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最初の愛に帰ろう

2021年2月7日

川崎 公平
ヨハネの黙示録 第2章1-7節

主日礼拝

■1月から礼拝においてヨハネの黙示録を読み始めて、今日から第2章に入ります。ここから、七つの教会への手紙と呼ばれる部分が始まります。エフェソ、スミルナ、ペルガモンと、新共同訳の小見出しを追っていくと、その七つの教会の名前というか、その土地の名前を容易に確かめることができます。ヨハネは、ここで手紙を書いている。かつてこの教会で長く牧師をなさリ、その牧師生活の最後の年に、この場所でヨハネの黙示録を説教なさった加藤常昭先生が、あるところで、むしろヨハネ自身は、「黙示録」と呼ばれるよりも、「小アジアの信徒への手紙」と呼ばれることを望んだかもしれない、と書いておられます。そうかもしれません。ちょうど伝道者パウロが、テサロニケの信徒への手紙、ローマの信徒への手紙、というように、その土地、その土地に生きる教会を励ますためにたくさんの手紙を書いたように、ヨハネもここで、主イエスからお預かりした言葉を、「小アジアの七つの教会への手紙」という形で書き送っています。それがのちに、「聖書」などと呼ばれる書物の一部になって、小アジアどころか、東の果ての日本などという国の教会を慰める手紙として、今ここでも読まれている。まさか、そんなことになろうとは、ヨハネ自身はまったく想定していなかっただろうと思います。

しかし他方から言えば、「黙示録」という呼び名にも意味があると思います。「黙示」とは、もう少し平たく訳せば「啓示」ということです。「啓き、示す」、隠されているものをあらわにするというのが元来の意味ですが、もっと簡単に言えば「幻」ということです。神がヨハネのために、幻を見せてくださった。言うまでもないことですが、この場合の「幻」という言葉には、消極的な意味はまったくありません。たとえば、第2章1節の「右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方」というのだって、既に立派な幻でしょう。今生きておられるキリストの姿を、幻のうちに、このように見ている。肉眼では見ることのできないもの。神だけが見せてくださるものを、信仰の目によって見ることがなければ、立つことができない。戦うことができないのであります。「右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方」。このお方の幻を、きちんと見よう。このお方が、あなたのために、あなたの教会のために、何を言われるか、きちんと聞き取ろう。

この「右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方」という言葉については、既に第1章の最後の20節に、こう書いてありました。

「あなたは、わたしの右の手に七つの星と、七つの金の燭台とを見たが、それらの秘められた意味はこうだ。七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である」。

「七つの燭台は七つの教会」と言います。その燭台の間、つまり教会の間を歩いて巡回していてくださるキリストの姿を、ヨハネは、このように見せていただきました。七というのは象徴的な意味を持ちます。七つの教会、地上のすべての教会の間を、今も主イエスが歩いてくださり、今この鎌倉雪ノ下教会を訪ねてくださる。これこそが、私どもの見るべき現実です。

■ただそこで、もうひとつ注意深く読まなければならないのは、「右の手に七つの星を持つ方」とあります。その七つの星というのは、七つの教会の天使のことだと言われます。第2章1節を読んでも、「エフェソにある教会の天使にこう書き送れ」とあります。天使って、いったい何だ。もちろんエフェソの教会の信徒たちもこの手紙を読んだのでしょうけれども、その手紙を最初に受け取ったのは、実はエフェソの教会の天使である。ちなみに、この「エフェソにある教会の天使に」の「天使」というのは、原文では単数形、ひとりの天使です。エフェソ、スミルナ、ペルガモン、どの教会にも担当の天使がひとりずつついている。鎌倉雪ノ下教会の主任担任教師、担任教師などという言い方をします。そして時に教会は、主任牧師不在という苦しい時期を過ごさなければならないこともある。けれどもここでの話はそうではなくて、鎌倉雪ノ下教会の主任天使がきちんとひとりいる。鎌倉雪ノ下教会の主任担任教師が欠けることがあっても、主任担任天使が不在になることはないし、その天使を主がいつも右手に握っていてくださる。それはいったい、何を意味するのでしょうか。

