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神に喜ばれる献げもの

2022年8月28日

川崎 公平
フィリピの信徒への手紙 第4章15-23節

主日礼拝

 

■今年の1月以来、フィリピの信徒への手紙を読みながら、礼拝の生活を作ってきました。今日、その最後の部分を読みます。この手紙を書いたパウロという伝道者にとりまして、フィリピの教会というのは、特別な思いがあったと思います。それはなぜかと言うことは、今朝のお話の中で少しずつ明らかにしていきたいと思いますけれども、私もこの8か月間、この手紙を読みながら、深い慰めを与えられてきました。

パウロはこの手紙を、牢獄の中で書いたと言われます。あるいはもしかしたら、そのまま獄死したとも考えられます。実際のところどうなったのか、よく分からないことも多いのですが、少なくともこの手紙を読んでおりますと、パウロが自分の死をどんなに身近に感じていたか、そのことがよく分かるのです。そのような場所で、パウロは、このようにこの手紙を書き始めるのです。

わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています(第1章3-6節)。

すべての自由を奪われながら、しかしパウロはいつも、フィリピの教会のために祈っていました。そしてその祈りのたびに、パウロの心は感謝と喜びで満たされていたというのです。それはなぜかと言うと、「それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです」(5節)。あなたがたがいるから。あなたがたが、福音によって生かされているから。だから、わたしは、喜びと祈りと感謝に生きることができる。このパウロという人が、いちばん初めに書いたと言われるテサロニケの信徒への手紙一というのがあります。その終わり近くに、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(第5章16-18節)というたいへん有名な言葉がありますが、パウロは、その生涯の終わり近くにフィリピの信徒への手紙を書いたときにも、自分自身が喜びと祈りと感謝に生きておりました。その喜びと祈りと感謝の源泉は、もう一度申します、フィリピの教会の仲間たちよ、あなたがたがいるからだ、とパウロは言うのです。第4章1節では、パウロはこのフィリピの教会のことを、「わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち」と、最大限の表現を用いて呼んでいます。

■そのようなフィリピの教会に宛てて書いた手紙を、パウロはこのように結んでいます。「キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たちに、よろしく伝えてください」(21節)。ここで「すべての聖なる者たちに」と言っているのは、すべての教会員に宛てて、ということです。教会は聖なるものです。その教会に連なる教会員、ひとりひとりも聖なる者です。しかもパウロは、この「聖なる者」という言葉をもう一回繰り返して、22節でも「すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです」と書いています。この手紙は要するに、聖なる者たちから聖なる者たちに宛てて書かれたものだ。こういう言葉は、単なる社交辞令のようにとられかねない場合もあるかもしれませんが、パウロは決してこういう言葉をいい加減な気持ちで書くような人ではありませんでした。万感の思いを込めて、フィリピの教会の仲間たちよ、あなたがたは聖なる者なのだと、そう書かずにおれなかったのだと思います。

「聖なる者」というのは、清らかな、きれいな人間という意味ではありません。そうではなくて、聖なる者とは、端的に言って、この人は神のものであるという意味です。キリストによって救われて、今は神のものとなっている。他の誰のものでもない、その人自身のものでもない、この人は神のものだ。それを逆の面から言うと、とうてい聖なる者とは呼びにくいような汚れた罪人なのに、キリストの恵みによって赦されて、神のものとされて、確かな喜びと感謝のうちに生かされているということです。パウロは、自分もそのような意味で聖なる者だ、わたしは神さまのものだということを思っていたし、フィリピの教会のことを思うとき、神よ、あの教会をあなたのものとしてくださって、本当にありがとうございますと、感謝のうちにこの手紙を書いたのです。

教会は聖なるものである。私どもがいつも使徒信条において言い表しているように、わたしは聖なる教会を信じます、聖なる者たちの交わりを、わたしは信じます。そのことを最後まで信じ抜くということが、どんなに大切なことか。改めてそのことを思わされるのです。

