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思い煩いは、神に打ち明けなさい

2022年7月24日

川崎 公平
フィリピの信徒への手紙 第4章2-7節

主日礼拝

 

■日曜日の礼拝において、フィリピの信徒への手紙を読み続けてまいりまして、今日から最後の第4章に入ります。今日は2節から7節までを読みました。それほど長くはない段落の中に、しかしたいへん豊かな内容を持つ言葉が、次々と重ねられています。最初に断っておきますが、今日一回の礼拝で、この2節から7節までの言葉を全部取り上げることはしません。もともとはそういう心づもりだったのですが、どうもそれは不可能だということに気づきました。再来週、次に私がここに立ちますときには、もう一度4節から9節までを続けて読んで礼拝をしたいと考えています。

それにしても、たいへん豊かな内容を持つ部分であり、既に聖書朗読をお聞きになりながら、いろんな言葉が気になったことだろうと思います。たとえば4節。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」。あるいは5節。「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます」。またあるいは、6節。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」。何だか、自分自身の生活を鏡に映すようにして、その点検を求められるような思いがいたします。この一週間のことを考えてみても、いろんなことを思い煩ってきたのであります。どんなに思い煩ったって、一歩も前進しないことは理屈では分かっているのに、どうしようもないのです。そして、私どもの思いが煩えば煩うほど、私どもの心は狭くなってしまいました。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と、わざわざ重ねて言わなければならなかったのは、何度同じことを言われても、それを悟ることのできない私どもの生活の実情があるからだろうと思います。

「生きることは、喜ぶことである」と、ある人が言いました。「なぜなら、不平や不満ばかり言っている生活には、本当の命がないからだ」と、そう言うのです。なかなかきつい言い方です。しかし、言われてみればその通りだと思わされます。喜びのない人生というのは、それがたとえどんなに華やかに見えたとしても、死んだも同然です。しかもここでパウロは、「主において常に喜びなさい」と言います。喜べることがあったら喜びなさい、というのではなくて、常に喜ぶのです。これはずいぶん無茶を言っているように思えるかもしれませんが、私は、こういうところに本物の喜びの、その本質が現れているように思うのです。常に喜ぶというのはつまり、喜べる条件が整ったら喜びなさい、という話ではないということです。喜べる条件が十分に整っている人生なんてものは、私どもの誰にも与えられていないと思います。どんな人にも、誰にも相談できないような悩みや苦しみがあるものです。すべての悩みが解決するなんてことは、決してありません。主が再び来てくださる時までは。

ことにパウロがこの言葉を書いたとき、それは牢獄の中で、この言葉を書いたのです。何か悪事を働いたから、捕らえられているのではありません。ただキリストの信仰のゆえに、すべての自由を奪われて、しかもこのまま牢獄の中で一生を終える公算が非常に高いというところで、この言葉を書いたのです。喜ぶための条件ということで言えば、これ以上悪い条件はないかもしれません。私どもが常に喜ぶことができないのは、その条件が整わないから喜べないのではないのであって、端的に言って、私どもに喜ぶ力がないから、喜べないのです。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」と書いてあります。思い煩いの種は、いくらでもあるのです。その思い煩いを振り捨てて、これに打ち勝って、常に喜びなさいと言われるのです。けれども問題は、私どもにその喜ぶ力がないということなのです。だがしかし、その喜ぶ力を与えられることがなかったら、私どもは一生、あれが足りない、これが悪い、あの人のせいだと常に思い煩いながら、死んだも同然の生活を、本当に死ぬまで続けることになるのかもしれないのです。それをやめなさいと、この手紙を書いたパウロは言っているのです。

■「主において、常に喜びなさい」とパウロは書いています。「主において」。「主の中で」ということであります。この「主において」という小さな言葉を、パウロはどんなに心を込めて書いたことだろうかと思うのです。7節に、「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と書いてありますが、これも直訳すれば、「あなたがたの心を考えとを、キリスト・イエスの〈中で〉守るでしょう」という表現です。聖書協会共同訳という新しい翻訳は、「キリスト・イエスにあって守るでしょう」と訳しました。「キリスト・イエスによって」と「キリスト・イエスにあって」と、ひらがな一字違いですが、私はどちらかと言えば新しい翻訳の方に心を惹かれます。あなたがたは、主の中にいるんだ。主イエスの外になんかいない。キリスト・イエスの中で守られているんだから、あなたの心も、考えまでも守られているんだから、その主イエスの中で、常に喜びなさい。

その意味では、ここでパウロが求めていることは、ただ信仰だけであります。「主イエス・キリストを信じなさい。重ねて言います。信じなさい」。喜ぶというのは、信仰に何か特別なものをプラスすることではありません。「常に喜びなさい」というのは、喜びのネタを探し回りなさいとか、プラス思考で頑張りなさいとか、ましてやせ我慢をしろという話ではないのです。主イエスを信じるのです。ただ、それだけなのです。あなたは、主イエスの中にいるんだ。あなたの心も考えも、主イエス・キリストの中で守られているんだ。その事実から目を逸らすな。

■パウロという伝道者が、フィリピの教会のために、なぜこのような内容の手紙を書かなければならなかったか、実はその具体的な理由を、この箇所から読み取ることができます。今日読みました聖書の最初のところに、「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます」(2節)と書いてあります。まったく突然にふたりの女性の名前が記されるのですが、フィリピの教会においてはよく知られた女性たちであったのでしょう。しかし今となっては、このふたりが何者であったか、何も知ることはできません。ただひとつ分かっていることは、このふたりが仲たがいをしていたということです。「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」。けれども今、あなたがたは、同じ思いに生きることができていないようだね。既にこの手紙の第2章にも、似たような趣旨のことが書いてありました。

そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい(第2章1~4節)。

フィリピの教会の人たちが、牢獄に捕らわれているパウロ先生から手紙をもらったとき、それは感激しただろうと思います。「わあ、パウロ先生からの手紙だ!」 そのパウロ先生から、このような言葉を投げかけられたときに、フィリピの教会の人たちはすぐに、エボディアとシンティケというふたりの女性の名を、まず具体的に思い出したかもしれないのです。ああ、パウロ先生にこんなに心配をかけてしまって、申し訳ない。それにしても、ここでわざわざ名前を挙げて、「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます」。特に、このふたりなんだ。あなたがたふたりには、よく分かってほしいんだ。そんな手紙が、二千年たった今も、全世界で読まれているというのは、見方によってはずいぶん残酷な話ですが、まさにこういうところでこそ、「主において常に喜びなさい」という聖書の言葉が、生きるのか、死ぬのか、厳しく問われてしまうと思うのです。

「主において常に喜びなさい」。こんなに難しいことはないのです。「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」と言うのですが、私どもの心がいちばん狭くなってしまうのは、どういう場面でしょうか。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ」と言うのですが、そうは言っても、これだけは思い煩うのを許してほしい。これだけは感謝することなんかできない。そう思えてならない、ひとつの典型的な場面が、人間関係のこじれだと思うのです。どうもあの人とはうまくいかないな。「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」、いやあ、あの人とだけは、それはいくら何でも無理。けれども、そういうときにこそ、「主において常に喜びなさい」という言葉を真面目に聞き取る努力をしなかったら、結局私どもは死ぬまで、喜びの種を探し回りながら、思い煩ったまま死んでいくということにしかならないと思うのです。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と、パウロが言葉を重ねているのは、それが私どもにとっても、どんなに難しいことかということをよく知った上でのことだろうと思うのです。

■問題は、それならば、どのようにしてこの問題を解決することができるかということです。ところがここでもパウロは同じことしか言わないので、先ほど触れた「主において」「主の中で」という言葉が、既に2節にも出てきました。「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」と言うのです。特に、あなたがたふたりには、このことを思い起こしてほしい。あなたがたは、主の中にいるんだから。あなたがたは、決して別々のところに立っているんじゃない、同じ主イエス・キリストの愛の中に生かされているのだから、その同じ主の中で、同じ思いを抱きなさい。あなたがたが同じ思いを抱くことができていないとするならば、それはひょっとすると、主の外に立って、物事を見ていないかな。そうではなくて、主の中に立って、主の中で心も考えも守っていただいて……そうしたら、同じ思いを抱くことができはしないかな。

その観点から、もうひとつ注目したい言葉は、「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます」という表現で、これは誰でも気づくところかもしれませんが、たいへん丁寧な言い方になっています。「あなたに勧めます、また、あなたにも勧めます」と言うのです。ここで「勧める」と訳されている言葉は、特に新約聖書においてたいへん大切な、また豊かな意味を持つ言葉で、「慰める」とか「励ます」とか、もともとは「呼びかける」というのが基本的な意味ですが、そこから「懇願する」という意味も持つようになりました。「わたしはエボディアに懇願します。またシンティケにも懇願します。そのことによって、わたしはエボディアを慰めます。またシンティケを慰めます」。「主の中に立って、同じ思いを抱きなさい」。あなたがたは主イエスの愛の中にいるんだから、だからどうか、もう争わないでください。

■しかもそこで、パウロは3節でこういう不思議なことを書いています。「なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください」と言うのですが、この「真実の協力者」とはいったい誰か。「あなたにも」と言っているのですから、特定のひとりの人を指しているのです。仲たがいをしていたふたりが、主の中でひとつの思いに生きるために、「真実の協力者よ、あなたの助けが必要なのです」。当時のフィリピの教会の人たちは、誰のことを言っているのかすぐに分かったのでしょうが、これも今となっては完全に謎です。

ただ、ひとつ興味深いのは、この「協力者」と訳されているのは、「軛を同じくする者」という意味の言葉です。牛や馬がひとつの軛につながれるように、ひとつの軛で一緒に労苦している者ということです。軛というのはたいてい、二頭の家畜をひとつの軛につないで、その二頭が一緒に力を合わせて重い荷物を運んだり、畑を耕したりするわけですが、それに似て、パウロがフィリピで一所懸命伝道したときに、本当にパウロと一心同体となって、協力して働いた人がいたのかもしれません。それで、この手紙でも、「わたしと一緒に軛を同じくする者よ」、かつてわたしを支えてくれたように、今は特に、あのふたりの婦人を支えてあげてください、と呼び掛けるのです。

もうひとつ、私が興味を持った解釈は、この「軛を同じくする者」という言葉は固有名詞ではないかというのです。むしろそう考える学者の方が多いかもしれません。固有名詞なら、「協力者」なんて日本語に翻訳しないで、もとのギリシア語をそのまま表記すればよいのです。これに似た分かりやすい例は、主イエスの一番弟子の本名はシモンと言いますが、主イエスによってペトロ、「岩」という意味を持つあだ名を与えられました。むしろその「ペトロ」というあだ名の方が、のちの時代の教会において重んじられましたし、もちろん聖書にペトロの名が出てくれば、それをわざわざ「岩は泣き出した」などと訳すこともないので、「ペトロは泣き出した」と訳すのです。ちなみにこの「協力者」と訳されている言葉は、ギリシア語では「シュジュゴスSyzygos」と言います。パウロと一心同体となって、本当に熱心に働いたがために、「シュジュゴス」、「軛を同じくする者」というあだ名で呼ばれた人がいたのだろう、と考えるのです。

こういうことは、話の本筋から言えば、あまり重要ではないかもしれません。しかしここで大切なことは、仲たがいをしている人を慰め、あるいは適切な勧めをするためには、真実の協力者が必要だということです。その協力する者が、自分だけは高みに立って、自分だけは人と争ったことなんかないような顔をしていたら、喜ぶことができないで悩んでいる人を助けることはできないのです。その人と一緒に軛を負うのでなければ、忠告する資格もないし、本当に助けることもできないでしょう。

しかもパウロは丁寧に、こう言っています。「二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです」(3節)。エボディアもシンティケも、あなたと同じように、わたしと一緒の軛を負ってくれたんだ。わたしと一緒に、主の恵みの中に立ったのだ。どうか、その事実を思い起こさせてやってほしい。このふたりが「主の中で」同じ思いを抱くことができるように、どうか助けてほしい。そう言うのです。

■人と人とが、同じ軛を負うということは、表現としては美しいのですが、現実にはそんなに簡単なことではありません。なぜなら、私どもは罪人だからであります。聖書は、私どもは例外なく罪人なのだと教えるのですが、そのことが分かるいちばん典型的な場面は、誰かがわたしに罪を犯したときだと、私は思うのです。何なんだ、あの人は。そう思うとき、もうその人と一緒に軛を負うことはできなくなります。「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」、あの人とだけは、そんなの絶対無理、と、まさしくそう思うところでこそ、私どもは自分自身の罪深さを知ります。そうではないでしょうか。けれども問題は、そこでどうするのか、ということです。

エボディアとシンティケだって、それぞれに言い分を聞いてみれば、それぞれに、「なるほど、そうだね」という点があったに違いないのです。そして人によっては、「いや、ふたりとも悪くないよ」と慰めたかもしれませんし、また別の人が両方の話を聞いたら、「どっちも悪いよ。ふたりとも、ごめんなさいって言いなさい」と勧めたかもしれません。ところがパウロは、「ふたりとも悪くないよ」とは言わないし、「ふたりとも悪い」とも言わないのです。「主において同じ思いを抱きなさい」と言うのです。主イエス・キリストの中に、もう一度立ちなさい。そしてこのお方の中で、常に喜びなさい。重ねて言います、喜びなさい、と言うのです。そしてそのために、シュジュゴスよ、あなたにお願いしたい、同じ軛を負う者として、どうかこのふたりを助けてあげてください。ふたりが主の中で一緒に、喜ぶことができるように。主はすぐ近くにおられるのですから、ふたりが広い心に生きることができるように。

軛という言葉を聞けば、すぐにマタイによる福音書第11章の最後にある、主イエス・キリストのお言葉を思い起こす方も多いと思います。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と主イエスは言われるのですが、その休みの内容というか、休み方の具体的な方法は何かというと、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われるのです。私どもが誰かの軛を一緒に担うとき、ことに誰かの罪の軛を一緒に担うとき、けれども実は、わたしは主イエスと一緒に軛を負っているのだ。そのことに気づきます。主イエス・キリスト、実はこのお方が、わたしのためにどんなに重い罪の重荷を負ってくださったか、そのことを悲しみつつ、今はこのお方に招かれて、このお方の軛を共に負うのです。それ以外に、わたしが真実の休みを得る道はないからです。

このお方に出会う前は、誰かがわたしに対して罪を犯したとき、同じ軛につくどころか、憎み合うことしか知らなかったのです。けれども、ただ主イエス・キリストの軛を負わされて、このお方がわたしのためにどんなに重い罪の重荷を負ってくださったか、そのことを知ったならば、罪を犯している者、失敗している者と同じ軛を担うことができるのです。主は、わたしの軛は負いやすいんだから、わたしの軛を負いなさい、そうすればあなたがたは本当に休むことができると言われました。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい」と言われたのであります。

このお方の恵みの中で、今み言葉を聞きます。「常に喜びなさい、主イエスの中で」。「主はすぐ近くにおられるのですから、あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」。私どもの心と考えとを守ってくださるのは、ただひとり、主イエス・キリストだけなのです。お祈りをいたします。

 

今私どもも、主の恵みの中に立ちます。私どもの思いも考えも、あなたに守っていただくことがなければ、どこまでも落ちていく私どもなのであります。どうか、助けてください。私どもも、互いに助け合い、互いの重荷を負い合うことができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン