呼び声
嶋貫 佐地子
ヨハネによる福音書 第10章1-10節
主日礼拝
主イエスは、羊飼いと羊の話をなさいました。そしてこのあと言われます。
「わたしは良い羊飼いである。
良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(10:11)
彼は羊のために命を惜しまない。
そのお言葉をいただけましたのは、その前提となる今日のこの羊の囲いの話を、聞いてもわからなかった人たちがいたからです。でもそれも神の恵みであるとしか思えません。主は理想の話をされたのではないのです。この話は「羊飼いと羊」という絆深き、現実の話です。
教会に来ると羊の話がよくなされます。
日本では羊はめったに見られませんから、どうしてだろうと思われた方もあるかもしれません。でも聖書の中には羊の話がほんとうによく出てくるのです。聖書のなかのユダヤの地方というのは、石ころだらけの荒れた高原地帯でしたから、農業はあまりできなくて、牧畜がなされました。牧畜と言っても牧草がたくさん生えているわけではありません。狭い丘を、ちょっと行けば急な崖があるようなところまで、少ない草を求めて羊飼いが羊たちを連れてゆきます。そんな貧しく豊かなキャラバンがそこら中にいて、そこには羊飼いと羊がいつも一緒にいて、その姿に、旧約聖書の詩編は歌いました。
「わたしたちはあなたの民/あなたに養われる羊の群れ。」(詩編79:13)
「わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ。」(詩編100:3)
神様は羊飼い。そしてわたしたちは羊。
夕暮れをも歩く、神と羊たち。
そして詩編第23篇は告白します。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(詩編23:1)
神は忠実で熱心なわたしの羊飼い。わたしの羊飼いはわたしの面倒をとてもよくみてくださいます。わたしをおいしい青草の原で休ませ、乾いた地で新鮮な水のほとりに連れていき、わたしの羊飼いは杖とこん棒を持って、こん棒では狼や敵を追い払い、先がフック状に曲がっている杖では、わたしの体を引っかけて、迷いそうになるわたしを力強く連れ戻し、わたしを正しい道に導いてくださる。だからわたしは迷うことがない。この羊飼いがいてくださるから、わたしは迷わない。この羊飼いがわたしの羊飼いだから、だからわたしには何も欠けることがない。
そして言います。たとえ、そこが死の陰の谷であろうとも。たとえこの身が動けなくなろうとも、あなたがわたしと共にいてくださる。そしてそこから、あなたはわたしを連れ出してくださる。
だからわたしは何も恐れない。
羊飼いと羊。あなたとわたし。
けれども、その羊を神から奪うものがいるのです。神は昔、ユダヤの王たちを羊飼いとして立てられました。でもその者たちは羊飼いの面を被っただけで、羊たちを誤った方向に連れていきました。そして羊が、石ころだらけの崖から落ちても構いませんでした。ちりじりになっても獣の餌食になりそうになっても探しませんでした。むしろ力づくで苛酷に支配して、彼らが羊たちを餌食にしました。だから神は立ち上がられました。
「わたしは牧者たちに立ち向かう。」(エゼキエル34:10)
わたしの羊を
「もとの牧場に帰らせる。」(エレミヤ23:3)
そして言われました。
「彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない。」(エレミヤ23:4)
私の持っている古い聖書の今日のところにはメモがしてありました。「神の戦い」。
この礼拝堂で聴いた言葉です。良い羊飼いは戦う。羊を神から盗もうとする者、羊を滅ぼそうとする者と。
この話をされたとき、主イエスの前にはファリサイ派の人たちがいました。ユダヤの指導者たちです。それはこの前に、主が一人の盲人を癒されたことから始まりました。でもその元盲人の彼が主イエスを信じるようになったので、彼らは彼をユダヤの会堂から追い出しました。彼らは自分たちこそ、人々を導く羊飼いのつもりでいましたが、でも肝心の、まことの羊飼いである主イエスを信じることができませんでした。そのファリサイ派の彼らに、主イエスは、わが羊、元盲人の彼を後ろにして、この羊飼いと羊の話をなさったのです。
「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。」(10:1-3)
主イエスは神が立てられたまことの牧者でした。丘のうえには、その羊たちのために囲いが作られる。その囲いの中は神の牧場であって、そこには門があり、門番がいて、門番は羊飼いには門を開き、羊たちはついてゆく。しかし、その門を通らないで、よそから入る者は盗人であり、強盗である。
そうして主はユダヤの指導者たちに言われたのです。ご自分を通らなければ、だれもこの囲いの中に入ることはできない。
いま毎週入門講座をしていますけれども、そこで読んでいる竹森満佐一先生の本の中でも先生が言われています。キリストを信じなければ、神を信じることはできない。まさにキリストは、神の牧場の入門なんであります。
だから主はこのあと「わたしは羊の門である」(10:7)と言われましたし、また「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(10:9)とも言われました。不思議なことですけれども、主イエスは、ご自分を羊飼いであるとも言われていますし、門でもあるとも言われています。そうしましたら、あるイギリスの学者が興味深いことを言っていました。
羊飼いは、夜は羊小屋に羊を寝かせ、昼間は外に羊を連れ出す。そして暖かい季節になると夜は羊小屋に帰らずに、丘の上に囲いを作って夜を明かす。そのときの入り口は、羊飼いが持っている杖を、地面に低く十文字に立てて門にした。そして夜になると、羊飼いが、その入り口に寝そべるのだ。
羊飼いは自分を挺して、一晩中、羊たちを敵から守ります。
でも杖を門にするというのは、その学者も引用しておりましたが、聖書のエゼキエル書第20章では、神の審きを意味します。
神は言われました。「わたしは、お前たちを牧者の杖の下を通らせて、契約のきずなのもとに導く。」(エゼキエル20:37)神は羊たちを、羊飼いの杖の下をくぐらせて、契約のきずなのもとに導かれる。でも言われました。「わたしはお前たちの中から、わたしに逆らい、背く者を分離する。」(エゼキエル20:38)
羊飼いの杖の下は狭く、羊飼いは、羊の一匹一匹を通らせながら、傷はないか、何かおかしくなっていないか、体調に気を配ります。でも同時に羊飼いはそこに来る者たちを見分けます。神に逆らう者、背く者は囲いの中には入れない。なぜなら、神と正しい関係にならないと、神のもとには帰れないからです。この直前に主イエスは、目の前のファリサイ派の人たちに「わたしが世に来たのは、裁くためである」(9:39)と言われました。そしてそれは区別の意味でした。囲いの中に入る者と入れない者を、区別するために、羊飼いは来られました。でも同時に、羊飼いは、入り口の門になられたのです。身を挺して。
十字架という門、神のところに帰る門です。そこに入るか。信じるか。羊飼いは呼びに来たのです。
だから「わたしを通って入る者は救われる」(10:9)と、主はおっしゃいました。そして入った者は「命を受ける」とおっしゃいました。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(10:10)とおっしゃいました。そのために羊飼いはおのれを殺す世に進んで来られました。そして羊は、その羊飼いの命がけを知っているのであります。
私はこの聖書の箇所を読むたびに思い起こすことがあります。まだ私が牧師になる前で、東野尚志先生が主任牧師でいらした時です。そのころ私は少し悩みがありまして、でもそのときは人生最大の試練とも思っていた時でした。それで、そこのスーパーのユニオンの前で教会に向かって信号待ちをしていましたら横に東野先生が来られて、「あ」と思って顔を上げましたら、先生が私をご覧になって、ひとこと。優しいお顔で「大丈夫ですか」と言われました。
ただ立っていただけの私に、その姿に、よほど顔に出ていたとも思えないのに、言われたそのひとことに、私は「はい、大丈夫です」と申しましたが、そこから、横断歩道に一歩踏み出す時に、こみ上げました。
この牧者は、羊を知っていると思いました。そして、羊飼いは知っていると思いました。
そうしたら、重しが取れていくようでした。それから、東野牧師のうしろを見ながら、私は、主イエスについて行くような思いで教会に入ったのです。
誰の身の上にも、このような、些細だけれども、羊飼いとの交流、感動があると思います。だから、この信頼関係は、私どもをこみ上げさせます。主は言われました。
「羊はその声を聞き分ける。」(10:3)
主が言われたのです。
羊はわたしの声を聞き分ける。わたしの声を知っている。わたしの声がわかる。
「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」(10:3-5)
羊はほかの者には決してついて行かない。
この主イエスの信頼、自信たるや。
主は羊を信頼なさっています。自信がある。ご自分が名前を呼んだら、羊はついてくる。そしてほかの者には決してついていかない。この主イエスの、羊への信頼と自負に、自らに問うてみたいのです。この信頼に自分は足るかどうか。
ほかの声について行ってしまっていないか。雑踏に入っていないか。迷子になっていないか。もしそうなら、羊飼いは叫ぶんだそうです。羊にしかわからない大きな声で呼ぶんだそうです。羊というのは、迷ったら自分からは羊飼いを探せないそうです。そんな能力は羊にはないのです。でもほかの羊飼いが来てもたすけにはならないのです。ほかの人の声は知らないから、こわくて逃げるだけなのです。あとはなんらかの方法で死ぬまで、迷い続けるしかないのです。
だけど羊飼いはその羊の名前を呼ぶんです。その羊にしかわからない声で呼ぶんです。
そうすると、わかると。
愛の声は聴こえるのです。どんなに離れていても、その人の声は聴こえるのです。そして私どもも、どんな雑踏の中でも愛する人の声はわかるでしょう。
そうやって、主イエスはわかっている。
羊はわたししか知らない。ほかには慰められない。ほかには生きられない。わたしだけが頼り、望みであると。
だから羊飼いは戦う。
羊を守るために。私どもの生活のどの場面でも、この羊飼いは戦っている。
そして勝つ自信がある。
羊はわたしの声を知っているから、
ついてくる。
この主イエスの誇りと信頼に、私どもも共々に、ついて行きたいと思うのです。
天の父なる神様
主イエスの愛の自信、信頼に、ついて行かせてください。
主の御名によって祈ります。アーメン