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最後に残る祈り

2021年6月6日

川崎 公平
ヨハネの黙示録 第8章1-13節

主日礼拝

■「小羊が第七の封印を開いたとき」。ヨハネの黙示録第8章はそのように始まります。この「封印」というのは、神のみ手の内にある巻物を封じている封印のことで、さかのぼって第5章から話が始まっています。七つの封印で封じられている神の巻物、その七つの封印を、小羊イエスがひとつひとつ開いていかれます。そのことによって明らかにされたことは、神の定められた〈歴史〉の姿です。この世界で何が起こって来たか。これから何が起こるのか。既に第6章で、七つの封印のうち六つの封印が開かれたところまでを読みました。争いがあり、殺し合いがあり、飢饉が起こり、疫病が流行り、しかし何よりも、神の言葉を押しつぶしてしまう人間の罪の歴史が、神と小羊の怒りの中で滅ぼされていく姿が、既に第6章に描かれておりました。

ここでは遂に、最後の封印が解かれるのです。そのとき、「天は半時間ほど沈黙に包まれた」(1節)と書いてあります。30分間の沈黙であります。これはいったい何を意味するのでしょうか。いずれにしても、この30分間の沈黙というのは、天を覆い包むような沈黙であって、それは僅か30分間と言えども、永遠の重みを持つ沈黙であったに違いありません。その沈黙の中で、3節以下を読みますと、「すべての聖なる者たちの祈りに添えて」、天使が香を焚いてくれる。そうして私どもの祈りが神のみ前に、香り高いものとして運ばれていくと言います。たいへん不思議な状景です。

■ところが、その沈黙の時は長く続かない。七つ目の、最後の封印が解かれたと思ったら、今度は七つのラッパを持った七人の天使が、ひとりずつラッパを吹いていきます。そこでまたもや、次々と恐ろしい光景が、ヨハネの目の前に描き出されていきます。今日読んだ第8章は、最初の四人の天使のところまでです。皆さんも聖書朗読をお聞きになりながら、「いったい何だろう、これは」とお感じになったと思います。

しかしよく考えてみれば、この第8章で黙示録が伝えていることは、そんなに複雑な、不思議なことではないと思います。先ほど〈歴史〉という言葉を使いましたが、私どもがまさしく歴史の中で否が応でも経験させられることが、しかし古代の人らしい表現で描かれている。実は何も特別なことは書いていない。

8節に、「第二の天使がラッパを吹いた。すると、火で燃えている大きな山のようなものが、海に投げ入れられた」とありますが、これは明らかに火山の爆発を意味します。紀元79年といいますから、このヨハネの黙示録が書かれる10数年前に、イタリアのヴェスヴィオ火山の大噴火があったと言われます。ポンペイという町がひと晩にして消え去り、その火砕流は山肌を流れ落ち、海にまで及んだと言います。おそらくヨハネはそういう経験に基づいて、「火で燃えている大きな山のようなものが、海に投げ入れられた。海の三分の一が血に変わり、また、被造物で海に住む生き物の三分の一は死に、船という船の三分の一が壊された」と書いているのだろう、と考えることができます。

あるいは、これもご存じの方があるかと思いますが、11節に「苦よもぎ」という言葉があります。「苦よもぎ」という名前の星が悪さをしたために、水が飲めなくなって、多くの人が死んだと書いてありますが、この「苦よもぎ」という言葉をロシア語ではチェルノブイリと言うそうです。1986年、チェルノブイリという場所にあった原子力発電所が事故を起こし、世界中の人を震え上がらせました。当時私はまだ小学6年生でしたが、どうもソ連がしばらく事故を隠していたらしいとか、日本に降る雨水にも放射能が測定されたとか、そんなニュースが友だち同士の間でも話題になったことを覚えております。けれども、われわれ日本人よりもヨーロッパの人たちがずっと深刻にあの事故のことを受け止めたひとつの理由は、聖書の最後の書物に「苦よもぎ」、チェルノブイリの文字が記されている。「たいへんだ、黙示録に書いてある通りのことが、遂に起こってしまったんだ」。騒ぎ立てる気持ちも、分からないではありません。

黙示録には、この世界で起こること、必ず起こらなければならないことが書いてある。それは一方では、その通りでしょう。けれども、そのように黙示録を読むときに、ひとつの誘惑というか、危険があるということに、気づいていなければならないと思います。つまり、この黙示録の記事はこの事件を指しているのだとか、実は黙示録は、1900年前から既に、あの惨劇を見事に予言していたのだとか、これもそうだ、あれもそうだ、と数え上げても、おそらく皆さんは、「へえ~」と思ったとしても、「結局、だから、何?」としか返事のしようがないだろうと思います。

第一の天使がラッパを吹いたら、こういうことが起こった。第二の天使がラッパを吹いたら、今度はこんなことが始まった。しかし考えてみると、黙示録が書いているようなことは、紀元79年にも、1986年にも、いつの時代にも起こることだ。歴史において、無数に繰り返されたことだ。その意味では、私どもは冷静にならなければなりません。けれども、冷静になったところでますます忘れられないことは、ここでこのような災いを呼び起こしているのは、神のラッパを持った七人の天使である。それは、もっとはっきり言えば、そこに神のご意志が見えている。もっと言えば、〈神の裁き〉が見えているということです。そしてその神の裁きというのは、もう一度申します。いつ来るか分からない世の終わりというような特別な時にだけ問題になるのではなくて、1世紀にも、20世紀にも、21世紀にも、いつの時代にも見えるはずのものなのです。

しかし、神の裁きって、いったい何でしょうか。ここは、私自身、自分の説教を反省しなければならないかもしれません。私の説教の中に「神の裁き」という言葉が出てくることは、ほとんどなかったかもしれないのです。けれども黙示録がここで明らかにしていることは、神こそがこの世界の裁き主である。この世界の歴史の、すべてを司っておられるのは神だ。黙示録は、そのことをここではっきりさせていると思います。

■ヨハネの黙示録の説教の準備のために、いつも私が熟読するのは、もう何度も紹介したことがありますが、無教会の伝道者である矢内原忠雄の聖書講義です。1941年、太平洋戦争が始まった年に、ヨハネの黙示録の聖書講義を書き始めましたが、矢内原先生の書いたものの中でも特に日本政府をいら立たせたのが、この黙示録についての文章であって、何度も書き直しを命じられたと言います。それで矢内原先生は憤慨して、遂に筆を折った。戦後、改めてその続きを書いて、今私どもは、そのようにしてようやく完結したものを読むことができます。この矢内原先生が、第8章13節についてこういう文章を書いておられます。「一羽の鷲が空高く飛びながら……『不幸だ、不幸だ、不幸だ、地上に住む者たち。なお三人の天使が吹こうとしているラッパの響きのゆえに』」と大声で鳴いたと言うのですが、その聖書の言葉を、このように説き明かすのです。

思ふにヨハネはパトモス島の上空高く飛翔する一羽の鷲を眺めて、この幻影を見たのであらう。我らに取りて一機のB29〔アメリカ軍の爆撃機〕はヨハネの見た鷲にまさりて、同じ神の御言を伝へた。数編隊の敵機が引続き来襲した後、B29一機が偵察の為め上空高く悠々飛翔して、爆音高く我らに対ひ「地に住む者どもは禍害なるかな。禍害なるかな、禍害なるかな、尚数編隊の来襲あるによりてなり。」と告げたのである。その時人々は防空壕より匐ひ出で不気味なる予告の中にも一瞬の息抜きに安きを盗んで己が罪を悔改めず、ただ神を信ずる者のみは静かに神に依り頼みて、神の審判の進行を祈の中に見守つたではないか。

これは明らかに、戦争が終わったあとに語られた言葉です。われわれは、あのとき、あの出来事の中にも、神の裁きを見るべきであったのだ。B29の爆音を聞きながら、本当はわれわれは、「わざわいなるかな、わざわいなるかな」との神のみ声を聴き取るべきであったのだ。あんなにはっきりと聞こえたはずの神の声を、どうして聞き逃したのか。矢内原先生は、やはり黙示録についての文章の中で、こうも言っています。この日本の国も、不信仰によって裁かれるほかない。もしこの国が、私の言葉に耳を傾けていれば、今日の危機に至らずに済んだであろう。けれども彼らは私の言葉を軽んじた。これを退けた。それで遂に、行き着くところまで行ってしまったのだ。……これは、落ち着いて考えてみると、ものすごい発言です。「なぜ日本は滅びたか。私の言葉を退けたからだ。神の言葉に耳を塞いだからだ」。もしあのとき、B29の爆音の中にも、「わざわいだ、わざわいだ」という神の裁きの声を正しく聴き取ることができたならば……。そして本当は、今私どもも等しく、歴史の中に既に、神の声を聴き取ることができるはずなのです。

ここでは、その神の裁きの声が、一羽の鷲の鳴き声に託されて、「不幸だ、不幸だ、不幸だ」と言い表されています。この鷲の声が、あなたには聞こえているか。聖書が今も私どもに問いかけることは、そのことだと思います。

この「不幸だ」と訳される言葉は、私も何度も説明したことがありますが、ギリシア語の原文をそのまま発音すると、「ウーアイ」という言葉です。お気づきのように、これはギリシア語がどうこうというよりも、自然に生まれる呻きの言葉です。「ウァイ、ウァイ、ウァイ」と、呻くように、叫ぶように、「あなたは、不幸だ」と悲しみの心を言い表すのです。福音書においても、しばしば主イエスが同じ言葉を口になさいました。「人の子を裏切る者は不幸だ、ウーアイ、ウーアイ」と、十字架につけられる前の晩、弟子たちの前で呻くように口になさった言葉を、ここで紹介したことがあると思います。考えてみますと、神が私どものために嘆いておられるとは、悲しくも、重く、苦しいことです。主イエスの十字架は、その神の嘆きの極みであり、けれどもそののちの時代においても、耳を澄ませば、いつでも神の裁きと、神の呻きの声を聴き取ることができたはずなのです。黙示録を書いたヨハネは、パトモス島の上空高く飛ぶ鷲の鳴き声の中にも神の声を聴き取ったし、矢内原先生はそれを、爆撃機の飛来する音の中に聴き取ったのであります。

■けれどもここでヨハネが聞き取ったのは、鷲の声だけではありません。天使の吹くラッパの音だけが聞こえてきたわけではありません。それに先立って、不思議な沈黙があったと言うのです。「小羊が第七の封印を開いたとき、天は半時間ほど沈黙に包まれた」。この半時間、30分というのは、たいへん短い時間を意味すると説明する人もいます。それはそうかもしれません。けれどもまた、私どもは30分もの沈黙に耐えられるでしょうか。われわれの礼拝も、絶えず誰かがしゃべっています。それを反省して、少し沈黙の時間を作った方がよい、などと主張する人もいないわけではありませんが、それならば、と言って、今度の礼拝から30分間沈黙してみましょうと言ったって、絶対、余計なことばかり考えるだろうと思います。ちっとも本物の沈黙にはならないと思います。それは言い換えれば、本物の沈黙は、われわれの手で作ることはできない。神が作ってくださるものでしかない、ということです。その沈黙の中で何が起こるか。

また、別の天使が来て、手に金の香炉を持って祭壇のそばに立つと、この天使に多くの香が渡された。すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇に献げるためである。香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った(3、4節)。

30分の沈黙があって、そのあとに別の天使がやってきて、香炉をガチャガチャやり始めたというのではないと思います。この30分間の沈黙が、むなしい沈黙には終わらず、中身のある沈黙になるために、天使が香を焚いてくれた。「すべての聖なる者たちの祈りに添えて」香を焚いて、その香りが「天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った」と言うのです。

この第8章の最初に、このような30分間の沈黙のことが書いてあることの意味は、非常に深いと思います。すべてが滅び去るかに見えるこの世界の歴史を根底から支えているのは、実はこの30分間の沈黙であって、その沈黙を満たすのは、私どもの祈りだと言ってもいいかもしれません。ただし注意しなければならないことは、われわれの祈りそのものが、香り高いものになるとは言っていない。むしろ私どもの祈りなんてものは、実にしばしば、神さまが鼻をつまみたくなるような、悪臭に満ちたものにしかならないかもしれないのです。そう言えばヤコブの手紙も、兄弟の悪口を言った同じあなたの口から、神への賛美が出てくるとはいったいどういうことかと、いぶかっています。けれどもそんな私どもの祈りに、天使が香りを添えてくれるというのです。その香とはいったい何でしょうか。いろんな人がいろんなことを言いますが、私が心を打たれたのは、多くの人がローマの信徒への手紙第8章26節を引用していることです。22節からを読んでみます。

被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。

「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」というのは、痛いほどによく分かる言葉だと思います。私どもも呻いております。実はそれどころか、すべての被造物が今日まで共に呻いているのだと、言うのです。「ウーアイ、ウーアイ」と、私どもの本当の祈りというのは、実は言葉にもなりようがない、ただ呻くだけ、ただため息をつくだけというものにしか、ならないのかもしれません。少なくともヨハネは、そのような祈りを知っておりました。矢内原先生もまた、呻くような祈りを続けておられたに違いない。ところがここで聖書が告げることは、神の霊自らが、「言葉に表せないうめきをもって」、私どもの祈りを助けてくださる、とりなしてくださる。私ども以上に、深い呻きをもって祈り続けておられるのは、あにはからんや、神ご自身であったというのです。その神の霊の呻きと、神の霊ご自身によるとりなしに支えられて、この世界は何とか滅びずにすんでいるのだと、言わなければなりません。今、神の霊のとりなしに支えられて、本当に不信仰な私どもですが、祈る勇気を与えられたいと思います。この世界のために。私ども自身のために。お祈りをいたします。

今新しく、み霊の呻きを聴き取らせてください。何かとため息をつくことの多い、私どもなのであります。それなのに、まっすぐにあなたに向かう祈りが、なかなか深くなりません。この世界のわざわいのために、私ども自身の罪のために、あなたのみ霊と共に、嘆きつつ、痛みつつ、祈ることを学ばせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン