あなたの本当の名
川崎 公平
ヨハネの黙示録 第3章1-6節
主日礼拝
■ヨハネの黙示録、第3章に入ります。サルディスという町にある教会に宛てて記された、キリストの手紙であります。その冒頭にこのような言葉がありました。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」。サルディスの教会は、このような言葉を、どのように聞いたでしょうか。今私どもは、どのようにこの言葉を聞くのでしょうか。
当時の教会の礼拝の姿を、このように想像することができると思います。黙示録を書いたヨハネという人は、第2章から第3章にかけて次々と名前が現れる、小アジアの7つの町の教会の霊的な指導者であったと言われます。そのヨハネの筆によって書かれたキリストの手紙が、ある日サルディスの教会に届けられる。昔のことですから、事前にいろいろ連絡をやり取りすることなんかできなかったでしょう。突然サルディスに使いの者が現れて、ヨハネ先生からの手紙を携えている。「わあ! ヨハネ先生から手紙が来た!」 ところがどうも事情があって、ヨハネ先生自身はサルディスに来ることができないらしい。パトモスという小さな島におられるらしい。いったい先生、どうなさったんだろう。懐かしいヨハネ先生のことをも案じながら、その先生を通して記された御言葉を受け取り、いつも以上に胸を高鳴らせて、おそらく主の日の礼拝において、この手紙を皆で読んだことだろうと思います。
そのときに、今日読んだ部分だけ、つまり、サルディスの教会に宛てて書かれた短い部分だけを読んだわけではないと思います。全22章にわたるこの黙示録を、1回の日曜日の礼拝で通して読んだか、それとも何回かに分けて読んだか。第2章の1節以下、エフェソの教会に対して語られた言葉も、一緒に聞いたでしょう。スミルナの教会、ペルガモンの教会、ティアティラの教会、それぞれの教会に対して、それぞれ全然違った言葉が語られる。さあ、いよいようちの番だ。そこでこのようなヨハネ先生の言葉というよりも、キリストご自身の言葉を聞くのです。「サルディスの教会よ、わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」。血の気が引いていくような思いで、礼拝を終えても、腰を上げることさえできなかった人もいたのではないか。私は、そう思うのです。
しかし、本当の問題は私どもです。「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」。いったい、今私どもは、このような言葉を、どのように聞くのでしょうか。どのように聞いているのでしょうか。
■「あなたが生きているとは名ばかりで」と言います。この言葉については、実は解釈が分かれるところがあります。「名ばかりで」と翻訳すると、生きているのはまったくの見せかけであって、本当はとっくに死んでいるんだ。まずそのように理解することができそうです。ところがそこである人びとは、「あなたは『生きている』という〈評判〉を得ている。〈名声〉を博している」というように理解します。原文を直訳すると、「あなたは、〈生きている〉という名を持っている」というのです。あなたは、名を持っている。〈生きている〉という名を。その「名」というのは、日本語でも「名が知られる」「有名になる」「名声を博する」というような表現があるように、人びとからそういう評価を得ている、と読むこともできるのです。実際のところ、サルディスの教会は、本当に生き生きとした姿を見せていたのかもしれません。それはたとえば、受洗者がたくさん生まれているとか、みんな熱心に献金しているとか、生き生きとした交わりがあるとか、具体的にはよくわかりませんが、それを周りの人びとが見て、あるいは他教会の人たちが見て、ああ、サルディスの教会はすばらしいなあ、命にあふれた教会だなあ。そのようにあなたの名が知られているのかもしれないが、それはまさしく名ばかりで、実はあなたは死んでいる。そう理解する人もいるのです。
けれども、この「名」というのは、それだけのことではないと思います。なぜかと言うと、5節にこう書いてあるからです。
勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す。
あなたがたの名は、神のみもとにある「命の書」に記されている。この場合の「彼の名」というのは、有名になる、などということとは何の関係もないだろうと思います。神がわたしの名を呼んでくださるのです。ただ呼ぶだけでなく、神のみもとにある命の書に、わたしの名をしっかりと記帳してくださる。そして御子キリストもまた父なる神の前で、「そうです、この人の名前が命の書に書いてあるのは間違いないことです」と、しっかりと証言してくださる。しかもその私どもの名前が、「生きている」という名だというのです。
〈あなたは生きている〉。それがあなたの名前だ、というのです。ここは少し、原文の響きを丁寧に紹介したいと思います。まず、「あなたは名を持っている」と言うのです。You have a name. そのあとに、英語で言えばthat節のような文章が続いて、「あなたは生きている」と書いてある。しかもギリシア語というのは便利というかコンパクトというか、〈ゼースzēis〉という、アルファベットで書いたらたった3文字の短い単語ひとつで、「あなたは生きている」という意味を持ちます。「あなたの名は〈ゼース〉」。〈あなたは、生きている〉! この短い名前、しかも実に重みのある名を、サルディスの教会の人たちは、いったいどんな思いで聞き取っただろうかと思うのです。
「あなたは、生きている」。「あなたは、生きるんだ」。それがあなたの本当の名だ、というのです。いったい神以外の誰が、このような名を人につけることができるでしょうか。主の日の礼拝というのは、そのような意味で神に名を呼ばれることです。「あなたは生きている。それがあなたの名だ」。私どももそれに答えて、神の前に立つのです。「そうです、わたしは生きております。なぜなら、わたしの名は、みもとにある命の書に記されているからです」。それが、私どもが今している礼拝のわざであります。
既に多くの方が思い起こしておられると思います。この教会で洗礼入会式をいたしますと、洗礼のあとに司式者が受洗者の頭に手を置いたまま祈りをします。その祈りの中で、「この人の名を、みもとにあるいのちの書に書き加えてくださいました」と言います。神さま、この人の名を、あなたが呼んでくださったのですね。あなたが、決してこの人の名を忘れないように、これをしっかりと命の書に書き留めてくださいましたね。ありがとうございます。
サルディスの教会の人たちもこのような言葉を聞きながら、自分が洗礼を受けた時のことを思い起こしていたかもしれません。あなたの名は〈ゼース〉。「あなたは生きている。あなたは、生きるんだ!」と、神から名を呼ばれた喜びを、深い感動のうちに思い起こしていたかもしれません。
■だからこそ3節では、「だから、どのように受け、また聞いたか思い起こして」と言うのです。「何を」受けたか、「何を」聞いたか、というのではありません。あなたはそれを「どのように受け、また聞いたか」、それを思い起こせ。「何を」受けたのかと言えば、たとえば先ほど使徒信条という短い言葉で、私どもの教会の信仰を言い表しました。私どもが何を受けたか、何を聞いたのか、要約すれば、たとえば使徒信条のような文章になります。それは大前提です。けれども大切なことは、それをどのように受けたか。どのように聞いたか。それを思い起こして、「それを守り抜き、かつ悔い改めよ」と言います。
既に先月の礼拝において、第2章1節以下のエフェソの教会に宛てて書かれた手紙を読みました。「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは最初の愛から落ちてしまった」と言われるのです。「最初の愛」、「根源的な愛」と言ってもよいのです。わたしが今、わたしとして生きている、その命の水源をさかのぼっていくと、必ずこの「最初の愛」に行き着くのであります。そして、わたしが「どのように受け、また聞いたか」、それを思い起こすならば、やはり同じように、「最初の愛」に行き着かないわけにはいかないのであります。
「どのように受け、また聞いたか思い起こして」。もしかしたら今既に、昔々、自分に福音を伝えてくれた、松尾牧師や加藤牧師、東野牧師の顔を、その声色まで懐かしく思い起こしておられる方だっているかもしれません。サルディスの教会の人たちも、ヨハネ先生から初めて福音を聞いたときの喜びを、驚きを、思い起こしていたかもしれません。けれども本当は、どこの誰の先生とかいう話はどうでもいいんで、「あなたは生きるんだ、わたしがあなたを生かすんだ」と、わたしの名を呼んでくださったのは、主イエス・キリストの父なる神。その神の愛に帰るのです。「どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ」と言います。悔い改めるというのは、まさに「帰る」ということです。そして、帰るべきところに帰らなければ、事実、私どもは死ぬのであります。
2節では、「目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ」と言います。1節では「実は死んでいる」と言いながら、「目を覚ませ」というのは、実際には死んでいないのであって、これはひとつのレトリックだと言う人もいるのです。「死にかけている残りの者たちを強めよ」という表現も、そのような推測を助けるかもしれません。けれども私はそうは思わない。死んだ人に、「目を覚ませ」と命令することができるのは……そんな人は世界にひとりもいない。けれども主イエスにはできます。「あなたは生きている」とわたしに呼びかけてくださるのはイエス・キリストただひとり、そして死んでいる者に「目を覚ましなさい」と声をかけることができるのも、主イエス・キリストただおひとりなのであります。この主のいのちの御声を聞くための、主の日の礼拝なのであります。
■死んだ者が目を覚まして、何をするのだろうか。というよりも、何をすることによって、死んだ者が生き返るのだろうか。ここでひとつ、たいへん具体的な内容を持つ命令が記されています。「死にかけている残りの者たちを強めよ」と言います。ここで多くの人が思い起こすのは、ルカによる福音書第22章31節以下です。福音書の受難物語の中でもとりわけ印象深いところかもしれません。主が十字架につけられる前の晩、突然食事の席で、弟子たちの裏切りを予告するという場面があります。ことに名指しではっきりと語りかけられたのは、一番弟子のペトロで、サタンがあなたを小麦のようにふるいにかけるのだ、と言われたのです。「しかし、ペトロよ、わたしはあなたのために祈った。あなたの信仰が無くならないように。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。黙示録において「死にかけている残りの者たちを強めよ」と言われているのと原文では同じ言葉が、ここでは「力づけてやりなさい」と訳されています。
ペトロよ、あなたは今夜死ぬ。「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」。そのことによって、事実ペトロは、霊的な意味では一度死んだと思います。最初の愛から、落ちたからです。自分の名を呼んでくださった方の名を否定するとき、それは同時に、自分自身の命を否定することにしかならないのです。けれども、主イエスがペトロのために祈ってくださったから、ペトロの信仰が無くならないように、主が祈ってくださったから、ペトロは立ち直ることができました。
そのペトロに最初から与えられていた使命がありました。「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。「死にかけている残りの者たちを強めよ」。多くのことをこれ以上語る必要もないだろうと思います。ペトロもまた、そのようなわざに生きる者とされました。一度死んだ自分を甦らせてくださったお方のことを、語り続けることができました。まさにそのことによって、ペトロは自分の命をもう二度と殺すことなく、かえって生き生きと生かすことができるようになりました。そのようなペトロと共に、いつも主が伴い歩んでくださったことは明らかだと思います。4節以下に、こう書いてあります。
しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは、白い衣を着てわたしと共に歩くであろう。そうするにふさわしい者たちだからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる(4、5節)。
「白い衣」と言います。白というのは言うまでもなく、主イエスのお甦りの命の輝きを表すものでしょう。ところがここでは、私どもも同じように命の輝きを身にまとい、「白い衣を着て、主と共に歩く」と言われています。その輝きは、自分で自分を輝かすことなんかできっこないので、「あなたは、生きている」と神に呼ばれた者の輝きでしかありません。
「あなたは、生きている」。そのあなたの本当の名を裏切るようなことをするな。今日、主のみ声を聞いたなら……「あなたは、生きるのだ」との主のみ声を、今聞いているなら、私どもも既に白い衣を着て主と共に歩み始めているのです。お祈りをいたします。
主イエスよ、あなたは私どもの行いを知っておられます。わたしは〈生きている〉という名をいただいているのに、その名を軽んじ、実は死んでいることを、私ども自身が知っている以上に、あなたはよく知っておられます。だからこそ、今私どもに語りかけてくださいます。あなたの愛によって生きる者、生かされる者としてください。そこから落ちているならば、最初の愛に帰らせてください。共に生きる人びとのためにも、私どもの存在が、言葉が、慰めを持ち運ぶ器となることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン