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教会に生かされるしあわせ

2022年5月22日

川崎 公平
フィリピの信徒への手紙 第2章19-30節

主日礼拝

■伝道者パウロが、このフィリピの信徒への手紙を書いたのは、牢獄に監禁されていたときのことでした。今日読みました第2章19節以下は、そのときのパウロの生活の様子の一部を垣間見せてくれます。当時の牢獄の生活というのは、おそらく現代の日本の刑務所での生活よりも過酷な面があったと思いますが、パウロは決して孤独ではありませんでした。牢の中にいるパウロにしっかりと寄り添っていたふたりの名がここに記されています。それが、テモテとエパフロディトです。

■テモテというのは、パウロがいちばん信頼していた伝道者です。と言っても、年齢はテモテの方がずっと若く、22節には「息子が父に仕えるように」と書いてありますが、パウロは特にこのテモテのことを、わが子のように大切にしたようです。「さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています」(19節)。もちろんパウロには移動の自由がないわけで、それでテモテをわたしの代わりに遣わそう。それが、あなたがたにとっていちばんいいことだと信じるから。「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです」(20節)。

ところが、23節以下をよく読むと、でも今すぐというわけにはいかない、と言うのです。テモテをフィリピの教会に遣わすのは、もうちょっと待ってくれ。「そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています。わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています」(23、24節)。微妙な書き方ですが、結局は何を言っているかというと、25節以下に出てくるエパフロディトをフィリピに帰すのは今すぐでもいいけれども、テモテはだめだ。なぜなら、わたしのためにもテモテが必要なんだ。今、テモテがいなくなったら、さすがに困る。そういう話です。

ここに、孤独を恐れるパウロの姿を読み取ることもできるかもしれません。特に私が強烈だと思いましたのは、21節です。「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」。しかしテモテは違う、と言うのです。「自分が信頼できるのは、テモテだけだ。あとの人は自分のことしか考えていない。まったく信用ならん」。ずいぶんな発言です。実際、ある学者は、きっとパウロは長い監禁生活で精神も弱ってしまって、ついこういう感情的なことを書いてしまったんだろうと、批判的なことを書いていますが、それはおかしいと思います。そういう読み方は、〈喜びの手紙〉とさえ呼ばれるフィリピの信徒への手紙全体と矛盾しますし、このあとのエパフロディトの話だって、自分のために病気で死にかかった仲間のために、パウロが牧会者としてどんなに深い配慮を示したか。しかしそれにしても、パウロがここで、人間としていちばん苦しい孤独と戦っていたことは間違いのないことだと思います。

しかし、考えてみていただきたいのですが、そういうところで、「でも、わたしにはテモテがいるから」と言えるというのは、実は非常に幸せなことではないでしょうか。教会生活をしていると、「わたしには、この人がいるから」と、心からの感謝をもって名前を挙げることのできる信仰の仲間が与えられるものだと思います。「この人だけは、どんなときにも、自分のために祈ってくれる。寄り添ってくれる」。そしてそういう教会の仲間というのは、きっとそれほどたくさんではないと思います。もちろんたくさんいたっていいのですが、多くの場合、案外少ないと思います。パウロは、「テモテ以外、ひとりもいない」とまで書いています。けれども、そのひとりがいれば、私どもは生きることができるのです。教会とは、そういうものだと思います。

■ただ、今の私の話し方は、ちょっと皆さんをミスリードするようなところがあったかもしれません。パウロがテモテを心から信頼していたのは、「テモテだけは、わたしの味方だ」というような話ではないからです。少なくともそれだけではないからです。「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです」(20節)。そのような文脈で、「他の人は皆、自分のことしか考えていない」と言うのです。

フィリピの教会の基礎を最初に築いたのはパウロです。ですから、フィリピの教会のことをいちばんよく考えているのは自分だ、というような自負があったとしても不思議ではありません。次回読みますが、第3章2節には「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」とまで書いています。フィリピの教会を迷わせる人たち、それこそミスリードする人たちがいたのでしょう。そういう教会の危機があったからこそ、「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」とまで言わなければならなかったのです。しかし、テモテは違うよ。テモテだけは、あなたがたのことを本当によく考えてくれている。今すぐにテモテを送るわけにはいかないけれども、なるべく早くテモテを送るから、そのときにはどうかその指導を重んじてほしい。「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです」。

■この「親身になって」という言葉は、たいへん興味深いものです。もともとの意味は、自分の血を分けた正当な子ども、法律用語で言えば「嫡出子」という言葉です。そこから、「わがことのように相手に関わる」、「まごころを込めて、親身になって」という意味になりました。その意味では、「親身」という日本語は、非常にぴったりな翻訳です。本当に親身になって、つまり、肉親の家族のことのように、あなたがたフィリピの教会のことを本気で考えることができるのは、テモテ以外に考えられない。

先ほども申しましたように、人間は誰でも、親身になって自分のことを理解してくれる人を求めています。そして本当は、自分も人のことを親身に、わがことのように考えられるような、そういう人間としての強さと優しさを身に着けることができたら、どんなによいかと願っているのです。ここでパウロは、それができるのはさしあたりテモテだけだと言い切っています。なぜテモテにはそれができたのでしょうか。「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」。しかし、テモテは違う。テモテは、自分のことではなく、イエス・キリストのことを追い求めている。そう言うのです。