私のような者がここですぐに思い出すのは、マタイによる福音書第18章10節において、既に主イエスご自身が、天使について語っておられることです。こう書いてあります。

「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」。

ここで主が「小さな者」と言われたのは、年齢が幼いとか身分が低いとかいうことではないのであって、「罪深い者」という意味です。その罪深さのゆえに、神の恵みの外に迷い出てしまっている者のことです。ですから主イエスは、それに続けてひとつの譬え話をなさいました。ある人の持っていた百匹の羊の中から、一匹が迷い出てしまった。けれどもその迷い出た一匹も、その人の所有であることには変わりはないのであって、この羊の持ち主は、最後まで責任をもって、この一匹の羊を見つけるまで探し続けるだろう。

「もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(13~14節)。

そういう文脈で、主は言われたのです。このいちばん小さな者、いちばん罪深い者にも担当の天使がついていて、このいちばん小さな者が、どんなところに迷い出たとしても、彼らの天使は、いつもまっすぐに「天の父の御顔を仰いでいる」。

ここでヨハネを通して語りかけられている七つの教会も、それぞれに迷い出てしまっておりました。しかしだからこそ、その教会の天使は、ますますまっすぐに天の父の御顔を見つめているし、その天使にまずこれらの言葉を書き送れ、というのです。

ヨハネが神から与えられた最初の幻は、キリストが右手に七つの星を持っておられる、というものでした。「右の手に七つの星を持つ方」。ここで「持つ」と訳されている言葉も興味深いものがあります。もともとは「力」という意味の言葉に、動詞の語尾をくっつけたような言葉で、ただ手の平の上に乗せているというよりも、ぐーっと握りしめている。誰が何を握りしめているのかというと、それぞれの教会の天使を、キリストが握りしめているというのです。私どもの教会がどんなに神の恵みから迷い出てしまうことがあったとしても、あるいは、この教会の主任牧師がどんなに深刻な罪を犯したとしても、鎌倉雪ノ下教会の主任天使は、昔も今も変わることなく、キリストの右の手にしっかりと握られている。

■その天使を通して、主はエフェソの教会に語りかけてくださいました。

「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった」(2~4節)。

「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っている」と言われます。あなたの行いと、労苦と、忍耐とを、わたしは全部知っているよ。全部見ていたよ。主イエスからそう語りかけていただいたエフェソの教会の人たちは、この手紙を読んだとき、涙を抑えることができなかったのではないかと思います。ついでに申しますと、この「わたしは知っている」という言い方は、七つの教会への手紙すべてに共通するもので、たとえば9節ではスミルナの教会のために、「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている」。13節ではペルガモンの教会に宛てて、「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある」。

私どもにも、よく分かるのです。どんなに苦労することがあったとしても、もう忍耐も限界だと思うようなときにも、いちばん信頼している人がしっかりと自分のそばに寄り添ってくれて、「わたしはあなたの苦労をよく知っているよ。あなたがどんなに忍耐しているか、わたしは全部知っているよ」。もしそう言ってくれる人がひとりでもいれば……いや、ここでは、「もしひとりでもいれば」なんて頼りない話ではないので、世界の支配者でいてくださるお方が、「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っている」と言われるのです。そのひと言がなければ、とうてい耐えられなかったのかもしれません。

労苦とか、忍耐とかいう言葉は、言うのは簡単なんです。むしろ、自分がそれほど労苦も忍耐もしていないところに立ちながらこの言葉を聞く分には、私どもは労苦とか忍耐とか、そういうかっこいい言葉が大好きなんです。けれども、実際に自分自身が本当に労苦しなければならない、これはもう、だめかもしれないと思うほどに忍耐を強いられると……3節には、「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった」とありましたが、私どもは実に簡単に疲れ果てると思います。主イエスは、やさしいお方です。私どもの労苦と忍耐が、深刻であればあるほど、主もますます同情してくださるに違いないのです。けれどもそこで、主が心配しておられることがある。私どもが労苦し、忍耐しなければならないという、まさにそのとき、私どもはいちばん罪深くなるのであります。

