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イエスよ、来てください

2021年12月19日

川崎 公平
ヨハネの黙示録 第22章6-15節

降誕主日礼拝

■クリスマスというのは、たいへんに美しく、また慕わしい出来事であると思います。人類の歴史の中で、これほどに美しい出来事は後にも先にも一度もなかったと、私は思うのであります。

聖書が伝えるさまざまなクリスマスの情景の中でも、とりわけ美しく、私どもの心を深く捕らえるのは、ベツレヘムの星ではないかと思います。東の国の博士たちを救い主イエスのもとへと導いたという、ベツレヘムの星であります。もともと星というのは、神のお造りになったものの中でもひときわ美しいものだと思いますが、その中でも際立つ、不思議な輝きを見せたベツレヘムの星を、言うまでもなくこれを神が動かしてくださって、そうしてあの東の国の博士たちは、遂にまことの救い主に出会うことができました。拝むべき方を拝むことができました。そして、喜びにあふれて、確かな望みを与えられて、自分たちの国に帰って行くことができました。その帰って行く博士たちの背後からも、いつもあの望みの星が彼らを照らしていたと思います。しかもこのベツレヘムの星は、今なお私どもの心を深く捉えてやまない力を持っているのであります。

2021年の最初の日曜日から、ヨハネの黙示録を読みながら礼拝の生活を続けてきました。今日、その最後の部分を読みながら、改めて私どもの胸を打ちますことは、16節に「イエス」という名が出てくることです。注意深く読むとお気づきになることですが、黙示録はどちらかと言えば、「イエス」という私どもの主の名を抑制的に用いるところがあります。しかしここでは、はっきりと、しかも主イエスご自身が自己紹介をなさるように、「わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である」。そう言われるのであります。ここでわざわざ「イエス」と名乗っておられるのは、イエスといういかにも平凡な名前を持って、生身の人間としてお生まれになったという、クリスマスの出来事を強調しているのでしょう。そのお方が改めて自己紹介をなさるのです。「わたしイエスは輝く明けの明星である」。

黙示録を読み終えるにあたり、改めて私どもに問われること、主イエスが私どもにお尋ねになることは、この明けの明星の輝きを信じるのか、信じないのか。それを言い換えれば、あなたは、クリスマスを信じるのか、信じないのか。そのことだと思います。

わたしイエスは、輝く明けの明星である。無数の人が、この黙示録の表現に心を捕らえられてきました。この暁の星を慕う讃美歌をいくつも思い出すことができます。神の御子イエスは輝く明けの明星である、ということのひとつの意味は、今はまだ夜である、世界はまだ闇の中にあるということを暗示しているのでしょう。けれどもこの明けの明星は、暗い夜の空に、静かに、そして最後まで輝きます。新しい朝の訪れを告げるかのようです。クリスマスという出来事は、まさしく新しい朝を告げる出来事でありました。闇の中に、光が輝いたのです。

■私どもが一年間読み続けてきた、ヨハネの黙示録という独特の個性を持った文書は、まさしく今われわれが生きている世界は闇の中にあるということを、容赦なくあげつらうという面があります。一見すると、光り輝いているように見えるものがたくさんあるんです。ことに当時のローマ皇帝の栄光の輝きは、たとえば「ローマの平和」などと言って人びとに称えられるようなことがあったとしても、それは全部、嘘の輝きでしかない。死の力が偽りの輝きを見せているだけだ。罪の美しさに惑わされているだけだ。だがしかし、だからこそクリスマスという出来事が起こったのです。この世界が、神からご覧になって、もうこれ以上放っておけないような有様であったから、だからこそ私どもを放っておけない神の愛は、幼子イエスという具体的な出来事になったのです。確かな望みの星が、輝いたのです。

その意味で、クリスマスというのは、私どもの世界観を180度変えてしまう出来事であります。この世界は、神に愛されている世界である。決して、神に無視されてなんかいない、見捨てられてなんかいない。クリスマスとは、そのことを明確に証しする出来事です。闇の中で耐え続けている人間が、けれどもふと頭を上げて東の空を見ると、望みの星が輝いている。命の朝が近いのだ。

その明けの明星そのものであられる主イエスが言われるのです。「見よ、わたしはすぐに来る」。今日読みました第22章の7節、12節、20節と、三度繰り返して同じことを言われます。「見よ、わたしはすぐに来る」。既に一度クリスマスに、私どものところに来てくださったお方が、そう言われるのです。わたしは必ず、もう一度あなたがたのところに行くから。それまで、確信を持ってわたしを待つがよい。私どもも、それに答えて申します。「アーメン、主イエスよ、来てください」。

既にお聞き及びの方も多いかもしれませんが、先週の木曜日、私の父が82歳で逝去しました。がんであることが分かってから、わずか2週間あまりで死んでしまいました。しかしよく頑張ったと思います。死ぬ前の日に病院を出て、自宅に戻ることができました。私も妻と息子と一緒に、父が息を引き取る30分前に実家に帰ることができました。最後は、私の母がオルガンを弾いてくれて、たくさんの家族、親族の歌う讃美歌に囲まれながら、息子や孫たちに手を握ってもらいながら、静かに息を引き取っていきました。最後の最後には声にならない声で、「ありがとう、ありがとう」と言っているようでしした。猛烈な悲しみに襲われながらも、私は既にこの黙示録の最後の言葉に、深い慰めを受けておりました。「わたしイエスは輝く明けの明星である」。そして黙示録の教える祈りの言葉を、自分の祈りとすることができました。「アーメン、主イエスよ、来てください」。私の父の主でいてくださるイエスよ、どうか来てください。明らかに息が弱くなっていく父の手を握りながら、しかしいちばん深いところで父の存在を握りしめていてくださるのは主イエスなのだと思いました。この父のためにも、望みの星である主イエスは生まれてくださったし、このお方が世の終わりの日にもう一度来てくださるとき、父の手を取って、死の眠りから起こしてくださる。永遠の命に目覚めさせてくださる。

■そのようなことを思いますときに、ひとつ大切なことがあります。17節にも、再臨の主イエスを呼ぶ祈りの言葉が出てきます。

“霊”と花嫁とが言う。「来てください」。これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。

ひとつひとつの言葉が、読めば読むほど、たいへんな深みを持っていると言わなければならないと思います。「来てください」、主イエスよ、来てくださいと、最初に誰が言っているかというと、「“霊”と花嫁とが言う」と書いてあります。花嫁というのは、何回か前の礼拝でお話ししましたが、花婿キリストに愛された花嫁、すなわち教会のことです。私どもキリスト教会は、花婿キリストに愛された花嫁である。その花嫁の特権は、「来てください」と、花婿に呼びかけることができるということです。もしも、この花嫁が、実は少しも花婿に愛されていなかったとしたら、「来てください」と言ったって、こんなに虚しい言葉はないだろうと思いますし、けれども事実、花婿キリストは世界でいちばん花嫁のことを愛していますから、「然り、わたしはすぐに来る」と、そう言われるのであります。

けれどもそれ以前に不思議なことは、ここで花嫁がひとりで主イエスを呼んでいるのではなくて、「“霊”と花嫁とが言う」。つまり、教会が主イエスを呼ぶよりも先に、神の霊ご自身が御子イエスを呼び続けておられると言うのです。そこで多くの人が思い起こすのは、ローマの信徒への手紙第8章26節です。

同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。

「わたしたちは、どう祈るべきかを知りません」というのは、本当にその通りだと思います。一度でも本気で神に祈ったことがある方なら、きっと分かるだろうと思います。その祈りが切実であればあるほど、「わたしたちは、どう祈るべきかを知りません」、本当にその通りだ、ということがよく分かってくるのではないでしょうか。祈りをしようにも、言葉が出てこない。「神さま、神さま、神さま」と、けれどもそれ以上言葉が出てこない。そこでローマの信徒への手紙が言うことは、そういう弱い私どもを神の霊が助けてくださる。どう祈るべきか、祈りの言葉も分からない私どものために、代わりに祈ってくださる。「“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」と、そう言うのです。神の霊もまた、私どもと同じように、いや私どもよりももっと深いところで苦しみ、言葉に表せないうめきをもって祈り続けてくださると、そう言うのです。

そのような、神の霊と私どもとの共同の祈りは、結局のところたったひとつの祈りに集約していくのであって、それがここでは、このように言い表されているのです。「“霊”と花嫁とが言う。『来てください』」。主イエスよ、どうか、来てください。その祈りの中に、すべての人が招かれております。「これを聞く者も言うがよい、『来てください』と」。弱い私どもです。罪深い私どもです。飢え渇いている私どもなのであります。何よりも、死の力の前に、何の力も持たないのです。けれどもそのように、自分自身のうちに癒しがたい渇きがあり、しかもそんな私どものために神の霊が一緒にうめいていてくださることを知る人間は、だからこそこの自分が、主イエスに招かれていることを知ります。「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」。

まさにそこに、私どもの礼拝が造られていきます。「神を礼拝せよ」と、9節にも書いてありました。それは、神の招きの言葉でしかありません。「神を礼拝せよ」。「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」。わたしのもとに来るがよい。そうでなかったら、あなたの渇きはどうしようもなく癒されないではないか。

■そのために私どもに与えられているのが、神の言葉です。7節では、「見よ、わたしはすぐに来る」と言ったあとで、「この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである」と書いてあります。あなたはこの言葉を守れるかな、守れないかな、もし守れれば幸いなんだけど、あなたには難しいかな……というようなニュアンスを読み取るならば、すべてが台無しになるだろうと思います。「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」と、神の言葉が今私どものためにも聞こえているのです。神の言葉が聞こえる。小羊イエスの声が聞こえる。それにまさる幸いはないではないか。「この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである」。黙示録を書いたヨハネは、心の底から幸せを噛みしめながら、この言葉を書き留めただろうと思います。

その関連で思い起こさなければならないのは、第5章の最初のところです。ヨハネは、幻の内に、玉座に座っておられる神の右手に巻物があるのを見ました。その巻物が、七つの封印で閉じられていたというのですが、天にも地にもその巻物を開くことのできる者がおらず、それでヨハネは激しく泣き続けたというのです。私どもも、このヨハネの涙をどこかで既に知っていると思います。神の声が聞こえない悲しみです。聞こえるのは獣の声ばかり。獣の像を拝む人の声ばかり。真実の望みを与えてくれる言葉は、どこにも聞こえないじゃないか。けれども泣き続けるヨハネのために、天の長老のひとりが声を掛けてくれました。

「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる」(第5章5節)。

泣くな、見よ。このお方が神の巻物を開いてくださる。神の勝利を告げる言葉を、あなたも聞くことができるんだ。その勝利者の名を、「ダビデのひこばえ」と呼ぶのですが、その名が第22章の16節に改めて登場します。「わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である」。ヨハネは、このひと言を聞いたとき、かつての自分の涙を忘れてはいなかったと思います。その涙をぬぐう長老の手のぬくもりを忘れはしなかったと思います。涙をぬぐってもらいながら、ふと振り仰ぐと、ダビデの血を受け継ぐ勝利者イエスの姿が見える。明けの明星が、闇の中に、けれども確かな輝きをもって昇る姿を見ることができる。私どもに等しく与えられている、望みの幻であります。

その預言の言葉、神の言葉を、「秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである」と10節には書いてあります。ここにまた教会に委ねられた使命が明確にされる。しかし不思議なのは、これに11節が続くことです。

不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。

なぜこんなことを書かなければならなかったのでしょうか。不正を行う者がいる。他人事ではありません。それを放っておけというのは、ずいぶん乱暴な話です。どうしてこんな不正がまかり通るのか。どうして汚れた者が、大手を振って歩いているのか。そういうときに、私どもは焦ったり、いらだったり、諦めたり、斜に構えてみたり。けれどもそこで、天使がヨハネに命じてくれたことはこうです。あなたは、この預言の言葉を語り続けなさい。時が迫っているのだから、余計なことをしている場合ではありませんよ。神の言葉を聞く者は、神の言葉を守る者は、幸いであります。それ以上に、あなたのすべきことがあるか。わたしがあなたに委ねた預言の言葉は、真実の望みの言葉なのだから、それだけを語り続ければよい。だからこそ、18節以下ではこうも言われるのです。

この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる(18、19節)。

厳しすぎるでしょうか。私はそうは思いません。神の言葉を信じる者は、幸いであります。たとえば、17節。「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」。もしもこの言葉に、余計な条件を付け加えたり、何かを取り去ったりするならば、こんなに不幸なことはないのであります。けれどもヨハネが神から聞かせていただいた言葉は、私どもの救いに必要なことが十分に語られている。これに何も加える必要はない。何も余計なことはない。渇いている者が、価なしに招かれているのであります。クリスマスの星は、そのことを鮮やかに私どもに証ししてくれるものだと思います。今、共に望みの星を仰ぎながら、望みの言葉を確かな思いで聞き取りたいと願います。

「然り、わたしはすぐに来る」。アーメン、主イエスよ、来てください。
主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように(20、21節)。

祈りをいたします。

黙示録を書いたヨハネが、このような幻を見終わったとき、ヨハネはなおパトモスの小島におりました。深い闇が、ヨハネを前からも後ろからもとり囲んでおりました。けれども、その時あなたがヨハネに見せてくださった輝く明けの明星は、その後、今に至るまで、少しもその輝きを減じることなく、私どもに確かな望みを与えてくださいます。輝く明けの明星でいてくださる主イエスよ、あなたの約束の言葉を信じさせてください。たとえ死の陰の谷を歩むとも、この命の言葉を、望みの言葉を守り続け、これを手放すことがありませんように。死に打ち勝つ教会がここに生かされていることは、あなたの確かなご意志に根差すことであります。感謝して、主のみ名によって祈ります。アーメン

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