キリストの奴隷は自由
中村 慎太
申命記 第7章6-11節
コリントの信徒への手紙一 第7章17-24節
主日礼拝
伝道者パウロは、コリント教会の人々に伝えます。「それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。」その背景には、信仰に入った後に、自分の身分を気にして、それを変えようとしたものがいたということです。その中には、結婚していた者が、妻として、夫として歩むことをやめる事例もありました。
ここでは、さらに、割礼を受けているユダヤ人が、異邦人のようになること、異邦人が、割礼を受けてユダヤ人となることなども記されています。そして、奴隷が、自由の身になることも記されています。
このような変化を望む人々には、ある問題があったと言えるでしょう。それは、他者の境遇をうらやんでしまうという問題です。独身の者の方が、教会でよく奉仕できている、わたしも独身に戻ろう、とか。ユダヤ人のようになりたい、あるいは異邦人のようになりたい、といったようにです。
しかし、パウロは伝えます。
まずは、割礼の事実をなくしたり、割礼を受けようとする人々に対して。
割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。
もとの言葉で言えば、「割礼を受けていることは、何にもならない。割礼を受けていないことは、何にもならない。大切なのは神の掟を守ることです。」と訳してもいい言葉です。
神さまの前に、割礼をうけているか、受けていないかは、もう問題ではなくなったのです。旧約の時代割礼は大切な徴でした。それは神さまに選ばれた民の徴だったからです。そして割礼はまさに、神さまからの掟でした。しかし、その掟は、イエス・キリストの救いによって新たにされました。ユダヤ人であろうが、異邦人と呼ばれる外国人であろうが、共通の、いやすべての者にたいして、ただ一つの掟は、イエスさまによって完成させられた掟です。そして、その掟を完成させてくださったイエスさまお一人こそが、私たちの掟となったのです。この方に信頼し、この方を信じることこそが、私たちのただ一つの信仰でした。
その信仰の前に、私たちがどのような立場、国民であっても、それは意味を成さない、ということです。
パウロは続けて、奴隷であった人々に対しても言葉を続けます。
召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。
この時代の奴隷は、アメリカ大陸における奴隷制度の頃の奴隷とは、異なることはここでお伝えしておきます。確かに、多くの制限はあったでしょうが、ローマの時代などの地中海世界の奴隷は、ある程度自由を持ち、むしろ尊敬される教師となることもあるような、家をささえる立場でした。
その立場を、神さまの前にさげすむことはない、とパウロは伝えます。むしろ、その立場のままでいいとまでいうのです。奴隷だからこそ、イエスさまのことを証しできると、パウロは思っていたのではありませんか。
私たちも、どこかで人の立場をうらやむことがあります。あの人はお金があるな、とか。あの人は学力があるな、とかです。教会においても、そのようなことが起こるかもしれません。あの人はたくさん教会にいるな。あの人はたくさん教会のために尽くしているな。自分はどうだろう。
しかし、どうでしょう。神さまの前には、私たちは皆子どもです。その子どもに、それぞれの在り方がある。それぞれに良いところも、悪いところもある。神さまはその私たちの良いところも、悪いところもすべて踏まえて、愛していて下さるのではありませんか。
たとえば、私自身も、牧師になってからもさまざまな課題がありました。牧師になったのだから、日曜以外のすべての日も、牧師らしく生きなければ、と思うこともありました。自分の好きなこと、小説や漫画を読むことや、映画を見に行くことも、何か後ろめたく感じるようなこともありました。他の牧師と自分を比べて、わたしにはこれがない、私はああはなれない、などと悩むこともありました。
でも、そうやって、いくら思い悩んだとしても、私は私をやめることはできません。他人になることもできません。
しかし、最近やっと、改めて自分のことを思い直すことができるようになりました。それは、聖書をじっくり読む機会が与えられたから、ということはできるでしょう。主なる神さまは、私を、造られました。それは、私にしかできないことを、私にさせるためです。その意味で、私は神さまに造られた、世界にたった一つの芸術作品なのです。
そして、私が造られた目的は、神さまの栄光を現すためです。私は、その歩みの中で、神さまに召されて、受洗、信仰告白の時が与えられました。そこから、私は完全に主なる神さまのものとされたのです。それはつまり、私の悪いところも、神さまと全く関係のないようにおもえるところまで、すべて、神さまのものとされたということです。
私は、いくら信仰告白をしても、牧師として按手を受けたとしても、そこから聖人君子になったわけではありません。何かを怖がることもたくさんあります。死が怖い。失敗が怖い。人間関係の壊れが怖い。そして、罪にいつも陥る。しかし、私はそれらもすべて神さまにささげていいのだ、と知らされました。神さまは私たちの罪をも、弱いところをも、私たちが悔い改め、差し出した時、喜んでくださいます。空っぽになった私たちの手に、恵みを注いでくださいます。
そして、私たちは、すべてを差し出します。例えば、日曜日だけが、私たちと神さまの親しい時ではありません。日曜日から始まる、週の日々だって、神さまは私たちと共にいて下さるかたです。どんな仕事をしていても、どんな生活をしていても、私たちはその歩みを、主のために祈りつつ歩むのです。
キリスト教とは全く関係のない小説を読む時だって、音楽を聴くときだって、遊びに行く時だって、家事をするときだって、私たちは神さまの子として、神さまに造られた者として、生き生きと過ごすのです。「神さま、今日一日の歩みも、あなたにささげます。」そう祈りつつ、私たちは生きるのです。
今日は申命記も読みました。
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。
神さまが私たちを選ばれたのは、私たちが優れていたからではありません。むしろ、私たちの弱いところ、欠けたところでさえも、神さまはその栄光のためにお用いになります。私たちがどんな立場であっても、主はその立場をも、主の栄光のためにお用いになるのです。
だからこそ、パウロも奴隷たちに、そのままの身分でもいいのだと伝えたのではありませんか。
ここにも、たくさんの立場の人がいます。全員が牧師ではありません。さまざまな学校、仕事場、家庭に、私たちは生きている。だからこそ、さまざまなところに、神さまの福音が届けられます。
ただ一番大きなことは、私たちが、キリストのものだということです。
あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。
私たちは、そのままの身分でいい。と言われました。それは、私たちがかつてあったように、自分を自分のものとすることや、他人の目を気にして生きるように、と伝えられているのではありません。
キリスト者は、決定的に変えられたものです。それは神さまの者とされたということです。受洗の喜びは、その出来事が、はっきりとしめされたということです。
受洗によって、人は変わらない、と言われることもありますが、それはとんでもない間違いです。この世においては立場が変わらないかもしれませんが、キリストの者とされた、ということは、決定的なちがいです。そして、そこから、私たちは、すべてを主にささげていく生き方を初めていくのです。
すべてをささげて歩む生き方を教えて、イエスさまはタラントンの教えを私たちにつたえました。
私たちはまさに、神さまから神さまの栄光を現すために造られた、神さまの僕なのです。私たちに与えられている命も、人生も、立場も、生き方も、すべて神さまからのものです。まさに、僕に与えられたタラントンです。
そのタラントンは、人によって預けられたものが違います。しかし、それは他者と自分を比べるためのものではありません。5タラントン与えられた者には、5タラントンを用いるやり方がある。2タラントン与えられた者には、2タラントンを用いるやり方がある。
私たちはそして、再臨のイエスさまにお会いしたときに、喜ばれるように生きたいのです。
すべてを主にささげて、歩んでいきましょう。