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今は見える

2021年11月14日

嶋貫 佐地子
ヨハネによる福音書 第9章13-34節

主日礼拝

「今は見える」(9:25)と彼は言いました。
元盲人だった人です!それも生まれつき、彼は目が見えませんでした。生まれつきということは、彼は光の存在すら知らず、どういう世界か言うことはできませんけれどもおそらく、暗闇しか知らなかった。しかしその人が、今は見える、と言ったのです。

これは私どものことです。この人は私どもの代表といってもいい人なのです。神については、人は皆、生まれつき盲人でした。神を知りませんでした。神が見えませんでした。だからそれまではそれが普通だと思ってきました。神様なんて知らなくてもそれが、自分の人生だと思っていたと思います。でも突然、神に呼ばれました。目が開かれました。そうしたら、神が見えた。そうしたらのんびりしてはいられないので、神が見えたらそれまでの自分がひっくり返っちゃうので、それで初めてわかったんです。ああ、自分はこの輝きを知らなかった。
その自分の目をキリストが、直接触れて、開けてくださいました。そしてこの人のように、その目的を主は言われました。
「神の業がこの人に現れるためである。」(9:3) 神の栄光がこの人に現れるためだ。そのことをこの人は言ったのです。
「今は見える。」

彼は主イエスが言われたとおりにしました。主が言われたとおりに、「シロアム」―遣わされた者-という池に行って洗いなさいと言われた、その通りに彼は池に行って、そしてそこで顔を洗うと「目が見えるようになって」(9:7)、そして帰って来たのです。初めて、自分の目で見る道だったでしょう。その眩しい道を彼は帰って来たのです。ところがもうそこには主イエスはおられませんでした。もしかしたら彼は主イエスを探したかもしれません。あの方は、自分を癒された「イエスという方」はどこにおられるのだろう。でもそのときはまだ、彼はその目で、主を見ることはできなかったのです。

不思議なことにここからずいぶんのあいだ、主イエスはおられません。突然、元盲人の前から姿を消されたのです。彼は一人になりました。でも何しろ、周りの人は皆、このことが信じられないでいます。彼が帰って来たら、周りは大きな不安になりました。歓迎もされずにこう言われました。これはほんとうに彼なのか。目が見えず物乞いをしていた人なのか。いや違う、似ているだけだ。起こりえないことが起こったので、周りは困ったのです。でも彼は言いました。「わたしがそうなのです」(9:9)。それで人々はもう手に負えなくなって、彼をファリサイ派の人たちのところへ連れてゆきました。そしてひとりぼっちの尋問が始まったのです。

彼はたった一人で耐え抜かねばなりません。もしそこに主イエスがいてくださったら、どんなに心強かったことでしょう。でも主イエスは彼を癒されたときに弟子たちに言われました。「だれも働くことのできない夜がくる。」(9:4)それは主イエスが不在の時です。もうすぐ夜が来る。主がいなくなられる時が来る。そのときに、あなたがたはどうするか?主が目の前におられないときに、あなたは、この方をなんと言うか?この方をだれだと言うか?まるでその予行練習のように、彼はいま、一人で、厳しい尋問に答えることになったのです。

ユダヤの偉い人たちは尋ねました。「どうして見えるようになったのか。」彼は答えます。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」(9:15)すると彼らは言います。「いったい、お前はあの人をどう思うのか。」(9:17)
これはあの人は誰かということです。彼は答えます。「あの方は預言者です。」(9:17)

問題は、この人の目が開いたということではなかったのです。
この人の目を誰が、開けたのか。それが問題でした。なぜなら彼らはこの事情聴取で、主イエスを罪のある人間だと、定めたかったからです。彼らは主イエスを裁きたかったのです。あの者は神のもとから来た者ではないのだ。そして彼らは、彼の両親まで呼び出して尋ねました。この者はほんとうに生まれつき目が見えなかったのか。それがどうして今は目が見えるのか。両親は答えます。これが生まれつき目が見えなかったのは知っていますが、それがどうして今、目が見えるようになったのかはわかりません。だれが、目を開けてくれたのかもわかりません。本人に聞いてください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。すると彼らはもう一度彼を呼び出して言いました。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」(9:24)すると彼は答えました。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」(9:25)

彼の事情聴取には光があたっていました。目の見えなかったわたしが、今は見えるんです。それが事実です。でも信じていない人にとっては、それが事実ゆえに堂々巡りとなりました。彼がもし彼らの言う通り、あの方は罪人ですといえば彼らは喜んだのでしょう。ところがそんな返事は一向に返ってこない。だから彼らは彼に、嘘をつくなというのです。でも彼は嘘など何もいっていないのです。事実を述べているのです。自分は見えなかったのです。それが今は見えるんです。

彼らはまた聞きました。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」(9:26)すると彼は答えました。「もうお話したのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」(9:27)

見事なものです。彼はひとりぼっちでした。でも昔からそうでした。両親も自分を喜んでいなかったかもしれません。だから目が開いたって、両親は喜べませんでした。そんなことは、本人に聞いてください。両親は自分たちを守るためにそう言ったのです。ここで何か言えば自分たちがユダヤ人の会堂から追い出されてしまいます。そうしたら生きてはいかれなくなります。だから怖くてもう何も言いませんでした。そんなことは本人に聞いてください。もう、大人なんですから。彼はひとりぼっちだったのです。
ところが、彼は一人ではありませんでした。あの方はおられませんでした。けれども、彼は、見えていくんです。主が見えていくんです。

彼は「あの方」と言い続けました。初めは「イエスという方が」と言いましたが、その後はあの方が、あの方が。あの方は預言者です。そう言いながら、だんだん、はっきりと見えてゆくのです。自分の目で見たこともないあの方が、心の目で見えてゆくのです。

このあいだ牧師たちのセミナーで加藤常昭先生がいらっしゃる中でオンラインでしたけれども、加藤先生のなさった説教の録音をお聴きしました。エフェソの信徒への手紙の第1章の説教です。その説教はこの鎌倉雪ノ下教会で語られたものです。
その中でパウロがこういうことを言います。エフェソの信徒への手紙第1章17節と18節です。

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。」

神が、心の目を開いてくださるように。神を深く知ることができるようにしてくださるように。そしてどのような希望が与えられているか。私どもが受け継ぐものが、どれほど豊かな栄光に輝いているか、悟らせてくださるように。

そこで加藤先生がこういうことを言われました。ちょうどこの説教をなさった頃、加藤先生のお姉様が失明なさった。全く目が見えなくなられた。毎日心にかけていたけれども、お姉様の方から「心配しなくていいわよ」と電話があった。教会の皆さんがとてもよくしてくださるの。お姉様が教会にタクシーで着くと四人の方が駆け寄って迎えてくださるの。そのために待っていてくださるの。教会堂の中に連れて行ってくださるの。そして加藤先生はこのようなことを言われました。今も、こうしているあいだも、姉が、その教会で説教を聴きながら、心の目においては、はっきりと、主を仰ぎ見ていることを確信する。肉体の目は見えなくなっても、「もしかするとそれだけ、心の目は、深く鮮やかに、主イエスのお姿を見ているかと思います。」

そして言われました。心の目が開かれると望みが見える。肉体の目は絶望であっても、心の目が開くと望みが見える。

このパウロの言った「心の目を開く」というのの「開く」という言葉についても加藤先生が、ギリシア語だと明るさとか輝きとか、そういう意味がこもっていてとおっしゃって、それは英語で言うとshine輝く、というのですけれど。「心の目を開くのは神の輝き」。「目を開くのは神の輝きなのです。光が、開く」とおっしゃいました。

そういえばそれと同じ言葉が、このヨハネ福音書の第1章でも出てきます。

「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(1:9)

その「照らす」。それもshineです。まことの光がshine、心の目を開く。

私はこの元盲人の彼が、何が見えたのだろうと思うのです。主イエスが見えて来て、何が見えたのだろう。それは望みじゃないかと思うのです。自分の命。自分の命の望みです。あの方が言ってくださったのです。この人に神の業が現れるためだ。自分の命を場所にして、神の栄光が現れるのです。それはたとえ肉体の目が治らなくても、自分の命を場所にして神が輝く。その命の望みです。

それでその録音を私は聴きながら、驚いてしまったんです。私もそこにいたはずですが改めて聴くと、加藤先生の説教の初めから終わりまでみなさんがよく笑っているのです。この会堂に大きな笑い声が響いている。それでこれを聴いた牧師たちも「こんなに笑い声の聴こえる説教は初めて聴いた」と言われました。でもそうすると、私にはよくわかるんです。録音を聴きながら、みなさまの輝く顔が、思い浮かんだのです。
望みが見えるとはこういうことだ。

キリストが照らしているのです。私どもの心の目を開いてくださっているのです。神の輝きが私どものところに来て、世に来て、命の望みを与えてくださっているのです。だからこの元盲人の彼は言うのです。じつに不思議です。この輝きが、あなたがたには見えないんですか。あなたがたはあの方がどこから来たのか知らないという。「あの方がどこから来られたか、〔指導者である〕あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。」(9:30)

彼は続けます。神は!罪人の言うことはお聞きになりません。「しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」(9:31-33)
あの方が、神のもとから来られたのでなければ!
そう言いながら、彼にははっきりと見えているのです。あの方はどなたか。
あの方は神のもとから来られた方。その方がわたしの目を開けてくださったのです。

指導者たちはついに怒って「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」(9:34)と言って彼を会堂から追い出しました。でも追い出された彼を、主イエスが見つけて、問うてくださいました。
「あなたは人の子を信じるか。」(9:35) 彼は、ようやく初めて見た、その方に言います。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」(9:36)
すると主は言われました。「あなたは、もうその人を見ている。」(9:37)

もうすぐアドヴェント待降節を迎えます。そしてクリスマスに向けて、洗礼・信仰告白を志願されている方々の試問会が行われます。長老会がその任務を果たします。長老たちがずらっと並ぶ中に志願者は入って行きます。でも試問会は尋問の場ではありません。キリストが呼ばれた方々を、長老会はわくわくして迎え入れます。その人の命に神が輝くからです。

そしてその中心には、キリストがおられます。志願者はそのキリストをはっきりと見つめながら答えます。
目の見えなかったわたしが、今は見えます。

 

父なる神様、この目で光を仰がせてください。
主の御名により祈ります。 アーメン

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