■さて、ここまで私の話を聞いてきて、既に退屈しておられる方がいたら申し訳ないと思いますが、実はここからが本題です。「本題」なんて言うと、これまで話したことは余談でしかないということになりかねませんが、そういう意味ではありません。こう言い換えてみてもいいのです。「教会は聖なるものである。この手紙は、聖なる者たちから聖なる者たちに宛てて書かれたものである」という、ある意味で当たり前のことを、なぜ改めて強調しなければならなかったか、ということです。もともとこの手紙が書かれた、直接の動機というかきっかけがありました。それは今日読みました15節以下でも明らかなように、フィリピの教会がパウロのために物的な、あるいは金銭的な援助をしたということにあったようです。15節、16節を読みますと、そのフィリピの教会による支援というのは、パウロが投獄されたからということに関わらず、パウロ先生が伝道・宣教の働きに専心できるように、何度も繰り返し、生活に必要なものを送り届けたようなのです。そしてそれは、パウロにとっては決して当たり前のことではなかったし、フィリピの教会もまた、かなり特別な志を立てた上でしたことでありました。

パウロの手紙を読んでいると気づかされることですが、パウロという人がいつも大切にしていたことは、キリストの福音を商売の道具にはしない、ということでした。それは具体的には、今日私どもが用いている言葉で言えば、牧師謝儀を受け取らないということです。そのことで教会の人をつまずかせるくらいなら、教会からお金や物を受け取らない方がずっとよい。こういうパウロの伝道の姿勢は、今もって私どもの教会に対する大きな問いであり続けるかもしれません。使徒言行録第18章を読みますと、パウロがコリントの町に滞在したとき、テント造りの仕事をしながら、同じ職業のアキラとプリスキラという夫婦の家に居候していたということが分かります。もちろん、絶対にそうしなければならないと主張したわけでもありません。むしろ、聖書の他の箇所を読むと、「福音のために働く者が生活の糧を受けるのは当然だ」という趣旨の言葉が、パウロの手紙の中にも、あるいは福音書に出てくる主イエスの言葉の中にもあります。けれどもその上で、現実にはパウロという人は、ほとんどの場合自分の手でお金を稼ぎながら福音伝道の働きを続けました。

ところが、そんなパウロの生活を経済的に支え続けた、ほとんど唯一の教会が、フィリピの教会であったのです。15節には、「もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした」と書いています。来年の4月から、今用いている新共同訳に代えて、聖書協会共同訳という新しい翻訳の聖書を礼拝で使うことを決めました。ぜひ皆さんも関心をもって、今のうちに新しい翻訳に親しんでいただきたいと思いますけれども、新しい翻訳ではこの15節が「会計を共にしてくれた教会は、あなたがたのほかに一つもありませんでした」と訳されました。なるほどと思いますし、この方が直訳に近いのです。「会計を共にしてくれた教会」、そんなことをしてくれた教会は、フィリピの教会のほかにひとつもありませんでした。パウロは、他の教会からは受け取ったことがないものをフィリピの教会からは受け取ったのです。他の教会とはしたことがないような関わり方を、フィリピの教会とはしたということです。それは、パウロにとって決して当たり前のことではありませんでした。一種の覚悟を必要とする出来事でした。

■もちろんパウロは、そのようなフィリピの教会からの好意を拒否するようなことはしませんでした。心から感謝して受け取ったのですけれども、しかしそのことによって、伝道者と教会との関係がただの人間の関係にならないように、細心の注意を払っています。このお金を受け取ったがために、われわれの関係が、聖なる者の交わりではなくて、ただの人間同士の関係でしかなくなったら、すべてがおしまいだ。そうならないように、たとえば17節ではこう言うのです。

贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。

これは少し分かりにくい言葉かもしれませんが、18節の最後の言葉を合わせて読むと、少し理解できるかもしれません。「それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです」というのです。あなたがたの献金は、もちろんありがたくいただくけれども、それは実は神さまに献げられたものであって、「神が喜んで受けてくださるいけにえです」というのです。ここでも面白いのは新しい聖書協会共同訳で、17節を新しい翻訳で読むとこうなっています。

贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの帳簿を黒字にする実りを求めているのです。

これはなかなか露骨な表現だと思います。露骨すぎて、誤解を招くことにもなるかもしれません。つまり、神さまの手元にはわれわれの帳簿があって、ああ、フィリピの教会の人たちはパウロのためにたくさん献金したな。それなら帳簿は間違いなく黒字だ。そうすると、全然献金しなかった人は、神さまの前に赤字が残ってしまうということなのでしょうか。しかもそのことを、言ってみれば牧師謝儀を受け取った本人が書いているのですから、これはいくら何でも、どんな誤解を受けてもしかたがないかもしれません。「たくさんの献金、ありがとう。でも本当は、これは神さまが受け取ってくださったのであって、そのおかげであなたがたの天国の帳簿は黒字になりましたよ。よかったですねー」なんて、どこぞのカルト宗教も似たようなことを言うかもしれません。もちろん、それはパウロの生き方全体を否定するような誤解でしかありません。パウロは、フィリピの教会以外からは、何ももらったことはないのです。

もともとパウロという人は、自分が教会から何かをしてもらえるような人間だとは思っていなかったでしょう。誰よりも熱心に教会を迫害していたのですから、その教会から謝儀をいただくなんて、人間的な感覚から言っても、到底考えられないというのが当然であったろうと思うのです。そんな自分が、それでも今生き永らえることを許されているとするならば、神のために働くために、神に捕まったからだ。最初にお話しした「聖なる者」というのは、まさにそういうことです。神に召されて、今はただ神のために働く者とされて、その働きだって決して自分の手柄にはならない。まして自分の商売の道具になんかなるはずがない。自分はただキリストの奴隷として働くだけだ。したがって、そういう自分の働きを助けるために、誰かが何かをくれるとしても、それは神がご自身の働きを遂行なさるために、たとえばフィリピの教会の献げ物を用いてくださるのであって、その意味でも、フィリピの教会もその献金も、徹頭徹尾、聖なるものなのです。

■最初に申しました通り、パウロはこの時、牢獄の中におりました。その牢獄の中で、フィリピの教会からの贈り物を見つめながら、「これは聖なるものだ。この献金には、永遠の重みがあるのだ」と、そうパウロは言っているのです。「それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです」(18節)。この献金は、ただのモノではない。ただのカネではない。永遠の神が、これを喜んで受けてくださるのだ。

私が常々思わされることですが、パウロという人は、本当に強い人だと思います。その強さの秘密は、永遠を信じている、あるいは終末を信じている、本当にリアルに信じていることだと思うのです。何度も申しますように、パウロは牢獄の中にいるのです。これからあとどのくらい生きられるのか、何の見通しもありません。ですからこの手紙の第1章でも既に、「わたしにとっていちばん望ましいことは、この世を去って、キリストにお会いすることだ」と、自分の死を見つめるような発言をしているのです。しかしまたそれは、フィリピの教会の人たちのためにも、永遠の視点に立つようにと招く言葉であったと思います。いつかフィリピの教会の人たちも、この世を去って、キリストの前に立たされて、かつて自分たちがひとりの伝道者のために一所懸命献げ物をしたことが、実は神の前にこんなに大きな意味を持っていたのかと、不思議な思いでそのことを知ることになるでしょう。まさにそのとき、私どもは新しい思いで、毎週唱えている使徒信条の通りに、信仰を言い表すことになるだろうと思います。「わたしは、聖なる教会を信じます。聖なる者たちの交わりを信じます」。イエスさま、あの教会は、本当にあなたの教会だったのですね。われわれはパウロ先生のために贈り物を贈りましたが、イエスさま、あの交わりは本当に、あなたの交わりだったのですね。

この永遠の視点を忘れるときに、教会は崩れるのだと思います。言い換えれば、教会は聖なるものであるということを忘れたときに、たとえば教会が牧師の生活を支えるか支えないのか、どのくらい支えるのかという問題をめぐっても教会は本当にもろくも崩れてしまうものです。そのことをパウロは真剣に心配したからこそ、ほとんどの教会からは謝儀を受け取らないという姿勢を貫いたのです。

けれどもパウロとフィリピの教会との間では、多くの物やお金のやりとりがありましたが、そのような間違いは起こりませんでした。神が教会を、そして伝道者パウロを、聖なるものとして守ってくださったのであります。そしてまた、この永遠の視点を与えられていたからこそ、パウロは牢獄の中でも望みを持って生きることができました。自分は神のものだ。そして自分が生かされている教会もまた神のものなのだ。聖なる教会の存在のことを思うと、絶えず喜びと祈りと感謝に導かれる、そのような生活を暗い牢獄の中でも貫くことができたのであります。

■このパウロの牢獄での生活ということに関連して、ひとつ私どもが気になることがあります。22節に、「すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです」と書いてありますが、なぜここにローマ皇帝の関係者が出てくるのでしょうか。日本語で「皇帝の家の人たち」と言ったら、天皇家の人たちということになりそうですが、そうするとこの文脈ではさっぱり意味が分かりません。ここではもっと広い意味を持つようで、皇帝の家の使用人とか、召使とか奴隷とか、しかしそれにしても、なぜそういう人たちが、この手紙の差出人に連名で加えられるのでしょうか。

ひとつの解釈は、第1章13節に言及される人たちのことだということです。第1章12節以下に、こう書いてあります。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」(12節)。つまり、パウロが牢屋に捕まったということさえも、福音の前進に役立つ結果になったのだから、どうかそのことを知ってほしい。それがどういうことかというと、「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り」(13節)と言うのですが、この兵営全体というのがつまり、「皇帝の家の人たち」、ローマ皇帝に属する軍人たちということであります。パウロを牢屋に閉じ込めていた、その意味でパウロのいちばん近くにいた軍人たちも気づいたのです。このパウロという人は、別に悪いことをして捕まっているんじゃない。キリストのために、この人はここにいるのだ。ですからある人は、パウロはそういうローマの軍人たちと一緒に、鉄格子をはさんで、一緒に礼拝を続けていたのではないかと想像します。「わたしがここにいるのは、キリストのためなのです」と、そこでもパウロは伝道を続けていたのではないかと言うのです。そこにも、神による交わり、聖なる教会の交わりが生まれておりました。

そしてそのようなところに、フィリピの教会からの贈り物が再び届きました。いつも一緒に礼拝しているローマの軍人たちが、それを牢の中にいるパウロに持ってきてくれたのでしょう。パウロは当然、その軍人たちのためにも、この贈り物がどんなに大きな意味を持つか、神のまなざしの中で永遠の重みを持つ贈り物であるということを喜んで語ったでしょう。それを見た皇帝の軍人たちも、これは単なる人間同士のやり取りではない、神がこの贈り物を受け取ってくださるのだ、と悟ったことでしょう。だから、「特に皇帝の家の人たちからも、よろしく」と書くのです。

キリストの恵みによって生きるということは、教会に生かされるということです。今、自分に与えられている具体的な教会の生活を、神からのもの、聖なるもの、永遠の価値を持つものとして重んじるということです。今、ひとりの伝道者である私のためにも、鎌倉雪ノ下教会という教会が与えられています。そのことを、今心から感謝しつつ、私もまたパウロと同じように祝福を皆さんに告げます。「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」。お祈りをいたします。

 

伝道者パウロを生かし、またその働きによって、フィリピの教会を生き生きと生かしてくださいました主イエス・キリストの父なる御神、きのうも今日も、また永遠に変わることなく、あなたは働いておられます。今、私どもをこの教会の交わりに生かしてくださいます。その聖なる出来事を、心から信じるものとさせてください。あなたが今も、この教会の主でいてくださることを信じて、献げるべきものを献げることができますように。もののやり取りにおいて、会計を共にすることにおいて、教会も伝道者も、間違いを犯すことがありませんように。この教会の交わりは、あなたのものです。感謝して、主のみ名によって祈り願います。アーメン