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誰を拝んで生きるのか

2022年4月24日

川崎 公平
フィリピの信徒への手紙 第2章1-11節

主日礼拝

■フィリピという大きな町に生まれたばかりの小さな教会の中に、もしかしたら目立たない問題であったかもしれませんが、それでも深いところで教会を悩ませていた、人間関係のこじれがありました。それを何とかするために書かれたのが、このフィリピの信徒への手紙であります。2節以下には、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と、今私どもが読んでもどうってことないかもしれませんが、当時の教会の当事者が読んだら、それはもう、心にグサグサ刺さったであろう言葉が書いてあります。

ところがこのような言葉から始まって、話は思いがけない方向に進んでまいります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(6、7節)。そのキリストの歩みのどこをどう切り取っても、利己心も虚栄心も、そのかけらも見つからない。そして最後には、「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(10、11節)と、宇宙全体がキリストを礼拝するようになるだろうという、たいへんに壮大な話になっていくのです。

これは決して、話が脱線したとかいうことではないのです。どうしてあの人と仲良くなれないんだろう、というような私どもの小さな悩みから、どうして戦争を終わらせることができないんだろう、というような大きな悩みまで、結局は、神を礼拝する以外に、人間の本当の救いはない、人間が本当に幸せになる道は、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえる、それ以外にはない、ということだと思うのです。

このようなところで私のような者が思い起こすのは、500年前の宗教改革と呼ばれる時代に大きな働きをしたジャン・カルヴァンという人の言葉です。カルヴァンの書いた『ジュネーヴ教会信仰問答』という信仰の書物があります。その最初のところに、人間の生きるいちばんの目的は、神を知ることである、われわれ人間の最高の幸せもまた同じ、神を礼拝するために神を知ることであると言います。特にそこで強烈だと思いますことは、それはなぜかと問うて、神を礼拝しない人間は、野獣よりも不幸であるからだと言います。神を礼拝することのない人間は動物と同じだ、犬猫と変わらない、と言ったのではないのです。けだもの以下だと言うのです、神を礼拝しない人間は。それはいくら何でも厳しすぎる、そこまで言わなくても、と思う一方で、実は私どもの誰もがよく知っているように、人間は実にしばしば、獣以下の姿を見せることがあると思います。ことに、他人に対する態度において、その関係において、ふだんは隠していても、思いがけないところで、どんな獣よりも獰猛な本性を現すことがあります。自分自身が、そういう本性を隠しているのです。そういう人間の姿を観察するにつけ、やはりカルヴァンの言うことが本当かもしれないと、つくづくそう思うのです。

けれどもそこで、もうひとつ私どもの心に引っかかることがあるとすれば、なぜそこで、人間が獣以下にならないための条件のようにして、「神を礼拝せよ」と言われなければならないのでしょうか。神を知るとか、神を崇めるとかいうことが、なぜ人間の幸せの条件のように語られるのでしょうか。私どもも、今ここで礼拝の生活をしているわけですが、自分が獣にならないように、いや獣以下にならないように、そのために自分は、今ここで礼拝をさせていただいているのだと、そのことに気づいているでしょうか。

なかなか思いをひとつにすることができず、そのために悩んでいたフィリピの教会の姿は、私どもの姿でもあると思います。まさにそこでこの手紙が問いかけることは、「神を礼拝せよ」という、このことだと思うのです。今、私どもの生活にどうも不確かなところがあるとするならば、その理由は案外、なぜ礼拝をするのか、それがあいまいになっているというところにあるのではないでしょうか。

■そこで、パウロがまず語り始めることは、イエス・キリストご自身の〈謙遜〉であり〈従順〉ということです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」と言います。「僕」というのは、いちばん単純に訳せば「奴隷」という言葉です。徹底して、神のみ旨に従順に従われた。奴隷のごとく。それは言い換えれば、まずキリストご自身が徹底して、神を拝み、神に従い抜く礼拝の生活をなさったということでしょう。

このところを読んで誰でも気づくのは、ここに「へりくだって」という言葉が繰り返されていることです。既に3節にも、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」なさいと教えられましたし、8節では、今度はキリストご自身が「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と言われるのです。御子キリストの、神を神として拝み抜く生活の中心にあったのは、〈へりくだり〉である、〈謙遜〉であると言うのです。このへりくだりとか、謙遜とかいうことは、決して分かりにくい話ではないと思います。人が一緒に生きることができない、どうしても争ってしまう。誰もが悩むことです。そのときに大切なことは、へりくだることだ、謙遜になることだ。それも誰にだって分かりそうなことです。その誰にでも分かることがなかなかできないから、私どもの人間関係は崩れるのです。

ところが、イエス・キリストは、と言うのです。しかも新共同訳は、この部分に小見出しをつけて、「キリストを模範とせよ」と書いています。ただ、先に申しておきますが、この「キリストを模範とせよ」という小見出しはちょっとおかしいと、私はそう思っています。きちんと眉に唾をつけながら読んだ方がよい。しかし、そのような小見出しをつけてみた人の気持ちもよく分かるのです。キリストは、われわれの誰も真似ができないほどへりくだったお方で、その生活も、われわれの誰もが模範とすべき品性にあふれたものであった、ということを否定する必要はないのです。だからあなたがたも、キリストを模範としなさい、利己心とか虚栄心とか、汚い心は全部投げ捨てて、あのキリストのへりくだりを、少しでもいいから真似してごらんなさい。……しかし、そんなことがいったい私どもにできるのでしょうか。

■いったい、へりくだるとは、どういうことでしょうか。ある説教者がこういうことを書いていて、私は非常に教えられたのですが、「へりくだるということは、自分はだめだと思うことではありません」と、その人は言うのです。言われてみればその通りで、キリストは十字架の死に至るまでへりくだって、と言われるのですが、そのキリストのへりくだった生活というのは、いつも自分はだめだ、自分はダメ人間なんだと言い続ける生活であったでしょうか。そんなイエスさまの姿を、聖書から読み取ることはできません。そしてこの説教者が言うことには、自分はだめだ、自分は本当にだめな人間だと落ち込んだときの自分の心をよく観察してみるがよい、それが本当の謙遜になっているか、というのです。これも言われてみれば確かにそうです。私どもが、本当に自分はだめだと思うときというのは、何か大きな失敗をしたとか、それが人にばれたとか、周りの皆が立派に見えて、劣等感にさいなまれるとか、しかしそういうときの私どものみじめな心は決して謙遜にはなっていないので、むしろますます利己心と虚栄心が燃え上がっているのではないでしょうか。

へりくだるというのは、劣等感をもって生きるということではないのです。しかもまさにそこに、私どもの根本的な問題があるのであって、私どものどうしようもなく罪深い心というのは、いつも優越感と劣等感の間を行き来しているようなもので、あるときは自分はすごいんだと思い上がったり、あるときは自分はだめだと落ち込んだり、けれどもその心は、ちっともへりくだってはいないのです。そういう腐った優越感や劣等感を捨てない限り、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き」というような生活ができるはずもないのです。それはまさしくカルヴァンの言う通り、野の獣よりもみじめです。犬や猫でさえ、われわれよりは品性のある生活をしているのではないかと思うのです。

■そんな私どものために、パウロは「この人を見よ」と語りかけてくれるのです。イエス・キリスト、このお方は、「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。キリストのへりくだり、キリストの謙遜のいちばんの秘密は、〈従順〉ということだと私は思います。神に従うのです。何が何でも。わたしの願いではなく、神よ、あなたの御心が行われますようにと、それは、先ほどご一緒に祈った主の祈りの中心となるような祈りでもありますが、それを主イエスご自身が貫かれたのです。十字架の死に至るまで。それこそが、まことの礼拝でしょう。神を神として拝み抜くのです。

私どものうその謙遜には、神に対する従順はありません。優越感に浸って思い上がったり、劣等感にさいなまれて卑屈になったり、けれども私どもの根本的な問題は、神を神として礼拝していないということなのです。隣の国を力づくでも支配したいと願う人間の心の深いところに、腐った優越感と劣等感を観察することは実に容易だろうと思います。古今東西、人間がずっと続けてきたことです。しかもその腐った心が、今も、この私自身の中に生き続けているのです。そこに神に対する恐れはありません。神に対する礼拝も従順もないのです。

けれども、イエス・キリストを見よ。このお方は、徹底的に神に対する従順を貫き、だからこそ徹底的にへりくだり、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、黙って神に対する従順を貫かれました。そのへりくだりは、本物のへりくだりであって、いばるような思いはひとつもありませんでした。優越感も劣等感も、利己心も虚栄心も、そのかけらもない。あったのはただ、神に対する従順だけです。これは当然のことのようですが、改めて私どもが心打たれることだと思います。

主イエス・キリストは、私どもの罪のために死なれたのだと、教会に来ると私どもはそう教えられます。このお方の十字架の死は、私ども罪人の身代わりとしての死であるというのです。これはたいへんに分かりにくいことであるかもしれませんし、しかしまた、これが分かった人には、こんなに心に訴えてくる聖書の教えはないかもしれません。けれどもそれが、主イエスにとってどんなにつらいことであったか、私どもは簡単に忘れることがあると思います。主イエスは最後の最後まで、あのゲツセマネの園に至るまで、十字架だけはいやです、これだけは勘弁願いたいと、変な汗がダラダラ流れるほどの、激しい祈りをなさいました。人間として、いろんな死に方があるでしょう。そして私どもは、こういう死に方がしたい、こういう死に方だけはしたくないと、いろんなことを考えるのです。けれども主イエスにとって、十字架の死というのは、何が何でも避けたい、いちばんつらい死に方であったのです。

おかしな話をするようですが、つい先日、たまたまこんな記事を読みました。110年前の4月に、タイタニック号という豪華客船が沈没するということが起こりました。そのタイタニック号に唯一乗船していた日本人が、奇跡的に生き残って日本に帰ってきたのですが、そのためにずいぶん長い間誹謗中傷にさらされたというのです。他人を押しのけてまで救命ボートに飛び乗った、卑怯な日本人がいたらしい。あの船に乗っていた日本人と言えばあいつしかいないじゃないか、この人でなし、と。その人のお孫さんという方がインタビューに答えているという記事なのですが、その後いろいろ資料が集まって、どうも自分の祖父は卑怯なことをして生き残ったわけではなさそうだ、さまざまな誹謗中傷には何の根拠もないことが分かってほっとしたというのですが、私はそれを読んで、何と表現したらよいのかよく分からない気持ちになりました。誰かの犠牲になって死ぬということは、誰から見ても立派に思えることなのです。私どもは、そういう話が大好きなんです。逆に、他人を押しのけて生き残ったなんて奴がいると、自分のことは棚に上げて、その人のことを叩くのです。ましてその人が、世界一の豪華客船に乗るような高級な官僚であったなんてことになれば、ますます容赦しないのです。しかし自分は、卑怯者として死にたくないなあ。立派な人だったと、ほめられながら死にたいなあ。誰かの犠牲になって死ぬという瞬間にさえ、私どもは利己心、虚栄心の奴隷であり続けるのす。

けれども主イエスが罪人の身代わりになって十字架につけられたというとき、誰もこのお方のことをほめませんでした。むしろ、この人は万死に値するといって、考えられる限りの侮辱を受けながら死んだのであります。なぜそこまでなさったのだろうか。神のご意志の前に、徹底的にへりくだり、徹底的に服従なさったのです。それ以外の理由はなかったのです。

■ルカによる福音書第23章34節に、主が十字架の上でなさったこのような祈りが記録されています。

そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。

もしも主イエスがこのとき、このように私どものことをかばってくださらなかったとしたら、その瞬間に世界は滅びた。その瞬間に、世界は神から見捨てられていたのだろうと、私は思います。「父よ、彼らを赦してください。彼らを見捨てないでください」。

そのような主イエスの執り成しの祈りと関係があるのかどうか分かりませんが、そのあと、たいへん不思議な出来事が起こりました。同じルカによる福音書第23章の39節以下であります。ふたりの犯罪人が、主イエスの右と左に、同じように十字架につけられていたというのですが、その犯罪人のひとりが、やはりイエスを侮辱し続けたといいます。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。けれどもそんなことはできないじゃないか。この嘘つきが。けれども、40節以下。

すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた(40~43節)。

このもうひとりの犯罪人は、主イエスの前で、自分の罪を認めることができました。本当の意味で、謙遜になることができました。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」。生まれて初めて、利己心と虚栄心を、本当に捨てることができました。獣以下の生活から救われることができました。主イエス・キリストの真実のへりくだりに触れたからです。そうして、このお方に対する真実の礼拝をささげることができました。「この方は何も悪いことをしていない」。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。その礼拝に、主イエスもまた答えてくださいました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。

こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです(10、11節)。

今、ここでも起こっている礼拝の出来事であります。それが、この世界にとってもどんなに大きな望みであることかと思うのです。お祈りをいたします。

あなたの御子、イエス・キリストの真実のへりくだりを、どうか今、私どもにも見せてください。「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」とのみ声を聞かせてください。欲張りで傲慢な私どもを、そしてこの世界を、どうか憐れんでください。御子キリストに救っていただいて、立つべきところに立つことができますように。救い主、イエス・キリストのみ名によって祈り願います。
アーメン