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争う人間のみじめさについて

2022年4月3日

川崎 公平
フィリピの信徒への手紙 第2章1-11節(I)

主日礼拝

■旧約聖書の最初の文書である創世記の第4章は、カインとアベルという人類最初の兄弟の物語を伝えます。最初の夫婦、アダムとエバの間にカインとアベルというふたりの息子が生まれ、ところが、最初のきっかけは些細なことであったのかもしれませんけれども、人類最初の兄弟げんかは、兄が弟を殺すというたいへん痛ましい結末を迎えなければならなかったというのです。もちろんこれはひとつの神話です。これを歴史上の実話だと考えようとすると、ずいぶん無理なこじつけをしなければならなくなるでしょう。だがしかし、このような物語に託して、聖書が私どもに語りかけようとしておりますことは、時代を超えて、すべての人の心を激しく揺さぶるものがあると思います。むしろ、こんなにも生々しく私ども自身の現実を描く物語は、他にないだろうと思うのです。

どうして人間は、仲良くすることができないのでしょうか。私ども人間のいちばん素朴な願いであり、しかもそれでいていちばん難しいことが、このことではないかと思うのです。どうして世界には戦争がなくならないんだろう、というような大きなことを考える方も多いでしょうし、しかしまた自分自身のつつましい生活を顧みても、小さなひとつの家庭の中で、あるいは職場で、あるいは教会の中で、私どもがいちばん願うこと、しかも実にしばしば私どもを極度に悩ませることは、どうして仲良くできないんだろう、という、このたいへんに素朴な事柄なのです。

今私どもは、伝道者パウロという人がフィリピという町の教会宛に書いた手紙を礼拝のたびに学んでおりますが、この手紙を受け取ったフィリピの教会にも、実は結構いろんな問題があったようです。今日から読みましたところにも、そういった教会の様子を垣間見せるような言葉をいくつも見つけることができます。たとえば第2章の3節以下には、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と書いてあります。一方から言えば、これはまるで幼稚園、保育園の先生が子どもたちに注意しているような発言です。自分のことだけでなくて、お友達のことも考えてあげましょうね。3つ、4つの子どもでも分かるようなことを、わざわざ手紙に書かなければならないような状況が、フィリピの教会の中で起こっていたということでしょう。

人と仲良くすることができないとき、私どもがまずすることは、人を責めることだと思います。確かにカインのしたことは悪いと思いながら、同時に私どもはカインに同情したくもなるのです。そうだよなあ、理不尽だよなあ、アベルだけずるいよなあ。そう思いながら、私どももまた、自分があの人と仲良くできないのはあの人のせいだとしか考えないのです。けれども本当の問題は、そのようにすぐに人を責める自分自身なのです。「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」と、創世記第4章7節に書いてありました。ところがそれが世界でいちばん難しいことで、文字通り全人類の知恵を集めたとしても手に余るような難問の前で、今も私どもは途方に暮れているのです。

■先ほど3節以下を読みましたが、その前の2節にはこう書いてありました。「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」。それはつまり、同じ思いになることができず、同じ愛に生きることができず、心も思いもばらばらであった教会の姿が見えてくるような発言ですが、興味深いのは、「わたしの喜びを満たしてください」とパウロが訴えていることです。何度かお話したことですが、パウロはこの手紙を牢獄の中から書いたと言われます。人間的な見方からすれば、おそらく自分は釈放されることはないだろう。このまま牢獄の中で死刑にされて自分の人生は終わるのだろうという死の予感の中で、この手紙を書いたのです。そのようなところで、「わたしの喜びを満たしてください」と、ほとんど叫ぶようにパウロが訴えていることは、決して小さな事柄ではないと思うのです。

いったい、本当の喜びって何でしょうか。次々と悲しいことばかり起こるこの世界なのです。あのカインとアベルの物語は、私どもの知るさまざまな悲しみの根源的な原因を明らかにしているかのようです。もちろん皆さんひとりひとりの生活だって、小さな喜び、大きな喜びをちょいちょい見つけることができるでしょう。だがしかし、そういういろんな喜びを全部覆い隠すように、結局は死の絶望が私どもの世界を取り囲んでしまっているのであれば、もしもそういうことであるとするならば、すべては虚しいのです。そして実際のところ、結局この世界というのは、遂にはすべてが滅びで終わってしまうのではないか。私どもの小さな争い、大きな争いの果てに、結局はこの世界は丸ごと滅びてしまうのではないか。そういう不安を、他でもない、私ども自身が作り出してしまっているのです。

ところがこの手紙を書いたパウロという人は、自分の死を本当に現実的に見つめながら、わたしは本当の喜びが欲しいんだ、どうかわたしに今一度、本当の喜びを見せてほしい、わたしの喜びを満たしてほしい。あなたがたが「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」生きているならば、わたしは喜びに満たされて、安んじて死ぬことができる。だから、どうか本物の喜びを見せてほしい。そのように訴える伝道者の叫びというのは、繰り返しますが、決していいかげんな発言ではないと思うのです。

