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愛は造り上げる

2021年5月30日

中村 慎太
コリントの信徒への手紙一 第8章1-6節

主日礼拝

私たち教会は、主なる神の愛によって造り上げられた群れです。
今日は、造ることについて話します。
皆さんは、何かを造ったことがありますか。
どんなものでも構いません。子どものころの話なら、積み木、とか、砂場での城とか、おもちゃで言ったら、レゴとか。大人になれば、それこそ建物とか、たくさん思い浮かぶと思います。
では、皆さん、もしそれを壊されたら、どう思うでしょうか。
私など、子どものころ、レゴが好きでしたが、せっかく丁寧に造ったものを、友達に壊されて、怒ったこともありました。
今日の私たちが聴いた聖書の言葉にも、造るという言葉がありました。
そこにある言葉はこうでした。

 知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。

第8章1節の後半です。
皆さん、この聖句心に残ると思います。では、ここの言葉は一体何を指しているのでしょう。愛は何を造りあげるのか。
人を造り上げる。
その通りでしょう。
しかし、コリントの信徒への手紙というこの書が記されている目的を考えるといいでしょう。これはただ人々を造り上げることを話しているのではない。
教会を造り上げることが、ここでは話されています。
さらに、問いましょう。この愛とは、誰の愛か。人間同士の愛か、それだけではない、主なる神さまからの愛です。それこそが、私たちを造ら上げた。主の愛こそが、私たち教会を造り上げたのです。

この手紙の言葉は、私たちの間にあることだけを話しているのではありません。人間同士の愛が、誰か人間を造るとか、人間と人間の関係で、知識が誰かを高めるという話だけをしているのではない。平行の事柄だけではなく、垂直の事柄、主なる神さまとの関係のことを話している箇所です。
そのことは、続く言葉からも分かります。
第3節。

 しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。

私たちが愛する相手は、人だけではない。主なる神への愛こそ、この手紙で問われていることです。また、私たちが何を知っているかが重要なのではない。主なる神が、私たちを知っていて下さることこそ、重要なのです。
この手紙は、人間同士の事柄だけを示しているのではない。そのうえで、私たちは読むことができます。
「愛は造り上げる」。これは、主なる神の愛こそが、私たちを、私たち教会を造り上げたのだ、ということを、言い表しているのです。
では、その教会が壊れるようなことがあっては、どうか。主はお怒りになる、というより、悲しまれるのではないでしょうか。

さて、その造り上げられた教会を、壊すような働きが、コリント教会にありました。それは、偶像に備えられた肉を食べるという行いでした。
これに関しては、偶像などそもそもない、という理論、知識がコリント教会の特に知識を重んじる者たちのうちにありました。この世界を造られたのは、唯一なる主なる神である。そのほかには、神はいない。地中海世界に広く有名なギリシアやローマの神話の神々は、いない。だから、そのギリシアの神殿でささげものとされた肉が、その後で売られたとしても、それを食べても何も、自分たちには影響がない。
パウロはその考えを、知識を、認めていきます。しかし、そのうえで、あなたたちがそのように肉を食べることで、誰かが「ああ、あの人もむかしのようにギリシアの神々を崇拝するようになったのか。じゃあ、わたしもそうなっていいのか。」と思ったりしないだろうか、と問うていくのです。
そもそも、使徒言行録15に記されているように、使徒たちの会議では、偶像にささげられた肉は食べないように、と言われていました。しかし、コリントの地では、そのような肉が広く出回っていたのではないでしょうか。だから、パウロも彼らの言い分に理解を示しつつ、議論を進めるのです。
この議論は、とても慎重に扱わなければなりません。日本でも、それこそキリスト教以外の文化の中で、私たちは生きている。それと対決することが、伝道になるのか、それは単純には言えないのです。
また、誰かの躓きになることばかりを気にかけて、教会本来の業をないがしろにすることも、それもやはり教会の破壊になると思います。
大切なのは、教会の中心点は何か、信仰者の中心は何か、ということです。
教会の中心は、唯一の主なる神です。そして、この主が私たちを愛しているということを喜びつつ、この主を愛するということです。
それこそ、現在も偶像は溢れています。主なる神の言葉ではなく、この世の価値観にだけ耳を傾けたら、それは偶像崇拝に陥っていることになります。では、この世の価値観を否定すればそれでいいのか、それだけが教会のなすわざではないのです。
私たちは、主なる神を心から愛するのです。その主へと礼拝をささげるのです。

教会には、様々な者が集まります。教会はその者たちを、画一化することを目的に伝道するのではありません。皆が、おんなじ見た目、同じ思想、同じ文化生活を持とう、ということではない、それはいうなれば、カルトということになってしまう。
教会は、それぞれが主に愛されていることを知りつつ、主にあって一致するのです。
老若男女、文化背景も、生まれ育った地域も違う私たちが、一つの方向、主なる神の方を向いて、礼拝をささげる、主なる神において、一致すること、それこそが教会です。
この一致を妨げる働きこそが、教会を破壊することになるのです。
そして、その一致のためには、愛が必要なのだ、とパウロは言います。その愛とは、まず、主なる神の愛を知ることではありませんか。
主なる神は、はるか昔から、人を愛し続けてくださった。イスラエルの民をお選びになり、その民に愛を注いで、その民から、全世界に主の愛を拡げてくださった。
そして、主は、人々にお命じになりました。わたしを愛しなさい。

今日は申命記の言葉にも聴きました。

聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

この主への信仰を、伝道者パウロも言い表します。

「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」

私たちは唯一の主なる神さまを愛します。それによって、私たちは教会を造り上げるのです。私たちは、唯一の主、イエス・キリストを愛します。なぜならば、この主イエスこそが、まず私たちに愛を注ぎ、私たちを生かし、私たちを造り上げてくださったからです。

主イエスは、私たちを愛してくださいました。十字架にお架かりになるほどに愛されました。それは、私たちが罪の中で滅んでいくことを、よしとなさらなかったからです。罪赦されて、救いの希望を抱きつつ歩む群れとして、新しい命を生きてほしい、と主は望まれた。だからこそ、主は十字架で私たちの死を背負って死なれ、ご復活なさり、新しい命の希望を与えてくださったのです。
私たちはその主の愛によって、新たに存在させられています。救われたものとして生きるようにされています。そして、教会はその主を愛することで一致していきます。
聖霊降臨の出来事、ペンテコステの出来事は、まさに主への愛で教会が一つになり、生まれた時でした。主イエスの弟子たちが、復活の主の言葉に励まされつつ、皆で一つになり祈っているところに、聖霊は降ったのです。弟子たちは、主なる神への賛美では一つでした。しかし、各国の言葉で語りました。

今私たちも、ここに集い、主イエスを見上げることで、主へと礼拝をささげることで一つになっています。では、私たち皆が、完全な愛を持てるようになったか。ザ・クリスチャンと言われるような典型的なクリスチャン像を持つようになったか。そうではない。
全員が同じになるのではなく、全員が一つの方を向くことで、一致しているのです。今日も、皆で一緒に礼拝をささげている。その今、私たちは何か他の事をしている余地はない。皆で、主なる神への愛を抱くことで、私たちは一つとなって、教会を造り上げているのです。

まず、主が私たちを愛し、私たちを教会として、造り上げてくださいました。
では、私たちはどう主の愛を受けて、教会をつくり上げていくのでしょうか。
私たちは、本来何かを造り上げるなどということはできないような小さなものです。何かを造っても、永遠に残るようなものなどは造れはしない。
しかし、主はそんな私たちを愛してくださった。本来主を愛することも、人を愛することも完全にはできない私たちに、主は愛を注いでくださった。そして、教会を造り上げる使命をお与えになった。
私たちは愛によって教会を造り上げることができるように、祈ります。主なる神を愛し、礼拝をささげることこれこそ大切な使命です。また、教会で奉仕し、互いに主を見上げられるように励ますこと、これも、大切な使命でしょう。教会学校で、若い魂に、一緒に主を見上げることを伝える、それも大切な使命です。そして、まだ主の救いを知らない誰かに、主の愛を伝えること、これも大切な使命です。
今まさに、私たちが礼拝をささげ、主のために祈り、主のために自分のできる何かを心を尽くして行っていること、それこそが、主を愛すること、主の群れを愛して、それを立ち上げていくことなのではありませんか。
パウロは、コリント教会にもそのようになってほしかったのだと思います。偶像のことで誰かをつまずかせる暇などない、まず皆で主を愛そうではないか、主があいしてくださったことを思いながら。そのように伝えたかったのではありませんか。
そのような教会の群れが、今ここに立っている。主の愛によって造り上げられている。

主の御心に従いつつ、主を愛し、その主の御業、教会をさらに造り上げていくことに、私たちも用いられますように。