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命をかける愛

2022年7月17日

嶋貫 佐地子
ヨハネによる福音書 第11章1-16節(I)

主日礼拝

ヨハネによる福音書の第11章に入りました。この第11章は、主イエスが、ラザロを死からよみがえらされた出来事であります。もしかしたらこの中にもああ、第11章かと思い極まれる方もおられるかもしれません。私もこのヨハネを読み始めましたときから、いつか、この第11章が来るのだと、ある意味震える喜びを覚悟しておりました。
豊かな説教者であったイーヴァントという人が、ここを「この物語について説教するなどというような試みを、誰が受けたか」と言いました。そうだこれは試みだ。それを、神から受けたかね?誰がそんな試みを受けることができるかね?それほどに、ここを説教するなどということは「全く不可能と思われる」と言っていました。
それほどに、この出来事が、この物語そのものが、純粋すぎて、そして偉大で、ここにあること以上に誰も明らかにすることはできないし、むやみに触れることも許されない。でもそれが地上に降りて来て、今ここに、おりてきているときに、私は素直にこう言えます。
まぶしい。

まぶしい第11章であります。
これは光の柱。
この会堂の真上から真下に、まっすぐに降りてきた光の柱。そしてこうも言えます。
これは命の光の、光の柱。

私どもの前に立ちはだかる死というものについて、こうして座っていても心配で、こわくて、悲しくて、何についてもそこまでだと思わせるその問題ついて。その堅い岩盤が崩れ落ちて、向こうから強い光が差すような、その光の中へ、私どもが飛び込めるかどうか。
しかしどうしても、そこに行かねばならぬのです。
主、キリストが呼ぶのですから。

エルサレムで、主イエスはユダヤ人たちから殺されそうになりました。そこで主は、そのエルサレムを離れて、ヨルダンの向こうと呼ばれるところに滞在されました。主イエスにとってそこは、平穏な地でありました。多くの人が主を信じたからです。でもそこに、一つの知らせが、遠いベタニアからまいりました。ラザロが病気なのです。

その知らせはラザロの姉妹、おそらく、姉たちと思われるマルタとマリアから、人を使ってよこされたものでした。姉妹たちの知らせはこうでした。

「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」(11:3)

この言葉の中に、すでにラザロに死が近いことが表れていました。そしてこの言葉の中に、主イエスを慕う三人が映し出されておりました。主イエスもまた、その言葉の中にあるものを全部、受け取られました。
あなたを待っております。その思いです。

けれども主イエスは、父なる神からこれをお受けとりになって、そうでありますから、こう言われました。

「この病気は死で終わるものではない。」(11:4)

この病気は死で終わらない。それはこういう意味です。この病気で彼は死ぬ。
けれども、それで終わらない。なぜなら、わたしを信じる者は永遠の命を得るから。

「死で終わらない命」、
それがこの第11章の意味であります。
このあと主は、ラザロの姉マルタに言われます。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(11:25-26)

主を信じる者だから、その命は死で終わらない。わたしは復活であり命であると言われた、復活そのものである主イエスがその人を起こしに行くのだから。その人は、今も、そして将来も。その復活の命の中で生きる。

それを真実とするために、主は彼のところに行かれます。
主イエスは「これは神の栄光のため」(11:4)だと言われました。ラザロが起こされる時、そこに神の栄光が現れるからです。神が、主イエスによってその業をなさるのです。そこにいた者たちが主から起こされた人間を見たとき、神が神であることを人が見るからです。神の子イエス・キリストが、人を死から呼び起こす力があることを、主は地上で実証されます。

ですから、主はなお、その同じところに二日間滞在されました。主イエスはすぐに三人のところに行かれなかったのです。ベタニアに行くのを遅らせられたんであります。二日間。そのあいだ、死を待つ二日間。そのあいだに、ラザロは確かに死に至ったのです。「もうにおいます」(11:39)という姿になったのです。

あなたを待っております。その思いを。
主イエスと姉妹が、お互いに、わかっていた、その思いを。私どもが愛する者の病床で思うその思いを。私どもの「この人を癒してください」という、願い以上の、よみがえりの命をもって、主がお応えになるのです。

でも二日間の遅れは、弟子たちを安心させました。弟子たちにとって、主がすぐにベタニアに行かれないことは当然に思われました。なぜなら、ベタニアはエルサレムの近くにあり、およそ三キロでエルサレムという村だったからです。三キロであります。エルサレムまでは目と鼻の先の距離です。そんな危険なところに主が戻るなんてことは、彼らには考えられませんでした。ところが、二日経ったとき、主が彼らに「もう一度、ユダヤに行こう」(11:7)と言われました。弟子たちは驚きました。そして言いました。ユダヤに戻るのですか?「ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」(11:8)弟子たちは、それは殺されに行くようなものだと、咄嗟にわかったのです。

でも主イエスは、もう一度この目的を言われました。

「わたしは彼を起こしに行く。」(11:11)

二日遅れてよかった。なぜならこれはあなたがたにとって「信じるようになるため」(11:15)だから。そのために、あなたがたのために、あなたがたが信じるようになるために、このことはよかった。でもその二日前に、主が言われたことはこうでした。
「神の子がそれによって栄光を受けるのである」(11:4)から。

この意味を、そのときは誰もわかりませんでした。
「神の子がそれによって栄光を受けるのである。」

これは十字架のことです。主イエスはヨハネ福音書を通して繰り返しご自分の栄光について言われました。「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので」(7:39)というのは、まだ十字架で死んでいないという意味であり、主が「人の子が栄光を受ける時が来た」(12:23)と言われたのは十字架のことです。そして「父よ、時が来ました」(17:1)と祈られたのも、「わたしに栄光を与えてください」、「わたしがみもとで持っていたあの栄光を」(17:5)と、祈られたのも、十字架と、その務めを成し遂げられる従順と、復活によって父のもとに引き挙げられることを思われてのことです。

主イエスがラザロを死からよみがえらせることは、その引き換えに、主の十字架が決まることでした。この第11章の終わりになりますと、この光の出来事が起こって、ユダヤの最高法院が開かれます。そこで大祭司カイアファが言います。「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が」(11:50)好都合じゃないか。
この出来事でまた人々が大騒ぎになって、国民が惹きつけられる先導者が現れたとなったら、ローマ帝国が黙っていないだろう。だがそこで、その一人を差し出したらどうなるか。一人の人間が、民の代わりに死ぬ方が好都合じゃないか。

この言葉は、カイアファの言葉にして、彼の考えではなく、これから起こることの預言であったと、ヨハネ福音書は記します。イエス・キリストはこうして、国民のために死ぬと、そればかりではなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬと、ヨハネ福音書は記し、そして伝えます。

「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」(11:53)

そこに入って行かれる主イエスです。
ラザロのよみがえり、そのために主の十字架が決まる。ラザロをよみがえらせる。そのために、主が命を差しだす。
先ほどのイーヴァントという人は、それをこう言いました。
「ラザロの復活は、主がその頭にいただかれた、あの茨の冠。」
「王冠だ。」

「神の子が栄光を受ける」というのは、そういうことであります。私どもが信じるようになるため、私どもの命が死で終わらないために。
命には命を。差し出す愛です。

マルタとマリアは言いました。
「あなたの愛しておられる者が病気なのです。」
あなたが、愛しておられる。その者が。病気なのです。その言葉の愛は、「友愛」を表す言葉でした。友として、彼を愛してくださっているあなた。その愛への深い信頼を、彼女たちは持っていました。でもそれに応えるようにして福音書はその「愛」を言い直しました。

5節にはこのように記されています。

「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」

5節にある「愛」は、聖愛といわれる、神の愛です。
福音書はそう言い直しました。「イエスは、彼らを愛しておられた。」福音書は彼女たちの愛の言葉を否定しているのではないのです。そのとおりだ、主はあなたたちの友だ。けれども、主が、そのあと
「神の子がそれによって」と言われたとき、福音書はこみ上げたんだと思う。
「神の子がそれによって栄光を受ける。」

それは、神の愛だ。
神の子として、主は、あなたたちを愛している。
そしてこれは、われわれすべてのことだ。
友のために命を捨てる、
主はあなたたちを愛している。

ラザロの墓に、光の柱が降りたとき、
それによって、
神の子の真実の愛が上がってゆく。
下から上へ、
地中深くまで達した十字架によって、下から上へ、まるで逆流して、
主の命があがってゆく。

この第11章の光の柱は、主の命なのです。

私どもはこれから、その光の中に踏み込みます。

 

天の父なる神様
栄光を、あなたの親愛なる栄光を感謝いたします。
主の御名によって祈ります。アーメン