのために、今あなたの〈見える言葉〉である聖餐をいただきます。聖書と共にこれを重んじ、そのことによってますますこの教会があなたのものとして整えられる、その望みを確かにすることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン