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何とかし何人かでも救うため

2021年8月29日

中村 慎太
コリントの信徒への手紙一 第9章19-27節

主日礼拝

キリスト者、イエスさまを信じるようになった信仰者には、人生の目的が新たに与えられます。キリスト者の人生の目的は、主なる神さまの喜びに生きる、ということです。そして、主なる神さまに喜んでもらうために、主を愛し、隣人を自分のように愛し、イエス・キリストの大宣教命令に従って歩みます。

伝道者パウロも、主なる神さまに喜んでもらうために、すべてをささげた人でした。彼は手紙の中で、その決心を書き記します。

今日私たちはコリントの信徒への手紙一の第九章19節からを読みました。ここで、パウロ自身がもっとも力強く、まるで宣言をするように語っている箇所はどこでしょう。23節ではないでしょうか。このような言葉です。

コリントの信徒への手紙一/ 09章 23節
「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」

これこそが、伝道者パウロの決心です。イエスさまのために、イエスさまに喜んでもらうために、パウロは福音を伝えました。イエス・キリストの救いという喜ばしい知らせを、人々に伝えました。そのために、パウロはどんなこともいとわなかった。そして、そのことによって、彼自身が主の喜ばしい知らせに与かることを求めたのです。

パウロは福音のために、自らが持っていたあらゆるものをささげていきました。そのことは、19節以降からも分かります。

「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。」

パウロ自身は、自由な者でした。この自由とは、この世のさまざまなルールなどにしばられない、といった次元の自由ではありません。人間が生まれながらに持っていて、どんな手段によっても取り除くことのできない、罪から解き放たれたということです。イエスさまは、主なる神さまからどうしても離れてしまうという私たちの罪を背負って十字架にお架かりになりました。私たちの罪を背負って死なれることで、その罪を取り去ってくださいました。私たちはそのように、イエスさまに救われ、自由にされたのです。パウロが手紙において伝える自由とは、そのように罪から、罪の結果の死から解き放たれて、イエスさまの救いの中に、新しく生かされていることです。

そして、パウロはその自由を持ったうえで、人々の奴隷に、僕になりました。まだ罪にとらわれている人に、イエスさまを証しするために、その人々のために仕えたのです。

興味深いことに、パウロはここで自ら不自由な者となったとは言っていません。主の救いによって自由になったままで、人々に仕えたのです。

パウロは自分が救われたことだけを喜ぶ者ではありませんでした。救われた者として、今度は同じように救われる者が、さらに与えられるようにと、自らの立場もなげうって、人々に仕えたのです。

続けてこのように書かれていました。22節から。

「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。」

実際、パウロはその伝道の中で、人々に仕えていました。そのことは、使徒言行録やコリントの信徒への手紙一のこれまで読んできたところからも分かることでしょう。彼自身はもともとユダヤ人です。しかし、キリスト者と変えられたうえで、ユダヤ人のもとで福音を伝えるために、ユダヤ人の礼拝堂でも伝道をしました。律法にしばられて、偶像にささげられた肉を食べることを恐れた者たちのために、自らは肉食を放棄したっていいと伝えました。また、弱い立場の人と同じように、時に経済的に弱くなり、時に使徒として援助を受けることもしませんでした。

そのパウロが宣言していたのです。

「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」

そして、この手紙を読む私たちにも、このパウロの言葉が心に突き刺さります。私たちはイエスさまの福音のために、あらゆることをしているでしょうか。まだ主の救いを知らずに、苦しんでいる人のところにまで仕えに行っているか。これから信仰に入る人のために、その人の心に依りそうように心を砕いているか。弱っている友のために、私たち自身が弱い者として、仕えているか。この言葉を味わいながら、私たち自身の働きは、パウロのようにはいっていない、と思うかもしれません。確かに私たちには限界があります。

そして、それはパウロにとっても同じです。パウロも伝道の困難で、時に立ち尽くすように八方ふさがりになることもありました。しかし、彼はその危機をも超えさせてくださる方を見つめていました。

私たちは信仰者の先頭に立って、福音のためにすべてをささげつくしたイエスさまを見上げます。パウロに先立って、福音のために文字通りどんなこともしてくださったのは、イエスさまです。

イエスさまは、重い皮膚病を患っていた人を癒し、当時最も嫌われていた徴税人のところにまで訪ねてくださいました。そして、ご自身が、誰よりも深い苦しみを受けて、十字架で殺され、陰府にまでくだってくださったのです。最も弱い者より、低くになってくださった。

私たちは、このイエスさまを見つめることで、初めてパウロの伝える福音宣教の歩みがどういうものなのか、分かるのです。

そして、私たちは教会として、イエス・キリストの体として、群れとして歩みます。一人一人の力は小さくとも、教会として進むことで、大きな宣教の力が生まれるのです。

鎌倉雪ノ下教会のことも思います。教会にはまさにさまざまな人を招くためにいくつもの手立てを講じています。若い人、年を重ねた人、教会にまだ来たことが無い人、教会にきてこれから信仰を見出そうとしている人、さまざまな人のために、鎌倉雪ノ下教会も礼拝の時を持ち、集会をもっているのです。そのことを感謝します。教会学校、夕礼拝、週日聖餐礼拝、バイブルカフェ、入門講座、さまざまな集会。

しかし、私たちのこれらの宣教には、まだまだ可能性があります。あらゆる手立てを、私たちがしていけたら。この働きを、さらに豊かにしていけたらと願います。そして、その働きを私たちが皆で支えることで、パウロの宣言を、私たち教会の宣言としていけるはずです。

「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」

このパウロの宣言を深く味わってきました。そこでさらに大切な言葉を見つめるとしたら、「福音のためなら」という言葉が大切です。

教会が、単純に手あたり次第になんでもすればそれでいい、というわけではありません。私たちがなすすべてのことを、主の喜びの知らせのためになしていくことが大切なのです。つまりは、主なる神さまの喜びのために、すべての業をなしていくことが、私たちにとって大切なことです。

教会は、主の喜びのためにあらゆる手段で宣教する。私たちも、すべての業を、行いも言動も、主の喜びのために、主の栄光のためになしていく、それを祈りましょう。

伝道者パウロはその、主の喜びに与ることを、競技の賞に例えて、私たちに教えました。それが、24節からです。

「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」

私たちは、イエスさまからの賞をいただくことを祈り求めつつ、走るのです。私たちが心から愛するイエスさまから、よくやったと褒められて、与えられる賞です。イエスさまが、喜んで私たちをほめてくださること、そしてくださる賞を、私たちは求めるのです。

これこそが、私たちの人生の目的です。イエスさまに喜んでもらうこと、そのイエスさまから、賞をいただくことです。

その賞は、朽ちるものではありません。この手紙が書かれた当時の競技会では、月桂樹だったり、セロリの葉で造られた冠が、競技で勝った者に与えられました。しかし、それはすぐにしおれて朽ちるものだったでしょう。

しかし、私たちがイエスさまから頂く賞は、地上の命を超えた、新しい、永遠の命です。永遠にイエスさまと共にいられるという恵みです。これこそ、私たちが祈り求める賞です。

イエスさまが喜んで与えてくださる賞を、私たちは祈り求めて走ります。イエスさまに喜んでもらうことを第一として、あらゆる手段を講じて福音を伝えていきます。

その走りは、決して楽な時ばかりではありません。だからこそパウロは「走る」と表現したのではないでしょうか。時に、疲れる。自分の喜びや人の喜びを中心にしてしまいそうになる。自分が救われたことで満足して、自分が主なる神から喜びを受け取ることだけで満足して、それで終わってしまうことがあるかもしれない。人を恐れ、世を恐れ、神さまから与えられた使命を忘れてしまうことがあるかもしれない。

そんな時、私たちは今日与えられたみ言葉によって、叱咤激励されるのではありませんか。主の喜びを第一として走る。その主の喜びのために、福音宣教の業をあらゆる手段をもってなしていく。

主イエスがお喜びなり、「よくやった」と私たちに賞をくださる時を心待ちに、主の福音をあらゆる人に告げ知らせましょう。

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