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憐れみの法廷

2021年2月14日

嶋貫 佐地子
ヨハネによる福音書 第7章53節-第8章11節

主日礼拝

「赦される」という経験は、私どもにとっては、かけがえのないものであると思います。これまで生きて来て、自分は赦された、という経験を、私どもは幾度してきたことでしょうか。

それは痛みをもって思い起こすことができますし、その時に改めて、赦してくれた人がどれほどの犠牲を払って、自分を赦してくれたのかということを、思うと、それを今は忘れて生きている自分には、そのことを忘れないようにと、言いたいものです。そしてそれは現実には、神に赦されたのだということを、真剣に思い起こしたいのです。

今日の物語は、そういった大事なことを私どもに思い起こさせてくれる、そしていつもここに帰りたい、私どもの物語です。

一人の女性が、主イエスのもとに連れてこられました。姦淫の罪で逮捕されてきたのです。場所はエルサレムの神殿の境内で、そこには、たくさんの人たちがひと塊となって集まっていました。自分がそこに行くと、その輪の一端がほどけて、目の前が開かれ、急に全貌が見えました。するとその中心に、主イエスが座っておられて、人々に教えておられるのがわかりました。そしてその人々の視線が、急にこちらに集まりました。気がつくと自分は、両腕を捕まれていて、真ん中に突き出されていました。
「この人は、罪を犯しました。」そんな声が聞こえました。

真ん中に立たされるというのは、当時の訴訟のやり方だそうです。そんな中に、いつの間にか自分は立たされていて、そこは一気に、自分を囲む法廷となったのです。

そして訴える人たちが、主イエスに言いました。
「この人は罪を犯しました。」
あなたはこの人をどうしますか。律法どおり石で打ち殺してもいいですか?それとも、それはやめろと言って、律法に背きますか?

 

実際は、一人の女性の話です。でもこの人がここに連れてこられた時も、告発者たちは同じように言いました。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」(8:4-5)
あなたはこの人を石で打ち殺せと言いますか?それとも、やめろと言いますか?

彼らは主イエスを試して聞いたのです。あなたはどうお考えになりますか?

姦淫というのは重い罪でした。律法では、石で打ち殺せとはっきりと言われています。神の民の中から悪は取り除かれなくてはならなかったからです。石打ちというのはたくさんの人で囲んで、一斉に石を投げるのです。一斉に石が飛んで来るのですから、体はかばいようがないのです。それで命を落とすのです。すなわち死刑です。それは女性だけでなく、男性も同じことでした。でもここに連れてこられたのは女性だけでした。こういう神殿にいるのは男性だけでしたから、この女性はその真ん中に立たされて、視線を一気に浴びたのです。

ところが、告発者たちの目的はほかにありました。彼らは「イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである」(8:6)と言われています。告発者たちは、主イエスを訴えたかったから、何とかして口実をみつけたくて、この人を連れてきたのです。それで聞いたのです。「あなたはどうお考えになりますか。」でもこれは罠でした。

もしも主イエスが、それならこの人を石で打ち殺せ、とお答えになったら、柔和な主イエスの評判は地に落ちて、ここにいる人々もがっかりして。そうすれば主イエスを捕まえたい人たちも、人々の反感を買わずに主を捕まえることができます。また反対に、主がこの人を石で打ち殺してはいけないと言われたら、それは律法に違反し、律法違反者として、すぐに突き出すことができます。どちらにしても彼らは、主イエスを公に訴えることができる。これはそういう質問でした。

そうやって、主イエスこそ、この法廷の真ん中におかれたのです。彼らは主イエスを裁きたかったのです。すでに罪を晒され、失笑されて、憎しみで殺されかかっているこの女性と一緒に、であります。おまえなんかいなくなればいい、殺されたって当然だと思われている、この女性と一緒に、であります。

この女性はその主イエスの前に立っておりました。何を考えていたかはわかりません。

ただ、「この人は罪を犯しました。」そう言われたら、そのとおりでした。罪に定められることは当然でした。ただあまりに大きなことが起こったので、魂はどこかに行って、自分のことではないようであったかもしれません。でも彼らの質問で、自分の目の前の方に注目が集まり、女性は取り残されたようになりました。人々の視線がこのお方に移ったことで、返って自分にフォーカスし、カメラでピントを絞ると向こうがやけに遠退くように、自分ひとりになって残されたようでした。

そもそも、罪の自覚というのはどこから来るのでしょう。あなたは罪人だと言われても、よくわからないというのが人間なのです。この女性が特別にそういうことに敏感だったわけでもないでしょう。それだったら、こんな大それたこともしなかったでしょう。人は時々、魔が差すというか、自分でも驚くようなことをしでかしますが、でもそういう一つ一つのことでもないのでしょう。神様の前でどう生きているか、そういう根本的なことが、いま、律法によって明らかにされたのです。
でもそういうことを考えますと、だれかをおとしめたり、裁いてしまうのも同じことでした。

心のどこかで、いつもだれかを裁いている。そんなことは、よくやってしまうのです。間違っている人を見つけると、駄目だと言いたくなるのです。女性を連れてきた人たちもそうでしたし、ここにいた人たちもそうでしたでしょうけれども、罪人を見つけたら、気持ちよく裁きたくなるのです。ここにいた人々はさっきまで主イエスの教えを聴いておりました。そのお言葉に耳を傾けておりましたのに、一瞬にして捕らえられてしまうのは、自分の正義感、自分の律法。神様のことは見えなくなってしまうのです。

でもそういうとき、神様は黙っていらっしゃる。

主は彼らの質問に、お答えになりませんでした。そしてかがみ込み、指で地面に何かを書き始められました。

主が、このときに指で何を書かれていたのかはわかりません。旧約聖書の厳しい御言葉であったかもしれないし、律法を指で書かれていたのかもしれないとも言われます。けれども、宗教改革者のルターという人がこういうことを言いました。そうやって神が黙っておられるというのは、その者たちを頑ななままにさせるという、恐ろしいことなのだ。その警告を、主はここでなさっていたのかもしれません。
でもその主の態度は、彼らには自分たちへの拒否だとすぐにわかりました。それでなおさら、彼らは主にしつこく迫り、しかしあまりに言うので、憐れみ深い神は、むしろ彼らに顔を向けられました。

主は、身を起こして、言われました。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(8:7)

そしてまた身をかがめられました。

時が経ちました。
すると年長者から始まり、一人また一人とそこを去り、そして誰もいなくなりました。

主イエスが、一石を深く投じられたので、その波紋が、真ん中からゆっくり広がって行き、そこにいた者たちの心に沁みて行き、また満たしてゆき、一人、またひとりといなくなり、みんないなくなりました。女を連れてきた人たちも、いなくなりました。
罪というのは、こうやって神と向き合わないとわからないのです。

そして残されたのは、主イエスと女性のふたりだけでした。

すると主は身を起こして言われました。
「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」(8:10)
女は言いました。
「主よ、だれも。」
すると主は言われました。
「わたしもあなたを罪に定めない。」(8:11)

あなたは無罪。

罪の全くないお方だけが、ほんとうに審くことがおできになるのです。そしてこの女性は、ちゃんと主に審かれて判決を受けました。わたしもあなたを罪に定めない。

でもそれは、あなたが何をしてもいいというのではありませんでした。何をしても赦されるというのではありませんでした。
主は言われました。
「これからは」
「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(8:11)

 

罪の自覚はどこから来るのでしょう。
暴かれるのと、赦されるのと、どちらで知るのでしょう。

主よ、だれも。

自分の罪は、この方とふたりになって初めてわかるのです。
この方に赦されて、初めてわかるのです。

今日の初めに、主がオリーブ山に行かれていたということが言われていました。オリーブ山は、主イエスの祈りの場所で、エルサレムにおいでの時は、主は毎日のように父に祈りに行かれたと思われます。
そしてこの日も、このあと、またたくさんの出来事が起こりますが、主はオリーブ山においでになって、そして父なる神様に祈られたと思うのです。今日のこの女性のことも、主はとりなし、祈ってくださったのではないかと思うのです。
このオリーブ山というのは、ゲツセマネの園があるところです。ゲツセマネの祈り。
そこでの祈りを思い起こします。

 

罪に定められたのは、この方であった。

見よ、十字架。
とりなしをした、この人は有罪。

 

その方が、今も、私どものためにとりなし、祈っていてくださっています。

「これからは、もう罪を犯してはならない。」

 

 

父なる神様
真実の裁判官であり弁護者である御子を、私どもにお与えくださり感謝をいたします。そのあなたの憐れみに、生きてゆくことができますように。
主の御名によって祈り願います。アーメン

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