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恐れるな。あなたの命は、神が守る

2021年2月21日

川崎 公平
ヨハネの黙示録 第2章8-11節

主日礼拝

■ヨハネの黙示録、すなわちヨハネの見た幻の記録であります。おそらく小アジア全体の教会の指導者であったと言われるヨハネという人が、パトモスという小島で、神から幻を見せていただきました。たいへん豊かな内容を持つ幻でしたが、その中心に立つのは、今生きておられるイエス・キリストの幻であります。今日読みました第2章8節にも、「最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方が……」とあります。「最初の者にして、最後の者である方」、つまり、世界の始まりから終わりに至るまで、すべてがこのお方の手に握られている。しかもそこでヨハネが見せていただいたことは、この世界の支配者たるキリストが、ひとつひとつの教会を訪ねてくださるという幻でした。前回読んだところですが、第2章の1節には、「右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方」という表現がありました。その「七つの金の燭台」というのは、七つの教会のことだと直前の第1章20節に説明がありました。「七つの金の燭台の間」、つまり各地の教会をキリストご自身が訪ねてくださり、そしてひとつひとつの教会に、伝言を残してくださるというのです。

その関連でひとつ、以前の説教で話しそびれたことがあります。第1章9節以下のところに、小さなゴシック文字で、「天上におられるキリストの姿」という小見出しがついています。この小見出しについては、ちょっと文句を言いたい。「天上におられるキリスト」って、一方ではそうなのかもしれませんけれども、ヨハネが見せていただいたキリストの姿というのは、天におられるキリストでありながら、その天の輝きを何ら減ずることなく、私どもの教会の間を巡り歩き、訪ねてくださるキリストでもあるのです。しかも、第1章17節以下にはこう書いてありました。

わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。

これは少なくとも「天上におられるキリストの姿」ではないでしょう。天の輝きを一切曇らせることなく、しかも同時に、今ヨハネの上にしっかりと右手を置いて、「恐れるな」。「だいじょうぶだよ」。そして、恐れなくてよい理由をも、きちんと告げてくださいました。「わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である」。「一度死んだが、見よ、わたしは、生きている者だ」。そのわたしの手が、今あなたの上にしっかりと置かれているのだから、何も恐れることはないではないか。

先月、この箇所を説教したときにも申しました。ヨハネが見せていただいた幻の、その第一声は、「恐れるな、わたしだ」という、主の御声であったのです。黙示録のすべての内容は、結局のところ、「怖がることはない。わたしがここにいるよ」という、このひと言に尽きるのだと、私はそう思うのです。

■「恐れるな。わたしだ」。そう言って、ヨハネの体にしっかりと右手を置いてくださったキリストが、ここではスミルナの教会を訪ねてくださって、再びこのように語りかけてくださるのです。

「最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方が、次のように言われる。『わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ』」(8、9節)。

お気づきのように、「最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方」というのは、先ほど読んだ第1章17節以下の繰り返しであります。「わたしは最初の者にして最後の者。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きている」。そのお方が、スミルナの教会にも同じように言われるのです。「恐れるな、恐れるな」。10節であります。「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない」。そのような励ましの言葉がなければ、立つことができないほどの苦難があったからであります。

しかし、ここで多くの人は考え込んでしまうかもしれません。「恐れるな」と言われても、いったい自分は、何を恐れているんだろうか。「あなたが受けようとしている苦難」と言われます。しかし、それはいったい、何だろうか。

9節にも「苦難」という言葉がありました。もしかしたら、まず皆さんの心に留まったのは、この9節であったかもしれません。「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ」と言うのです。

第2章から第3章にかけて、七つの教会への手紙が記されます。それこそ新共同訳聖書の小見出しを追っていくと、エフェソ、スミルナ、ペルガモンと、七つの教会の土地の名前を容易に確かめることができます。この七つの教会への手紙において際立っていることは、「わたしはあなたのことを知っている」というキリストの言葉が繰り返されることです。前回読んだエフェソの教会への手紙においても、「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っている」と言われます。そしてここでも、「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている」というのです。主イエスに知られている、ことにわたしの苦しみや貧しさを理解していただいているということは、それだけでも慰めかもしれませんし、しかしまた人によっては、ここでまた考え込んでしまうかもしれません。主イエスが、わたしの苦しみと貧しさを見つめておられる。しかし、そのわたしの苦しみと貧しさって、いったい何だろう。

■こんなことをもったいぶってお話しするのもどうかと思いますが、先週私の心を悩ませ続けたひとつのことは、またか、と思われるかもしれませんが、どうも思うように説教の準備ができないということでした。水曜日、木曜日、金曜日。日を重ねても、どうも聖書の言葉がピンと来ない。夜、布団の中に入っても、じーっとこの主イエスの言葉のことを考える。「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ」。スミルナの教会への手紙だと言われますが、本当は、すべての人が、この言葉の前に立たされるのだと思います。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさを知っているよ」。「しかしね、本当はあなたは豊かなのだ」。こういうことを言われて、しかし、どうお答えすればよいのでしょうか。

自分は豊かなのか、貧しいのか。特にここは、ほんねでお話ししたいと思いますが、私どもが常に考えていること、いつもこだわっていることは、結局このことなのではないかと思うのです。こんなにちっちゃい子が、と思えるような子どもが、実は既に、敏感に自分の豊かさを計っているものです。自分の家が貧乏か金持ちか。自分は勉強ができるかできないか。スポーツができるか。自分の顔はイケてるか、イケてないか、なんてことを言葉にすると実につまらないことのようですけれども、そういうことが、私どもにとっては生きるか死ぬかの大問題なのです。どこの学校を出たか。仕事は何をしているか。子どもの成績は、孫は、親戚は……。「自分は豊かなのか、貧しいのか」。そのことで死ぬまで悩み続ける私どもの心の、いちばん深いところにあるのが「恐れ」というものなのかもしれません。私どもは、キリストのまなざしからご覧になるならば、根本的に、恐れている存在なのであります。怖がりなのです。

けれども、そんな私どもに、主イエスのまなざしが注がれて、「わたしは、あなたの苦しみと貧しさを、全部知っているよ」と言われるのです。私どもの信じる主イエス・キリストは、私どもの苦しみや貧しさに関して、決して無関心な方ではありません。どんなにつまらない私どもの不安や思い煩いや、それは結局「貧しさ」という言葉でひっくるめることができるのかもしれませんが、主イエスはすべてご存じです。ところが、そこで主は同時に言われるのです。「恐れてはならない」。「本当はあなたは豊かなのだ」。主が見つめていてくださる私どもの豊かさ。それを、私ども自身は、今どのように受け入れているでしょうか。

誤解のないように念を押しますが、「あなたは、本当は貧しくなんかないんだよ」と言っているのではありません。「わたしは、あなたの貧しさを知っている」と言われるのですから、むしろ、どんなに豊かそうに見える人も、主イエスのまなざしの中に置かれるならば、貧しい人でしかない。その貧しい人がどうして、「あなたは豊かなのだ」と言われるのか。しかしこれは、複雑な説明をする必要もないだろうと思います。徹底的な苦しみの中にあり、貧しさの中にあるスミルナの教会を、主が訪ねてくださって、ヨハネにもそうしてくださったように、今私どもの上にも、主イエスが右手を置いてくださり、「恐れるな、恐れるな!」と声をかけてくださる、まさにその事実の中に、私どもの本当の豊かさが見えてくるのではないでしょうか。

いろんな貧しさがあるでしょう。いろんな苦しみがあるでしょう。それこそ、布団の中でひとり、悶々と眠れない夜を過ごしながら、けれどもそこで、「わたしは知っているよ。あなたの苦しみを、あなたの貧しさを」という主のみ声を聴き取ることができるなら、幸いであります。

今、このように礼拝をしながらも、いつも心にかかるのは、病床にある教会の仲間たちのことであります。感染症のことがありますから、病気になって入院しても、誰も訪ねてくれない、家族にさえ会えない、というようなことがいくらでもあります。そのような教会の仲間のためにも、この主イエスの言葉が心に届くようにと、今私は願っています。どんなに孤独な死の恐れの中にあったとしても、「わたしは、あなたの貧しさを知っているよ」と言われる主が共にいてくださるならば、まさにその瞬間、「あなたは、本当は豊かなのだ」という主の約束をも、そのまま受け取るほかないのであります。

■スミルナの教会は、特別な貧しさの中にあったと言われます。スミルナの町自体は非常に豊かであった。けれどもその豊かな町の中でキリスト教会は、イエスをキリストと信じる、ただその理由だけで、非常に苦しく、貧しい生活を強いられていたようです。

自分はユダヤ人であると言う者どもが、あなたを非難していることを、わたしは知っている。実は、彼らはユダヤ人ではなく、サタンの集いに属している者どもである。あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう(9b~10節)。

「死に至るまで忠実であれ」というのは、言い換えれば、信仰を守るために、死を覚悟しなければならないような場面があったということであります。そのことについて、「自分はユダヤ人であると言う者どもが、あなたを非難している」と言います。ユダヤ人、本当は同じひとりの神を信じているはずの人たちが、けれどもイエスをキリストと受け入れることができず、そういうユダヤ人が特に厳しく教会を攻撃するようになったということは、最初の時代の教会がいつも経験させられたことでした。

しかしそれにしても、「サタン」とか「悪魔」とか、いくら何でも表現がきつすぎるようです。けれども、ある人はこういうことを言っています。「悪魔とかサタンとかいうのは、単に悪口が過ぎたというような話ではない。スミルナの教会が直面していた苦しみと貧しさの背後には、結局のところ、神と悪魔との戦いがあったのだ」。死の力との戦いと言ってもよいだろうと思います。けれども、その悪魔との戦いを、先頭に立って戦っていてくださるのは、「一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて」いるイエスであって、このお方が私どもの〈死の貧しさ〉を見つめていてくださるということが、何にもまさる慰めなのであります。

私どもの苦難と貧しさというのは、究極的には、死に行き着くものであります。ここではどんな人間も、徹底的に貧しくならざるを得ない。9節の「あなたの貧しさ」という言葉を取り上げて、これまた多くの人が原文のギリシア語にさかのぼって説明してくれることは、これは中途半端な貧しさではない、ということです。ぎりぎり生きていけるけれども贅沢はできない、というような貧しさではなくて、徹底的な、根本的な貧しさを意味します。「スミルナの教会よ、あなたがたは物質的には貧しいけれども、心は豊かだね、信仰は豊かだね」などというような中途半端な話ではなくて、根本的に貧しいのです。私どもが、物質的なものであれ精神的なものであれ、どんなに豊かになったとしても、主イエスが見つめておられる私どもの根本的な貧しさは、結局のところ、徹底的な、死の貧しさに行き着くのであります。そして私どもは、その貧しさを、誰にも助けてもらうことはできないし、誰かの貧しさを助けることもできないのであります。

■ところが、そのような私どもに、「最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方が、次のように言われる。『わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ』」。私どもの貧しさを知っていてくださるお方は、「一度死んだが、また生きた方」であります。一度死んだふりをなさったというのではなくて、本当にこのお方は、徹底的に死の貧しさを、苦しみ抜かれました。私どもがどんなに貧しくなっても、それは、主が経験なさった貧しさよりも深いものではありません。私どもが、人間として、どんなに深刻な死の恐れに直面することがあったとしても、それは主イエスが経験なさった死の恐れに比べれば、10節にあるように、「十日の間」の苦しみ、実に僅かな時間の苦しみでしかありません。しかもこのお方は、お甦りになりました。「一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」お方が、今も私どもの上にしっかりと手を置いて、「恐れるな、恐れるな」と、その御声を聴き取ることができるならば、私どもも死に勝つことができます。

最後にこう書いてありました。「勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない」。この「第二の死」という言葉の意味は、おそらく、大半の方は何となく理解できるだろうと思います。第一の死というのは、言うまでもなく肉体の死です。けれども、私どもがこの地上での生涯を終えた、さらにその向こうで、神の裁きの前に立つ。その時に、永遠の命に入るか、永遠の滅びに落とされるか。それが、「第二の死」ということの意味でしょう。〈究極的な死〉と言ってもよいかもしれません。けれどもそこで、私どもがよく承知しておくべきことがあると思います。主イエスが十字架の上で最後の叫びを上げられたとき。「わたしの神よ、わたしの神よ、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、天地を引き裂くほどの叫びを上げられたとき、そこで主イエスは、ただ肉体の死を苦しまれただけではないのであって、第二の死、究極的な死を味わっておられたのです。ところが神は、この御子イエスを死者の中から引き上げてくださいました。このお方を信じるときに、私どもは既に、第二の死に勝っているのです。

ですから、ある人はこういうことを言っています。第一の死、第二の死と単純に言うけれども、時間的な順番から言えば、むしろわれわれは、肉体の死を迎えるよりも前に、既に第二の死に直面している。第一の死、肉体の死の向こうに、実はもっと恐ろしい第二の死が待っていると、そう考えてしまうかもしれないけれども、むしろわれわれは、イエス・キリストというお方に直面したとき、どうしてもそこで第二の死に直面しないわけにはいかないのであります。今、死に打ち勝たれたお方を礼拝しながら、私どもも、死に勝つことができます。「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ」という勝利者イエスの言葉を、私の勝利を告げる約束として、聴き取ることができるのであります。お祈りをいたします。

主イエス・キリストの父なる御神、私どものために「一度死んだが、また生きて」くださった御子イエスの御声を、今私どもも聞いております。私どもの貧しさと、豊かさを告げる御子の言葉を、確かな慰めとして受け入れることができますように。主の御名によって祈り願います。アーメン