自分のことだけを追い求めている人間というのは、本当はいちばん不幸なのです。実は皆よく分かっているのに、やっぱり本音では、自分がいちばんかわいいのです。そこに私どもの悲惨があります。そう言えば、この第2章の最初のところにも、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、……めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(3、4節)と書いてありました。ところが今読みました21節を注意深く読むと、「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを」と書いてあります。つまり、自分のことだけ考えるな、他の人のことも考えてあげなさい、というのではなくて、「イエス・キリストのことを追い求めなさい」。大切なのは、そこです。テモテはそのことができる人だ、というのです。そして本当は、すべての人が、イエス・キリストのことを追い求めなければならないのです。それができなければ、人間が人間として生きることさえできないのです。

このイエス・キリストというお方が何をしてくださったか、既にこの第2章の最初のところで、このように語られておりました。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした(6~8節)。

それは他でもない、私どもの救いのためであったというのです。その意味では、まずキリストが、私どもをわが子のように扱ってくださったのです。私どもだって、自分の子どものためなら、どんな犠牲も惜しむことなく愛を注ぐものです。実際にそれが正しくできているかどうかはともかく、そういうことを願ったことのない親はいないのです。主イエス・キリストは、まさしくそのように、私どものことを親身に扱ってくださいました。自分の血を分けた子どものように、「あなたのためなら、どんな犠牲だって」と私どもを愛し抜いてくださいました。

ここに、「追い求める」という言葉があります。「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」。この「追い求める」という言葉は、新約聖書においてたいへん大切な意味を持ちます。その話を延々とするわけにもいかないのですが、たとえばマタイによる福音書第18章12節に、こういう主イエスの言葉があります。

あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか(追い求めないだろうか)。

もちろん、主イエスは、わたしは最後まで、その一匹を追い求める、と言われたのです。その上で、さらに言われるのです。そういうわたしの心が分かったなら、あなたがたも、「小さな者の一人でも軽んじないように気をつけなさい」(10節)、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(14節)。主イエスが私どもを追い求めてくださったから、だから今私どもはここにいるのです。しかしそうであるならば、当然私どもの方からも、その主イエス・キリストを追い求めないわけにはいきません。私どもの主、イエス・キリストがどういう方であるかが分かったら、私どもはどうしたって謙遜にならざるを得ないでしょう。そうしたら当然、他の人に対する態度も改まってくるのです。

■パウロがテモテを信頼していたのは、まさしくそのような意味においてです。その関連で、もうひとつ丁寧に紹介したい言葉は、22節の「テモテが〈確かな人物〉であることはあなたがたが認めるところであり」という表現です。昔使われていた口語訳という翻訳では、「テモテの練達ぶりは」と訳されました。これもよい翻訳だと思います。もともとの意味は「テストに合格した」という言葉です。練達という言葉にもその意味が含まれていると思いますが、何度も試練に遭って、それを乗り越えて、合格して、そのようにして練り清められていった「人物」ということです。

練達と言うと、すぐに同じパウロの書いたローマの信徒への手紙第5章3節以下を思い起こす方があると思います。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という有名な言葉があります。原文では同じ言葉なのですが、なぜか新共同訳はロマ書では「練達」、フィリピ書では「確かな人物」と訳しました。翻訳はどうであっても、もともとの意味は試練を乗り越えて、その意味でテストに合格したという意味だと申しましたが、私どもは望まなくてもいろんな試みを経験するのです。いろんな苦難があり、忍耐しなければならないことはいくらでもある。テモテだって、たとえば受刑者であるパウロに寄り添い続けるというのは、政治的な理由でパウロは捕まっているわけですから、そのことひとつとっても実は並大抵の試練ではなかっただろうと思います。そういう苦難の中で、へこたれてしまうのか、かえって罪深くなってしまうのか。パウロは、「苦難は忍耐を生む」と言い切っています。なぜ忍耐できるのか。神の愛を信じているからです。

わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

そしてパウロはもちろん、テモテの姿の中にも、この神の愛の実例を見ていたと思います。苦難が忍耐を生み、忍耐が確かな人物を生み、その確かな人物が希望を生む。なぜなら神の愛がテモテにも注がれているからだ。

練達、あるいは確かな人物というのは、言い換えれば、この神の愛だけは疑うことができない、そういう信仰に根差す人格が作られていくということであります。先ほど紹介した、迷い出た一匹の羊のことを考えてみてもよいのです。百匹の中で、迷い出たのはたった一匹だというのですから、その一匹というのは、きっといちばんつまらない、いちばん頭も悪い、そして何よりいちばん罪深い人間であるに違いないのです。けれどもその一匹というのは、主が追い求めてくださった一匹なのです。わたしは神に愛されて、だからわたしは今ここにいるのだ。ただそのことに根差すテモテの練達ぶりは、あなたがたもよく分かっているだろう、というのです。そしてそういう、神の愛によって練り清められた人物は、いつもイエス・キリストのことを追い求めるようになるし、もちろん、だからこそ他の人のことをもきちんと考えることができるようになるのです。

■そこでもうひとりの人物、エパフロディトの話です。第4章18節にもエパフロディトの名が出てきますが、そこからも分かることは、フィリピの教会が、パウロの生活を支えるための援助をしていたらしいのです。パウロが牢獄で食べる物、着る物に困らないように、フィリピの教会はエパフロディトを遣わして、いろんな援助物資を届けさせて、それだけでなく、牢獄の中にいるパウロのところでしばらく一緒に生活をさせたようなのです。一種の世話係のようなものです。現代的な感覚からすると、牢屋に入ったというわりにはずいぶんと自由だな、という感想も生まれそうですが、逆に言えば、当時の囚人の生活というのは、そういう援助がなかったらとても耐えられないものであったということです。ところがエパフロディトは、そういう無理な生活がたたってか、病気になってしまいました。死ぬほどの病気であったというのですが、幸いにして最悪の事態は免れました。けれども今度はホームシックにかかってしまいました。26節には、「しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです」とあります。

今このような話を聖書で読んでも、私どもはそんなに複雑な思いにはならないと思います。エパフロディト、本当に無理したんだろうな。病気になっても、そりゃしょうがないよな。しかし当事者からしたら、こんなに苦しいことはないのです。フィリピの教会を代表して、パウロ先生を支えるためにはるばるやってきたのに、病気になってかえって先生に迷惑をかけてしまった。フィリピの教会の中にも、エパフロディトに対して、同情以外の感情も生まれたかもしれないのです。あーあ、先生に迷惑かけちゃって。本当に使えないやつだなあ、エパフロディトは……というような声が実際にあったかどうかは実は分からないのですが、エパフロディト自身は、非常に苦しい思いをしたようなのです。

パウロは、このような小さなひとりのために、丁寧に心を配っています。「彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが」(25節)と、最大限に彼の働きを評価しています。しかし、おそらくパウロがいちばん心を込めて書いたのは、27節以下だと思います。

実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい(27~29節)。

こういう人こそ尊敬しなければいけない、と言うのです。それはただ、人間的な優しさから出た言葉ではなかったと思うのです。誰が悪いとか誰が悪くないとか、そんな話じゃない。「神は彼を憐れんでくださいました」。そう言うのです。

■エパフロディトにとって、この一連の出来事においていちばんつらかったことは、それはやっぱり、人が自分のことをどう思うか、自分について何を言っているか、ということであったと思います。その証拠に、「自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです」と書いてあります。エパフロディトは、病気になったことがつらかったのでもないし、それでパウロに迷惑をかけたことがつらかったのでもない。教会の仲間に病気のことを知られたことで、エパフロディトは苦しんだのです。

その上で言うのです。「神は彼を憐れんでくださいました」。実際に、エパフロディトについていろんな人がいろんなことを言ったでしょう。非難したり同情したり、弁護したり裁いたり。しかし神は、エパフロディトに対してどうなさったでしょうか。もしも神に非難されたら、われわれはどうしようもないのです。しかし神がこの人は悪くないと言われたら、他の人は口出しできないのです。ところがここでは、「神は彼を憐れんでくださいました」と言うのです。憐れむというのは、エパフロディトは悪くないというのではなくて、だめなところもいろいろあることを承知の上で、彼を赦すことでしょう。しかも私どもが教会に来て知ることは、私もまた神の憐れみを必要とする人間だということです。27節の後半では「彼だけでなく、わたしをも憐れんで」と言います。自分も神の憐れみによってのみ生きている人間だ。いやむしろわたしこそ罪人のかしらであったのに(と、パウロ自身が別の手紙で書いているのですが)、そんな自分を主が追い求めてくださったのは、神の憐れみによることでしかない。

その神の憐れみの視点に立ったときに、すべては新しくなります。30節にあるように、「わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです」と、そのようにしか物事を見ることができなくなるのです。エパフロディトは、事実、自分の使命を十分に果たすことができなかったわけですから、それは落ち込んだでしょう。そんなエパフロディトの病んだ姿を見つめながら、けれどもそこに神の憐れみを見出すことができたのは、それこそパウロが練達の人であったからに他ならないのです。

苦難は忍耐を生み、忍耐は練り清められた人格を生み、そして練り清められた人格は希望を生む。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

その視点から、心身共に弱り果てたエパフロディトを見つめてみると、そこには、「わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです」という、そういう姿しか見えないです。だから、彼のような人こそ敬わなければならない、と言うのです。

私どもも、神の憐れみを受けた人間です。神の憐れみがなかったら、今頃どこにいたか分からないのです。それが分かっているなら、ただそれだけで、私どもはここにも確かな教会の生活を作ることができるのです。祈りをいたします。

今ここに、あなたの教会に生きる幸いを私どもひとりひとりに与えていてくださり、心より感謝いたします。ただあなたの憐れみを受けて、ただそのことのゆえに、私どもも互いに愛し合い、互いを重んじ合うことができますように。このあと行われる教会総会の上にも、あなたの憐れみによるご支配がありますように。主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン