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改めて問う、神の言葉の甘さと苦さを

2021年7月18日

川崎 公平
ヨハネの黙示録 第11章1-19節

主日礼拝

■ヨハネの黙示録第11章を読みました。これだけでも、一回の礼拝で読むには長すぎると感じられるかもしれませんが、話の内容から言えば、少なくとも第10章にまでさかのぼって、このふたつの章を合わせて理解しなければならないと思います。

第10章では、巨大な天使がヨハネの前に現れて、そしてこの天使から、ヨハネが小さな巻物を受け取って、しかもその巻物を食べるように命じられたと、不思議なことが書いてあります。ごく小さな巻物ですから、食べることができます。ところがこの巻物というのが、口には蜜のように甘かったが、食べるとお腹の中が苦くなったというのです。

これはもちろん幻における出来事ですが、主題は明らかです。教会は神の言葉をお預かりしている。そのみ言葉は、甘くかつ苦いというのです。しかも、教会がお預かりしている神のみ言葉というのは、ただヨハネがひとりでそれを味わっていればいいというものではなくて、第10章の最後のところには「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて、再び預言しなければならない」と書いてあります。まさにそのところで、神の言葉の甘さだけでなく、苦さが明らかになってくるわけで、「多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて」というのは、ローマ帝国の圧倒的な支配の中に生きる当時の教会にとっては、苦々しい思いを呼び起こすものでしかありませんでした。

■そのようなところで、ヨハネは新しい命令を受けました。

それから、わたしは杖のような物差しを与えられて、こう告げられた。「立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ」(1節)。

ここで旧約聖書に親しんだ者であれば誰もが思い出すのが、エゼキエル書の最後の部分だと思います。預言者エゼキエルが幻を見せられて、そこでも新しい神殿の寸法を丁寧に教えられます。皆さんの中にも、聖書通読に励んでいらっしゃる方があると思いますが、こういうところがいちばんきつい、と感じられるかもしれませんね。延々と、神殿の形がどうで、幅はいくつ、高さはいくつ、階段は何段、というような文章が続いて、いったい何の修行をさせられているのかとさえ思います。ただそこで、エゼキエル書の場合にも、そしてヨハネの黙示録の場合にも大切なことは、目に見える姿においては、既に神殿は異邦人の手によって破壊されていたということです。ヨハネの黙示録第11章2節にも、「しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう」と書いてあります。現実には外庭どころじゃない、エルサレムの神殿は完全に壊されて、今なお廃墟のままです。そして、その神の宮を踏みにじったローマ帝国の力が、今もキリスト教会を踏みにじっているのです。なぜ、こんなことが許されるのだろうか。そのような時に、「立って神の神殿と祭壇とを測りなさい」、そして、「礼拝している者たちを数えなさい」と言われるのです。

エゼキエル書を読みますと、先ほども申しましたように、神殿の建物の大きさや形について、ちょっと辟易するほどの詳しい説明が続きますが、黙示録にはそういう説明は一切ありません。黙示録もそういうことには興味がなかったらしい。大切なことは、「そこで礼拝している者たちを数えよ」。私どもの教会も、今日の礼拝出席者は何百何十何人というように、なるべく正確に数えるようにしています。けれどもここでヨハネが命じられている礼拝の人数の数え方は、もっと深く、もっと確かなものがあったと思います。伝染病が流行って礼拝の人数が減ったことを嘆くのは、間違ったことではありません。それどころかヨハネは今、教会の仲間たちから引き離されて、パトモスという小島にいるのです。同じ島の中に一緒に礼拝する仲間が少数でもいたでしょうか。あるいは遠く離れた土地にある、教会の仲間たちの数を懐かしく数えながら、けれどもヨハネに示された礼拝者の数は、少し先の話になりますが、第14章には、14万4千人と数えられています。目に見える建物の姿や礼拝出席者の数を越えた、その向こうに見えるものを、物差しで測ってごらんなさい。数えてごらんなさい。それは既に、ヨハネにとって、無限の励ましを与えられることであったに違いありません。肉の目においては、今にも倒れそうにしか見えないキリストの教会が、しかし見よ、神の御心の内には、このように生きているではないか。

■けれども、それに続く2節では、その神殿の外庭が異邦人によって蹂躙されるであろう、その期間は42か月と、不思議な数字が出て来ます。3節にも、「わたしは、自分の二人の証人に粗布をまとわせ、千二百六十日の間、預言させよう」とありますが、ひと月を30日と数えると、1260日というのは42か月になります。そして、42か月を計算すると3年半です。同じ3年半という期間が、第12章にも第13章にも出て来ます。たとえば第13章5節、「この獣にはまた、大言と冒瀆の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた」。獣の「大言と冒瀆」が許された期間が、42か月と定められています。黙示録を書いたヨハネにとって、この獣というのは、ローマ帝国のことでしかありませんでした。その獣について、今日読んだ第11章の7節にも、「二人がその証しを終えると、一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう」とありますが、その獣が生きることを許されるのは、繰り返しますが、3年半に限られるというのです。

〈3.5〉というのは、もちろん象徴的な数字です。11節にも「三日半たって、命の息が神から出て、この二人に入った。彼らが立ち上がると、これを見た人々は大いに恐れた」とあります。神のふたりの証人が倒されるのも、これまた「三日半」に限られる。3.5というのは、7の半分です。7というのは、特に黙示録に繰り返し出てくる数字ですが、神の完全さを表す数字です。その半分ですから、つまり不完全ということです。3年半という獣の支配は、長く感じられるかもしれないけれども、決して完成しない。必ず途中で挫折するんだ。

黙示録を書いたヨハネは、自分たちはこの獣の支配する3年半の中に生きているのだと、はっきり分かっていたでしょう。しかしまた、私どもの生きる世界はどの時代を切り取っても、獣の支配する3年半なのだと思います。そこで大切なことは、その3年半という限定された期間、教会は黙って耐えたわけではないということです。獣が好き放題することを許された期間、そのような緊急時だからこそ、神はふたりの証人をお立てになるというのです。

「わたしは、自分の二人の証人に粗布をまとわせ、千二百六十日の間、預言させよう」。この二人の証人とは、地上の主の御前に立つ二本のオリーブの木、また二つの燭台である。この二人に害を加えようとする者があれば、彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼすであろう。この二人に害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。彼らには、預言をしている間ずっと雨が降らないように天を閉じる力がある。また、水を血に変える力があって、望みのままに何度でも、あらゆる災いを地に及ぼすことができる(3~6節)。

このふたりには、神から特別な力が与えられている。特に6節の、「雨が降らないように天を閉じる力がある」とか、「水を血に変える力があって」などという言葉を読みますと、これは旧約のエリヤのことだ、あるいはモーセのことだといろいろ想像が膨らみますが、その上で結局は、教会の姿を描いているのだと読むほかないと思います。教会には、たいへんな力が与えられている。その前提の上で、「神の神殿と祭壇とを測りなさい」と言われるわけですから、ヨハネはまず一方では、たいへんに勇気づけられただろうと思います。

■けれども、7節。「二人がその証しを終えると、一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう」。あれほどの力を与えられていたはずのふたりの証人が、あっさりと殺されてしまいます。なぜだ。7節の最初に、「二人がその証しを終えると」とあります。「証しを完成すると」と訳すこともできます。神がお命じになった仕事を最後まで完全になし終えるまでは、誰もこのふたりの口を塞ぐことはできないし、しかしまた神が「これでよし。ふたりは、完全にわたしの言葉を語り切った」とお考えになったら、神はすぐにそのふたりの命をお召しになる。すべては、神の確かなご支配のもとで起こっているのです。それにしても、厳しいことです。ヨハネは既にここで、自分の殉教の姿を見たのではないかと思います。もちろん、ここにいる皆さん全員が殉教するわけではないと思います。けれども私どもがここで、はっきりと教えられることは、獣の支配と呼ぶほかない力、神の言葉を押しつぶそうとする力が、それがたとえ期間限定であったとしても確かに存在するし、だがしかし、だからこそ、その獣の支配のただ中に教会が立てられる。その教会の存在自体が、どんなに深い意味を持っているかということであります。

彼らの死体は、たとえてソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りに取り残される。この二人の証人の主も、その都で十字架につけられたのである(8節)。

言うまでもなく主イエス・キリストの十字架のことを思い起こしています。神の御子イエスを殺した都は、同じように、神の言葉の証し人を殺し、9節では、「三日半の間、彼らの死体を眺め、それを墓に葬ることは許さないであろう」とまで言います。僅か三日半のこととはいえども、厳しすぎるようです。しかしそれ以上に厳しいと感じられるのは10節です。

地上の人々は、彼らのことで大いに喜び、贈り物をやり取りするであろう。この二人の預言者は、地上の人々を苦しめたからである。

神の言葉を語る証人たちが殺されたとき、地上の人びとはこのふたりの死を喜んで、お互いにプレゼントのやりとりまでしたというのです。なぜかというと、「この二人の預言者は、地上の人々を苦しめたからである」。このような言葉を書かなければならなかったヨハネは、どんなにつらい思いをしただろうか。自分が神からお預かりしたみ言葉は、本当はこんなに甘いのに、それがまたどうしてこんなに苦いのか。しかもこれは、決して私どもにも他人事にはなりません。皆さんは、このようなことを考えたことがあるでしょうか。教会が神からお預かりしている言葉は、地上の人びとを苦しめるような、苦い思いをさせるような言葉でしかないのだと。

