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限界を破る

2021年8月8日

嶋貫 佐地子
ヨハネによる福音書 第8章48-59節

主日礼拝

第7章から始まった主イエスとユダヤ人たちとの長い論争が終わろうとしています。そのあいだに主は「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲め」と言われましたし、「わたしは世の光である」とも、「真理はあなたたちを自由にする」とも言われて、忍耐と熱いお心をもって彼らに語ってくださいました。でも、その最後は、ユダヤ人たちが主イエスに石を投げつけて殺そうとする、というものでした。そのときは仮庵のお祭りが終わるときでした。大きなお祭りが終わる。お祭りの最後というのは、大体暗くなるものです。ちょうど、オリンピックの競技場の火が消えるように、世界はまた暗くなります。

始まったものは、いつか終わります。命と同じように。生まれたものが、死の時を迎えるように。タイムリミットです。でもその限界を、主イエスが破りに来てくださいました。

このあいだ、つぼみの会という、赤ちゃんをお持ちのご家族の会をいたしました。オンラインでしたけれども、それぞれの赤ちゃんのお顔も見られてとても楽しかったです。そこでこういうお話を、ある若いお母さんがされました。自分はふらっと神様のところからいなくなってしまう。神様はわたしのことを見ていてくださっているのに。わたしはふらっとどっかに行ってしまう。でもそんなわたしを神様はいつも呼び戻してくださる。いいなぁと思いました。

神様がわたしを見ている。
それに気づかされる。
その時には、
自分も神様を見ているのでしょう。
神様に見られていて、そして自分も見る。
神様と見つめあう。

どうしてその話をしたかと申しますと、今日主イエスが「見る」という意味のお言葉を、何度もおっしゃっているからです。51節です。「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない。」(8:51)ここに、見るという意味の言葉が二つあるのです。どこに?と思われると思いますが、まず「その人は決して死ぬことはない」というのは、ほんとうは「その人は決して死を見ない」と主は言われているのです。死を見ない。その人は死を見ない。
しかも決してというのは、永遠にということなので、だからその人は「永遠に、死を見ない」、と主は言われているのです。

さらに同じ51節の「わたしの言葉を守るなら」の「守る」というのも、「見守る」とも訳されます。主イエスの言葉を「見守る」のです。大事にいつも見つめ続けるんです。

「わたしの言葉を守る」、この「見守る」というのは、このあとも何度も出てきます。特に第17章の主イエスの祈りです。主イエスが最後の晩餐の席で、そのほんとうに最後に父なる神様に祈られました。そのとき主イエスが父に、「聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください」と祈られています。「彼ら」というのは弟子たちのことです。彼らは地上に残ります。その「彼らを守ってください」。
それもこの「見守る」です。
父よ、彼らを見守ってください。
その意味は、心にかける。駆け寄る準備がある。我が事のように慈しみ、守る。ということなのです。

そして主イエスは、そこで同じ言葉をお使いになって、わたしも「彼らを守りました。」(17:12)そして彼らもまた「御言葉を守りました。」(17:6)と祈られています。みんな守っているのです。彼らは御言葉を守りました。わたしも彼らを守りました。聖なる父よ、―御父はもちろんのことでございます―彼らを守ってください。「悪い者から」(17:18)守ってください。傷つかないようにしてください。清いままで保ってください。慈しんで、心にかけて、守ってください。彼らもそのように御言葉を守りました。

この関係です。主イエスの祈りの中にある、この関係です。神様が見守る。自分も見守る。お互いに見守りあう。もったいないことですけれども、畏れ多いことですけれども、神様の一方通行じゃなくて、お互いになのです。

そしてそういう関係を、ヨハネ福音書では永遠のいのちと言うのです。
永遠のいのちは、神様との関係です。
永遠は神です。
時間のない、いつまでも。
その永遠は神だけです。
その永遠と、互いに守りあう。見つめあう。そういう関係に、入れていただいた。それが、永遠のいのちなのです。

ですから、永遠のいのちは、死んでからだけのことではなくて、いま、主イエスを信じて、主の言葉を見守っている人、その人はもう、永遠のいのちをいただいているのです。今もう、永遠のいのちは始まっているのです。

だからその人が死んでも、それは死と言う通過点を通ったに過ぎなくて、いよいよ永遠の、「神のいのち」の中に入れられる。そしていつかほんとうに主イエスを、「御子をありのままに見る」(Ⅰヨハネ3:2)。
そんな命のほんとうの成就が来る。
それほどに、永遠との交わりは、
次元を突き抜けるのです。限界を突破してしまうのです。この世とは、別の質のいのちで生きていることになるのです。

だから主イエスは、そうやって神との関係に生きるようになった人、わたしの言葉を守る人は、「決して死を見ない」と言われたのであります。その人は永遠に死を見ない。
死を見ないで、神を見るんです。

でもそこにいたユダヤ人たちはそのことがわかりませんでした。「死を見ない」ってなんだ?だってみんな死ぬじゃないか。わたしたちの信仰の父アブラハムだって死んだ。預言者たちだって死んだ。
すると主は言われました。「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」(8:56)

アブラハムが主イエスを見ていた。するとユダヤ人たちは言いました。あなたはアブラハムに会ったとでも言うのか。アブラハムはとっくの昔に死んだのに、あなたは50歳にもなっていないのに、「アブラハムを見たのか。」(8:57)主イエスはお答えになります。
「アブラハムが生まれる前から、
『わたしはある。』」(8:58)

主は初めから、神様と共におられるので、アブラハムが生まれる前から「わたしはある」でありますし、わたしは彼を見ていると、主は言われたのです。

お気づきかと思いますが、ここにも「見る」という言葉が連発します。アブラハムは、わたしの日を「見る」のを楽しみにしていたし、そして「見て、喜んだ。」アブラハムが何を見たのかは、はっきりとはわかりません。「わたしの日」というのは、クリスマスなのか、それとも終わりの日なのか難しくて決められません。

でも、アブラハムは神様の約束を信じて死にました。あなたによってすべての人が祝福に入る。あなたの子孫からすべての人が祝福に入ると、神様は彼に約束してくださいました。そしてほんとうにその子孫に主イエスはお生まれになりました。彼は地上でそれを見ることはかないませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげたと、ヘブライ人への手紙で言われております。また彼は天の故郷に憧れていましたが、神様は「彼らのために都を準備されていた」(ヘブ11:13-16)とも言われております。

アブラハムもまた、死よりも神を見ました。
アブラハムが山に登って、自分の独り息子をささげたとき、神様がそれを止めて、そこに引っかかっていた雄羊が献げ物の代わりになりました。そのときにアブラハムは、「主は備えてくださる」(創世記22:14)と言いました。
「主の山に、備えあり」。
その「備え」とは雄羊のことですが、その言葉は「備え」と訳すのは稀で、「見る」という言葉なんだそうです。しかもあらかじめ「見る」「予見する」という意味です。
「主の山」に神様があらかじめ「見て」おられるものがあった。人が見るよりも先に、神様が遠くまで見ておられた。

そしてその「主の山」とは、のちにエルサレム神殿が建てられる地であって、すなわち十字架の地であった。そして主の復活の地、父のもとに上げられた高挙の地であった。
「アブラハムは、わたしの日を見て喜んだ。」
彼は、神様が見ておられるものを信じた。

その「備え」を見守った。そのように、
彼もまた、神の言葉を見守った。

その彼を、主イエスが見守った。
お互いに。

わたくしのことになって恐縮ですが、夫の母が、亡くなる半年前に、ここで洗礼を受けました。夫の母はおよそ三年間礼拝に出席して、イエスさまにお会いしました。その母が亡くなったとき、病院で、それが最後の会話になりましたが、母はもう横たえて動けず朦朧としていたのですが、わたくしが母に声をかけました。「お母さん!みかん食べる?」すると母が、大きな声ではっきりと、こう言ったのです。
「イエスさまの前で?」

イエスさまの前で?みかん?
死の直前。
お母さんがイエスさまを見ていた。
イエスさまに見られている。

お互いに、
いつまでも。

この神のいのちに、限りなしです。

 

父なる神様
豊かな交わりに感謝をいたします。あなたの言葉、主イエスをいつまでも見つめさせてください。
主の御名によって祈ります。
アーメン