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見える生き方をする

2021年12月26日

嶋貫 佐地子
ヨハネによる福音書 第9章35-41節

歳末感謝聖餐礼拝

 

みなさまにクリスマスの祝福を申し上げます。
その夜、神の御子はベツレヘムに生まれたもう。
この一点に、私どもはひざまずきます。
その夜、世界で最も貧しく、暗い飼い葉桶の中にこの方はおいでになりました。飼い葉桶は私どもの心でありました。どんなに痛んだハートにも、キリストは来られたんであります。

今はいろいろな集会でクリスマスを祝っています。先日はつぼみの会という赤ちゃんをお持ちのご家族の会でもクリスマスをお祝いしました。毎回私がテーマをお出しして若いお父様お母様にそのテーマで話してもらうのです。今回のテーマは「なぜ飼い葉桶だったのでしょう?」というものでした。答えがあるわけではありません。ただみなさまがどのように思われるか、お聞きしたかったのです。そうしましたら長老、奉仕者も含めて素晴らしい黙想の時となりました。
「なぜ飼い葉桶だったのでしょう?」ある方は「イエスさまは悲しみ、苦しみのどん底においでになって、どこまでも寄り添うために生まれてくださいました」と言われました。また「人には思いがけないこと」「主は目立たない小さなところに生まれてくださった。神により頼む存在として。自分には力が無い、自分一人では立てない、すべてを明け渡す存在としておいでになった。自分が何でもできると思うと、神様から離れてしまう。そこに罪がある。けれども、この方を見る時、自分も幼子のような心をもって神により頼むことができる。」それから「主は最初から一直線に一番弱いところにおいでになった。苦しみが溜まっているところに一直線に、まっすぐに来られた。」
そして「『彼らには居る余地がなかった』といわれている。わたしたちの心の余地のないところに、主は入り込んでくださった。肉の欲、罪の中に。」これだけで、説教がひとつできますねと笑って話しました。そしてその中でこういうことを言われた若いお母さんもおられました。「初めは、人間が用意したゆりかごとか、準備された物ではなくて、そこにあったもの、最低限の、準備されていたものと思ったけれど、飼い葉桶というのは馬たちの食べ物を入れるところだから、生きるために必要なものを置くところ。そう思った。」
どうして飼い葉桶なのか。それは生きるために必要なものを、置くところ。
深い言葉でした。

飼い葉桶の中に、神様が私どもに、生きるために必要な存在を与えてくださった。
本日は聖餐が備えられています。生きるために必要なものがここにあります。これはあなたがたのためのわたしのからだ、これはあなたがたのためのわたしの血。これはゆるしのしるし、新しい契約のしるしであります。それが私どもには見えます。だからわかります。私どもにとって、見えるとは、この方を信じることだと。

ヨハネ福音書の第9章も終わりになって、目の見えなかった盲人の彼が、主イエスに癒され、でもそのことで、たった一人で尋問に耐えることになり、またそのことで彼はユダヤの会堂から追放されるということになりました。けれども、外に追い出された彼を、主イエスが迎えてくださいました。
「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと」(9:35)と言われています。主が、彼に出会ってくださった。「出会う」それは「見つける」という言葉なのです。主は、彼がユダヤの会堂から追い出されたことをお聞きになって、そして彼を探してくださったかもしれない。それで、主は彼を、見つけられた。
そのまなざしで、
ああ、よく耐えたね。
そのときのことを想像しますと、彼は暗い冷たい会堂から追い出されて、飛び出て、眩しい外に出ましたら、主が彼の目の前にいてくださった。彼も必然と、親に迎えられた子どものように、その方に飛び込んだのであります。

会堂から追放されるということは、ユダヤの共同体からつまはじきにされることでした。周りとの交際もできなくなります。彼はたった独りになってしまう。けれども主が、彼の前に出向いてくださって。そして彼が、これから生きてゆくのに必要なものを、お与えになりました。主は彼に言われました。
「あなたは人の子を信じるか」(9:35)。「人の子」とは、主が救い主であるご自分を表すときに使われる言葉です。すると彼は答えます。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」(9:36)

彼の目が見える前に、主はお姿を隠されたので、彼は最も見たいと思っていた、その方のお顔を知りませんでした。その方はどんな人ですか。ここに彼の思いが募っていたのです。その方はわたしの目を開けてくださったのです。その方は、神のもとから遣わされたお方なのです。そして彼は、自分のことでどれだけその方が、ユダヤ人から憎まれることになるかも知りました。彼の思いは募り、その方を「信じたいのです」と申します。すると主は言われました。
「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」(9:37)

開かれた目で初めて見る、そのお方でした。彼の心は、このお方で満たされたのです。そして「主よ、信じます」と言って、その場にひざまずきました。
ここに、キリストをまことに礼拝する者が生まれたのです。
信仰とはそのようなものです。思いがけない。自分ではそんなつもりはなかったのに、向こうから、主が出向いて、出会ってくださる。内なる心に、主イエスがのり込んでくださる。
ですから信仰は
主イエスの熱情であります。主イエスが見つけて、主イエスが求め、
「あなたと話している。」それがその人だ。

「あなたは、もうその人を見ている」と、主が言われたとき、主は彼にまなざしを向けて、見つめておられるのでしょう。あなたはその人を見ている。主は彼の眼球に、ご自分が映っているのを御覧になる。そして「信じるか」と言われたんであります。そのような、主の熱いお心であります。

ところが、それをのぞいていたファリサイ派の人たちがいました。主は彼らがいることをご存じで言われました。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(9:39)
こうして。このようにして。見えない者は見えるようになる。「見えない者」とは前の彼のことであって、しかし目の見えないことを知っていた彼は、目を開かれる方を受け入れました。
しかし、「見える者」は。

「見える」と思っているものは、自分を明け渡さない。
ファリサイ派の彼らはそれを聞いて、主が自分たちのことを言っておられるのを悟って言います。「我々も見えないということか」(9:40)。我々も目が見えないというのか。失礼な。すると主は言われます。いや、「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(9:41)

彼らは誰よりも神を知っていると自負しておりましたので、「見える」はずであって、見えなければそっちがおかしいんであって、でもそれゆえに、主を見失いました。
でもそうしてほんとうは見えないのに、
「見える」と言い張るなら、医者はいらぬのです。

自分は見えるのですから、医者はいらぬ。
癒される必要はない。
主は、「罪は残る」と言われましたが、罪のゆるしもいらぬ。そんなつもりじゃないんだ。心のうちにこの方を入れる余地はない。
「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。」と、主が言われた「裁く」というのは「分ける」と言われています。主はお分けになる。見えるようになる者と見えないようになる者。神がご自分を遣わされたのは、ご自分を信じる者と信じない者とを、お分けになるためであった。ただし、これは最後の審判ではない。だからその日まで、主は求めたもう。
熱情をもって。来るべき日を前に、まことの礼拝者を、主は、この世にのり込んで、求めたもう。

 

このあいだ、あるところでクリスマスの讃美歌を歌いました。病室でした。その方は、もうおそらく目も見えず、意識もおそらく混濁されていました。讃美歌を歌うことを許されて、私と一緒に行ってくださった教会の方といっしょに、横たわるその方に聴こえるように讃美歌を歌ったのです。
神の御子は今宵しも、ベツレヘムに生まれたもう。

その方はたいへんに信仰深い方でいらっしゃいますけれど、前に私に言われました。病が切実であったときです。先生、わたしはね、明け方がこわいの。夜は眠れなくて、うつらうつらしていると、空があけてくる。ベランダに出ますと、山の向こうが白んできて、わたしが神様をお呼びしても、空気がシンとするだけで、お返事がありません。

わかる思いがいたしました。こわいの。朝、この現実は夢ではないとわかる。その現実の中で、見えないというのは、聴こえないというのは、神様がおられないんじゃないかというのは、こわいの。

でもその方が直近、私に言われましたのは、せんせい、神様がわたしの背中にいらっしゃるのよ!ということでした。横たわるわたしの、神様は、背中にいらっしゃるの。
輝いておいででした。

今は声も出せない、しかし日の当たる部屋で、その方の前で歌いました。
神の御子は今宵しもベツレヘムに生まれたもう。

その方のところに、クリスマスがのり込んで来たのです。そうしたら、じっと耳に集中されて聴いてくださり、そしてお声を出されました。「んー」。全力のお声でした。

まことの礼拝者でいらっしゃいました。
その方の目に、キリストが映っていらした。

見つめあうおふたりの対話が聴こえるようです。
「主よ、その方を信じたいのです。」
「あなたは、もうその人を見ている。
あなたと話しているのが、その人だ。」

 

聖餐に与ります。生きるために必要な方、
その永遠なる命に与ります。

 

天の父なる神様
御子をお与えくださったあなたに
心からなる感謝と自らを献げます。
主の御名によって祈ります。アーメン