ここで多くのことを語る必要もないと思います。「彼らの主も、同じ都で十字架につけられた」と言います。なぜ主イエスは、十字架につけられたのでしょうか。なぜそこまで、人びとに憎まれなければならなかったのでしょうか。もちろん主イエスは、私どものために良い言葉しかお語りにならなかったし、私どもを苦しめるようなことは、何ひとつなさいませんでした。「あなたの敵を愛しなさい、あなたをいじめる者のために祈りなさい」と主が言われたときにも、正しく聞き取りさえすれば、それは何の苦みも持たない、甘い恵みの言葉でしかありませんでした。主イエスがまたあるところで、「健康な人に医者はいらない。医者を必要とするのは病人だ。わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われたときにも、それは恵みの甘みにあふれた言葉でしかなかったのに、頑なな偽善者の耳には、苦々しい言葉にしか聞こえなかったのです。そして、このお方の恵みの言葉をお預かりしている教会もまた、獣の支配のもとで、主イエスと同じような運命をたどらざるを得ない。

■ところが、このふたりの証人を倒した獣の支配は、その後三日半しかもちません。

三日半たって、命の息が神から出て、この二人に入った。彼らが立ち上がると、これを見た人々は大いに恐れた(11節)。

私どもの主がお甦りになったように、教会もまた神の命の息によって立ち上がる。そしてこのふたりは、主イエスと同じように天に迎えられたと言います。ここでも黙示録を書いたヨハネは大いに励まされたと思いますけれども、いちばん驚愕させられたのは、そのあとの12節以下だと思います。

二人は、天から大きな声があって、「ここに上って来い」と言うのを聞いた。そして雲に乗って天に上った。彼らの敵もそれを見た。そのとき、大地震が起こり、都の十分の一が倒れ、この地震のために七千人が死に、残った人々は恐れを抱いて天の神の栄光をたたえた(12~13節)。

私は最初この部分を読んだときに、たいへん迂闊なことですが、復讐の心が語られているのだと思いました。ふたりの証人の死を喜んだ敵どもに対する復讐であります。どうだまいったか、最後に勝つのはキリスト教会なのだ、と。けれども、そうではないようです。12節でははっきりと、「彼らの敵」と呼んでいます。彼らの敵も、ふたりの証人が天に上げられるのを見た。ところがその敵どもの神を呪う心が変えられて、神の栄光をたたえ始めたというのです。ヨハネが最初に「礼拝している者たちの数を数えなさい」と命じられた、その人数の中に、この13節に出てくる敵ども、正確には〈元・敵ども〉の数も含まれているとは、夢にも思わなかっただろうと思います。しかし、まさにそこに、神の勝利の姿、そして教会の勝利の姿があるのです。

■その時です。ヨハネは再び、天のラッパの音を聞きました(15節)。ヨハネは、どんなに深く慰められながら、このラッパの音を聞いたことだろうかと思いますし、主イエス・キリストの勝利を告げるこの賛美の声は、今私どものしている、この礼拝においても、確かに聞こえるはずのものであります。

「この世の国は、我らの主と、
そのメシアのものとなった。
主は世々限りなく統治される」(15節)。

パトモスという小さな島で、本当に小さな礼拝の生活を続けていたヨハネであります。教会の仲間が殺される姿を、ヨハネ自身、これまで何度も見せつけられていたかもしれません。けれどもそんなヨハネに、「立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ」と命じられたところから、この話は始まっていました。そんなヨハネのために今、ひとり、ふたり、三人と数えることもできないような、たいへんな数の礼拝の声が聞こえてきました。それに答えるように、天の玉座を囲んでいた24人の長老たちも、感謝の歌を歌い始めました。そうしたら最後に、「そして、天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見え、稲妻、さまざまな音、雷、地震が起こり、大粒の雹が降った」(19節)。ヨハネは、最初に命じられた通り、息をつく間もなく、「神の神殿と祭壇とを測り、またそこで礼拝している者を数え」たと思いますし、それをまた私どものためにも書き記しながら、神の勝利を証ししてくれるのであります。お祈りをいたします。

神よ、主よ、感謝いたします。あなたの御子イエスこそ、真実の支配者です。私どももこのお方に救われて、今死を超える望みに生かされております。なお許される限り、あなたからお預かりしているみ言葉の恵みを、大胆に証しし続けていくことができますように。あなたに敵対する者のためにも、教会を迫害するさまざまな国家のためにも、新しい祈りを始めさせてください。主のみ名によって祈り願います。
アーメン