むしろ私は、「わたしの喜びを満たしてください」、そう訴えるパウロの発言の背後には、神の切なる願いが込められているような気がしてなりません。カインがアベルを殺して以来、すべての人類は〈カインの末裔〉とあだ名されるようになってしまいました。その時以来、神の喜びが失われたのであります。今も、この世界で起こっているさまざまな出来事をご覧になって、神がどんなに心を痛めておられるかと思うのです。その神が今私どものためにも、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」と訴えておられるのだと私は思うのです。その神の喜びの回復のひとつの道は、今ここにキリストの教会が生きていることである。心を合わせ、思いをひとつにして、教会がここに生きていることである。しかし、それなら、私どもはいったいどうしたらいいのだろうか、何をしたらいいのだろうか。そこでまた私どもは途方に暮れるのです。

■今日読みました聖書の言葉の中で、とりわけ私どもの心に鋭く刺さるのは、「利己心、虚栄心」という、このふたつの言葉であったかもしれません。利己心、自分のことしか考えない心です。虚栄心、中身は空っぽでもいいから、とにかく人に認められたいという心です。私どもの弱さというのは、まさにこういうところに現れてくるということを痛感させられます。どんなに偉い人であっても、逆に社会的にどんなに小さな人であっても、この点については何ら変わりはないので、自分の名誉とか立場を無視されるということが、いちばんこたえるのです。人に無視されたり、陰口を言われたり、自分の知らないところで勝手に大事な話が決まっていたり……だからと言って、すぐに自分の気に食わない人を殺したりするわけには、なかなかいきません。それだけに私どもの心には、癒しがたい傷がいくつも残っているのかもしれません。

創世記第4章には、「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」と書いてあります。いったいどういう事態であったのか、よく分かりません。とにかくそうだとしか考えられないような、カインにとっては、どうしようもなく悔しいことがあったのだろうと思います。それで弟を殺してしまったカインという人は、私どもと同じように、傷つきやすい、弱い人間であったのです。だがしかし、まさにその私どもの弱さが、私どもの生活を、私どもの生きるこの世界を、どんなにみじめなものにしているか分からないのです。なぜかと言うと、その私どもの弱さのいちばんの問題は、人と一緒に生きることができない、ということだからです。

ここに利己心、虚栄心と書いてあります。このふたつの言葉について、ある聖書学者がこういう説明をしていました。「利己心と虚栄心とは、共に、他人に対し自分の優越を主張する生き方である」。ここまでは問題ないと思います。ところが、この学者はさらに、このふたつの言葉は、あくまで信仰に関わる事柄だと言うのです。そのまま引用しますが、「利己心とは、神が何か事に際して、相手の側にではなく、自分の側につくことを欲する姿勢を指し、虚栄心とは、自分が神と人とに特別に認められることを願い求める生き方を言う」。正直に申しまして、私は最初にこの文章を読んだとき、どうも受け入れにくいものを感じました。「利己心とは、神を味方につけたがること、虚栄心とは、自分が神に認められたいと思うこと」。うーん、そうかなあ、どうしてそこで神さまを持ち出す必要があるかなあ……。

しかし考えてみれば、カインがなぜ腹を立てたか。神さまが弟アベルの側にではなく、自分の側についてほしかったのです。この聖書学者の言う通り、自分がまず神に認められることを願い求めたのです。カインだって、自分なりに神を信じていたし、だからこそ、自分が一所懸命働いて得た畑の実りを神にささげたのです。それだって、神を信じる信仰のひとつの姿だと言えば、言えなくもないかもしれません。けれども、何があったのかは分かりません、聖書が詳しく書いてくれませんから分かりませんけれども、とにかく何かがうまくいかなかった。なぜだ。自分はこんなに神を信じているのに、こんなに神にささげているのに、なぜ神はあいつの味方をして、俺の味方はしてくれないんだ。こんなのおかしい、と言ってアベルを殺したとき、カインの心には依然として、神はあいつの味方であるはずがない、俺の味方でなければならないはずだ、という頑なな思いがあったに違いないのです。それが利己心であり、虚栄心です。

国と国との争いだって、それまでの長い歴史とか、その戦争が起こるまでの経緯とか、それぞれの言い分を調べてみれば、きっとわれわれの知らないいろんなことがあるのだろうと思います。そうして結局のところは、それぞれの国が、神は自分たちの味方であるはずだと信じて、争いを続けるのです。私どもの国が80年前に、あるは800年前に「神風」などという言葉を喜んで使ったのは、その典型であると言わなければなりません。われわれには神がついている。正義は我にあり。そのような歪んだ利己心が、国同士の戦争のような大きなことに限らず、犬も食わないような夫婦げんかの根っこにも、その他どんな争いの中にも、まったく同じものがあるだろうと思うのです。

■けれども、そのような歪んだ利己心や虚栄心が見つめている神らしきものは、実は神でも何でもない。自分のわがままの産んだ幻でしかない。けれどもあのカインは、利己心の産んだ偽物の神ではなく、本物の神の前に立たされてしまいます。そしてカインはその本物の神に、「お前の弟アベルは、どこにいるのか」(9節)と問われて、答えることができませんでした。私どもの利己心の産む偽りの神は、こういう耳の痛い質問は絶対にしないでしょう。けれども、まことの神はそうではなくて、「お前の兄弟はどこにいるのか」と、そのことをはっきりさせずにはおかないお方であったのです。

「お前の兄弟はどこにいるのか」という、この神の問いは、これこそ私ども人間にとっての、永遠の問いであると言わなければなりません。「お前の兄弟はどこにいるのか」。私ども人間のみじめさを、こんなに鋭く言い当てる問いは、他にないかもしれません。そして、このような問いをお問いになるということにおいて、まさしく神が神であられることを明らかになさるのであります。他の誰にもなしえない問いです。ただ神の権威をもってするほか、誰もこんなことを問うことはできないのです。その意味では、パウロがこの手紙に書きました、「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」というような言葉も、これはまるで幼稚園の先生が子どもに注意しているような言葉だと最初に申しましたが、少し訂正をしなければならないかもしれません。「他人のことにも注意を払いなさい」。その「他人」というのはつまり、「あなたの兄弟」のことでしかありません。「お前の兄弟は、どこにいるのか」。本来、神にしか問うことのできない問いであります。あなたは、あの人と一緒に生きるはずではなかったのか。「お前の兄弟は、どこにいるのか」。

まさにこの問いの中に、私どもが神に救っていただくほかない罪人であることが鮮やかに示されているし、その罪人の救いのために、神が何をしてくださったか、イエス・キリストが何をしてくださったか、そのことをこの手紙は語っていくのです。

何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした(3~8節)。

■一気に読みました。特に6節以下については、日を改めて、あと何回かの礼拝の中で丁寧に学んでいきたいと思いますが、しかしここでパウロが語ろうとしていることは、そんなに複雑なことではないとも言えます。なぜキリストは、十字架につけられたのかということです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり」。僕とありますが、直訳すれば「奴隷」という言葉です。ところがまさにそれが私どもにとっていちばん難しいことで、カインとアベルの例を出すまでもなく、「自分を無にして、僕の身分になり」、それがいちばん難しいと思っている私どもだからこそ、今私どもが見ている通りの、悲惨な現実があるのです。

けれども神の御子キリストは、そんな私どものために、神の身分でありながら、いや、神ご自身であったからこそ、その全能の力をもってして、「自分を無にして、僕の身分になり」、つまり、私ども罪人には決してできないことを、私どものためにしてくださったのであります。

4月に入りました。来週からは、受難週も始まります。3年ぶりに毎朝行われる受難週祈祷会にも、なるべく多くの方に来ていただきたいと思いますし、それがかなわない方も、共に心を合わせ、思いをひとつにして、キリストの十字架に思いを集中させたいと願います。なぜこのお方は十字架につけられたのでしょうか。罪から救われなければならない私どものために、それ以外の道はなかったのであります。その私どもの罪、どうしてもそこから救われなければならない私どもの罪の最たるものは、利己心であり、虚しい誉れを求めることでしかないのかもしれません。それはカインとアベルの時から始まって、今に至るまで少しも解決していない、人間の根源的なみじめさを示すものでしょう。誰もが、死ぬまでもがき続けなければならない問題であるのかもしれません。ただキリストの救いをいただくほかないのです。

あのカインとアベルの物語の中で印象深いことは、カインは自分の罪に絶望して、「わたしの罪は重すぎて負いきれません」(13節)と言います。「今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」(14節)。ところが神は、誰もカインを傷つけることのないように、神のしるしをつけてくださったというのです。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう」(15節)と言われるのです。誰であれ、カインに指一本触れることは許さん。これはたいへん不思議な神の恵みを語るものだと思います。しかし実は不思議でも何でもないので、カインは最初から最後まで、神に愛された神の子であったのです。ただそのことを喜び、神に愛された自分の立場を誇りにしていれば、それで十分だったのです。

そしてそれは、私どもにもそのまま言えることで、私どもがあのキリストの十字架によって救われて、そうして自分が神に愛され、重んじられた神の子であるという立場に満足することができるならば、もうそれ以上虚しい栄光を求めることはありません。カインのように兄弟を殺す必要はないし、そうしてはならないのです。神に愛された者としての、喜びと誇りの中に立ち続ければよい。そのとき既に私どもは、利己心からも虚栄心からも救われているし、まさにそのところで、他の人のことをも、キリストの恵みの中で重んじることができるのです。お祈りをいたします。

 

主イエス・キリストの父なる御神、どうか今私どもを、あなたの恵みの中に、徹底的に立たせてください。私どもの利己心や虚栄心、そしてそれが生んできた悲惨な生活を、恥ずかしく思い起こします。自らの傲慢を恥じ、争いを悔やむ心を与えてください。それらはすべて、あなたの恵みを忘れたところに生まれるものでしかありませんでした。しかし今は、よく分かります。私どもは、あなたに愛されております。キリストの十字架を仰ぎつつ、その恵みの中にまっすぐに立つことができますように。主のみ名によって祈り願います。
アーメン