すべては神の栄光のため
中村 慎太
コリントの信徒への手紙一 第10章23節-第11章1節
主日礼拝
だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
伝道者パウロは、このようにコリント教会の人々に伝えました。
コリント教会では「キリスト者は、偶像に供えられた肉を食べてもいいのか」という問題が起こっていました。主なる神を信じることが伝えられて間もない、ギリシア文化の地で、どう信仰者が生活するか、様々な葛藤が生まれる中で、起きた問題です。私たち、日本の昔ながらの文化もある地で信仰者として歩む者たちも、他人事とは思えない事柄です。
伝道者パウロはその問題に向き合いつつ、イエスさまを信じる教会の在り方を、この手紙で丁寧に伝えてきました。この手紙の第8章から今日の第10章まで、3章ほどにわたって、そのことが記されてきたのです。
今日私たちが聴いたところは、その「偶像に供えられた肉を食べていいか問題」のまとめとなっています。パウロは伝えます。
「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。
そして、配慮すべきこととして、もし偶像に供えられた肉であることを意識している人がいたら、その人の信仰から離れてしまうことのないように、キリスト者として心を砕くようにとパウロは伝えるのです。
しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。
加えて、パウロ自身は、自分の良心はここでは問題ではないと伝えます。偶像に供えられていようがいまいが、地にとそこに満ちているものは主なる神さまのものです。その肉を食べること自体は、パウロの良心にはまったく影響がないということを、確認するように伝えます。
わたしがこの場合、「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。
ここまで読んで、確認したいことは、このようにパウロが伝えているのは、人の顔色だけを窺うように、とかを伝えているのではないことです。または、いろいろな意見がある人にいちいち合わせなければならない、とかそういったことを伝えているのでもありません。パウロはただひたすら、神さまのために、これらのことを伝えているのです。
あなたの行動で、誰かが信仰をしっかり持つきっかけになるなら、それによって神さまが喜ぶではないか。だとしたら、神さまが喜ぶよう、そのように行動しなさい、と伝えているのです。
そのことが一番よくわかる言葉が、続けて記されています。
だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
私たちも、この言葉を胸に抱きつつ、新しい歩みを始めたいと願うのです。私たちは食べるにも、飲むにしろ、主の栄光を現したいと願います。いうなれば、日曜だけが私たちが主の栄光を現すのではない。ここから始まる新しい一週間の、一日一日も、一つ一つの時も、私たちは主に栄光を帰します。「神さま、あなたの栄光を現すこととなりますように」と祈りながら、そう神さまに呼びかけながら、歩んでいくのです。それこそがキリスト者の歩み方です。
では、神さまの栄光を現すとは、どういうことですか。そもそも、皆さん、栄光とは何ですか。
まず、この箇所で、栄光という言葉がどのように用いられているかに着目しましょう。ここでパウロが言い表したのは、どなたの栄光か。「神の」栄光です。
聖書が伝える栄光とは、人間由来の栄光ではありません。人間の栄光とか、歴史上の偉人の栄誉とか栄華のことを指すのではない。聖書が伝える栄光は、神さまの栄光、その神さまから、人に与えられた栄光です。
教会では、栄光を主に帰す、帰する、という言い方をすることがあります。私たちの信仰をよく言い表している言葉でしょう。栄光は私たちのものではない。神さまのものです。私たちはそれを、主にお返しするのです。
そして、栄光とは、主なる神さまの本質とも言えるものです。主なる神さまご自身が主そのものとしていてくださることです。主なる神さまの偉大さ、すばらしさがはっきりと表れること、それこそが栄光です。
聖書を読むと、主の栄光がさまざまな形をもって表されることがあります。出エジプトの際の、火の柱、雲の柱。イエスさまが弟子たちに示された、まばゆい光。そういったものは、主なる神さまの偉大さをはっきり表す、栄光として、聖書では伝えられているのです。
では、神さま以外は栄光を持たないのか、造られた物や人間は、栄光を現さないのか、というと、そうではありません。
今日私たちは詩編第8編も共に聴きました。そこには、造られた物は、主の威光、栄光を現すことが伝えられています。
そもそも、神さまはご自身の栄光を現すためにこの世界をお造りになったのです。造られたものすべては、神さまの栄光を現すために造られた、ということができます。詩編はまさにそのような主なる神さまの創造のみ業をいくつものところでほめたたえます。万物は「天は神の栄光を物語り、大空はみ手の業を示す」。詩編第19編など。
神さまは、造られた者が、神さまがお造りになったように、生きるのを、喜んでくださいます。詩編第8篇では、いくつもの動物が出てきました。羊、牛、鳥、魚。羊がメエメエとなくこと。牛がモウモウと草を食むこと、鳥が飛び、魚が泳ぐ様子をご覧になってくださる主なる神さまは、そのようにある被造物を、喜んでくださるのです。それらを眺めて、究めて良かったとおっしゃって、お喜びになるのです。
神さまに造られたものとして、神さまがお造りになった目的によって生きること、それこそが、神さまのみ心にかなった在り方です。そのようにあることこそ、神さまの栄光を現すことでもあります。
特に、人間は神さまに似せた者として、神さまにお応えするものとして造られました。他の被造物にはできない形で、私たちは神さまに栄光を帰します。
栄光は、神さまとの愛の関係においても、大きく表されます。神さまに愛されている者として、神さまを愛し、その愛をお返しすることです。主を、ほめたたえ、礼拝をささげることです。
神さまに似せて作られた私たちの本来の在り方は、そのように主を愛し、栄光をほめたたえ、主に栄光を帰する者なのです。あどけない幼子でさえ、それをすることを、詩編第8篇はほめたたえています。
主なる神さまは、そのような私たちを、まさに幼子をいつくしむ父親のように、父なる神として、目に留めてくださいます。
人間が、神さまを知り、「神さまあなたをほめたたえます」、と主を賛美し礼拝をささげることこそ、神さまが一番お喜びになることです。そして、そのように神さまのお造りになった目的に生きることこそが、神さまに栄光を帰すことになるのです。
私たちはそうやって神さまに栄光を帰すはずの者でした。しかし、私たちはそのことができなくなってしまっている者です。それは、神さま以外の何かに栄光を現してしまうことです。それが、私たちが主から離れてしまう、罪のことです。
自分に栄光を帰すること、人間の誰かを神さまと同じように栄光あるものとしてしまうこと、私たちにはそのようなことがあります。
私たちのこれまでの歩みを振り返ってください。去年一年の歩みでもいいでしょう。どこかで、「主なる神さまの栄光のため」という思い以外で何かをしてしまったこと、何度もあったのではないでしょうか。
人間は、そのように、神さまに栄光をお返しできなくなってしまう者だったのです。神さまから注がれた愛を、神さまにお返しするために造られた私たち。しかし、それができなくなってしまった。栄光を主にお返しすることができなくなってしまった。
そんな私たちが、主なる神さまに造られた者として、もとの在り方に戻るにはどうしたらいいのでしょうか。栄光を主に帰すことができなくなった私たちは、どうしたら主のもとに戻れるでしょうか。
まことに、父なる神さまに栄光を現すお方が、必要だったのです。私たちのところにイエスさまがきてくださいました。
新約において、栄光という言葉が記されるとしたら、それはイエスさまと密接に記されています。栄光とは、誰より、主イエス・キリストご自身によって、そのみ業によってはっきりと示されました。
栄光とは何か、説教の始めの方で聴きましたが、私たちは「イエスさま」と答えることができます。
神さまとはどんな方か、私たちに一番はっきり分かったのはどなたによってでしょうか。イエスさまによってです。神さまの本質が何か、一番はっきり分かったのは、何によってか。イエスさまの十字架によってです。
私たちが主に造られた者でありながら、神さまに似せたものとして造られたのでありながら、主に栄光を帰することができない、罪を背負ってしまっていました。その私たちの罪を背負ってイエスさまは十字架にお架かりになりました。それほどまでに、私たちを愛してくださいました。これこそが、神さまの栄光です。神さまの愛が、もっともはっきり示された出来事なのです。
詩編8編は、このイエスさまの十字架の出来事を知って改めて賛美できる詩でもあります。私たちの栄光と威光の冠となってくださったのは、イエスさまだった。
このイエスさまに従うこと、このイエスさまに倣うこと、それこそが教会の在り方、キリスト者の在り方です。だからパウロは伝えたのです。「キリストにならうように」。自分もまた、イエスさまにならう者として生きることを伝えるのです。
パウロは、そのイエスさまの栄光を思いつつ、コリント教会の人々に伝えたのです。偶像ではなく、主なる神さまをこそに礼拝をささげていこう。主を愛し、その主への愛を教えてくれたイエス・キリストの十字架の贖いを覚えて、聖餐を祝おう、まことの礼拝をささげようと。
そして、キリストに倣い、キリストに似た者とされていく仲間が増えて行きますように。そして、持てる者をすべて、神さまの栄光のために用いて行こうと。
栄光が、私たちにはっきりと表れるのは、主の再臨の時です。面と向かって、私たちがイエスさまに出あえる時、まばゆいほどの主の栄光を、受ける時です。教会はその時を今か今かと待ちながら進みます。今日という主の日にイエスさまが再びいらっしゃるかもしれない。今すぐにでも、面と向かってイエスさまにお会いしたい。そのイエスさまが、極めて良い、と喜んでくれる群れとなれるように、私たち鎌倉雪ノ下教会も祈ります。クリスマスから始まった主の年2022年。私たちが、主の栄光を現していきましょう。