「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っている」。「あなたは、本当によくやった。よく忍耐して、疲れ果てることがなかった」。けれども、4節。「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった」。これは決して私どもにとって分かりにくいことではないと思うのです。「あなたは、本当によく忍耐したね。全部、わたしは見ていたよ。しかし、あなたは、最初の愛から落ちてはいないかね」。

■「初めのころの愛」と言います。それはいったい何でしょうか。ここでも新共同訳の翻訳には少し注文を付けたい。原文を直訳すると、「あなたの最初の愛」という言葉です。「あなたは、あなたの最初の愛を捨てた」と言われるのです。「根源的な愛」と言ってもよいと思います。わたしがなぜわたしであり得るのか。その根本のところを探ると、この〈最初の愛〉に行き着くのであります。けれどもあなたは、そこから落ちてしまった。それこそあの譬え話に出てくる一匹の羊のごとく、迷い出てしまった。道に迷ったときの最善の策は、来たとおりの道を戻ってみることです。どこからおかしな道に迷い込んだか、そこまで戻ってみることです。5節では、こうも言われます。「だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ」。この「初めのころの行い」というのも、「あなたの最初の行いをせよ」という文章です。あなたが最初に何をしたか、思い出してみなさい。思い出して、悔い改めて、元のところに戻ってみなさい。元のところ、そこにはやはり、愛があったのです。それ以外のものは、見つからないのであります。

さらに言われます。「もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう」。これはたいへんに厳しい発言です。燭台とは、最初に確認したように、教会のことです。その燭台を取りのけるというのは、もうあなたを教会とは認めないと、主イエスが言っておられることになる。ですから、この最初の愛とか最初の行いというのは、教会を教会たらしめる、その基礎となるものです。

ある人は、ここでヨハネによる福音書第21章の最後の記事を思い起こしています。お甦りになった主が、弟子のペトロに、お尋ねになりました。「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛しているか」。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。ところが主イエスは、同じ質問を、二度、三度と繰り返されたと言うのです。「あなたはわたしを愛しているか」。「あなたは、わたしを愛しているのか」。ヨハネによる福音書ははっきり書いています。なぜ三度も同じことを聞かれるのだろうか。ペトロは、悲しくなったと言います。しかし、それはそうだろうと思います。つい数日前に、三度主のことを知らないと言ったペトロです。何度答えても、信じてもらえなくても当然だとさえ、思ったかもしれません。自分の信仰というものが、どんなに不確かなものか、悲しいほどに思い知らされながら、それでも自分は、このお方を愛している。ペトロは、その自分の主イエスに対する愛を、遂に最後まで否定することができませんでした。もとよりそのペトロの主に対する愛は、主ご自身がペトロの内に作り出してくださったものでしかありません。教会の基礎は、ここに始まるのです。

けれども、ここではエフェソの教会に対して、あなたはその最初の愛を捨てたと言われます。愛を捨てながら、それでも見かけ上の教会生活は続くという、不思議なことが起こります。いったい、そんなことがあり得るのだろうかと思いますが、自らを省みて、そんなことはむしろ、いくらでも起こると言わなければならないでしょう。

ペトロなどは、むしろ忍耐しそこなった弟子の代表のようなものです。エフェソの教会に対しては、「あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている」などと評価されていますが、あのときのペトロに対しては、こんなほめ言葉も考えられなかっただろうと思います。けれども、そこで気づかされることがあると思います。あのペトロのために、むしろ主がどんなに忍耐してくださったかということです。私どもは、何度でも、その主のもとに帰ればよいのです。最初の愛に、帰るのであります。

主が今も確かな忍耐をもって、教会の間を経めぐり歩いてくださり、私どもがどんなところに迷い出ることがあったとしても、主イエスはいつも私どもの教会の天使をしっかりとつかんでいてくださる。そのような主イエス・キリストの幻を、今新しく見ることができれば、私どもも立つことができる。勝利を得ることができるのであります。祈ります。

主イエスよ、あなたは私どもの行いと、労苦と、忍耐を知っていてくださいます。私どもが人知れず流した涙をも、一滴残らず、あなたの革袋にたくわえてくださいます。その恵みの事実に触れながら、今私どもも、あなたに対する愛を新しくさせられます。主イエスよ、あなたを愛しています。どうか、その愛を捨てることがないように、あなたの教会を励ましてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン