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響き渡る神の言葉

2020年8月2日

テサロニケの信徒への手紙 一 第1章1-10節
川崎 公平

主日礼拝


■今日からしばらく、伝道者パウロの書きましたテサロニケの信徒への手紙Ⅰを礼拝の中で読んでいきたいと思います。テサロニケというギリシアの大きな町に、生まれたばかりの小さな教会の集まりがあった。この手紙を書いたパウロが、仲間たちと共に一所懸命伝道して、生まれた教会であります。

パウロたちが初めてテサロニケの町を訪ねたときの様子は、使徒言行録第17章の最初のところに伝えられています。聖書を開いてくださってもよいと思いますが、新約聖書の247頁です。そこに、新共同訳聖書はわざわざ「テサロニケでの騒動」という小見出しを付けてくれています。騒動と呼ばなければならないような出来事が起こった。使徒言行録第17章の1節に、「パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた」とありますが、ここに出てくるシラスというパウロの同伴者が、テサロニケの信徒への手紙Ⅰの最初に出てくる「シルワノ」のことで、「シラス」という名前ををラテン語風の綴りに直すとシルワノ、正確にはシルウァーヌスになるそうです。このふたりがテサロニケの町でイエス・キリストの福音を語ったところ、多くの人が信仰に導かれたけれども、同時にそれはユダヤ人のねたみを呼び起こすことになり、遂にパウロとシラスは夜逃げをしなければならなくなります。

しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した。しかし、二人が見つからなかったので、ヤソンと数人の兄弟を町の当局者たちのところへ引き立てて行って、大声で言った。「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています」(使徒言行録第17章5~7節)。

ヤソンという教会員の名前が記録に残っているということも、興味深いものがあります。パウロたちにとって、忘れることのできない名前であったに違いない。そのヤソンだって、怖かっただろうと思います。町のチンピラみたいな人たちが突然家に殴り込んできて、「パウロたちはどこだ? お前がかくまっているのは分かっているんだぞ! あいつらはどこだ! 吐け!」 それで、ヤソンとその仲間は町中のさらし者のようになって、けれども彼らはパウロたちを守るために、最後まで口を割りませんでした。そしてその夜のうちに、パウロたちを隣町に逃がしてやりましたが、テサロニケのユダヤ人たちは、何とその隣町まで追いかけてきて、騒ぎを起こしたと書いてあります。パウロもたいへんだったと思いますが、そんな町で歩みを始めなければならなかったテサロニケの教会の方が、ずっとたいへんだったかもしれません。

■そのような教会のために書かれた、パウロの手紙です。伝道者パウロの、テサロニケ教会にかける並々ならぬ思いを、どの言葉からも読み取ることができると思います。第2章の7節以下には、こういう言葉があります。

ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです(第2章7b~8節)。

こういう手紙を書くことのできたパウロという人は、本当に幸せだったと思いますし、このような手紙を受け取ったテサロニケの教会もまた、たいへん祝福されていたと言わなければなりません。「自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです」とパウロは書きましたが、テサロニケの教会の人たちだって、パウロのために「自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほど」の愛に生かされていたのです。それを、今日読みました第1章3節では、「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」と言っているのです。パウロは、このような教会のことを、どうしても忘れることができない思いの中で、第1章2節では、「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています」と、そう言うのです。
この手紙の中で、いちばん有名な言葉は、何と言っても第5章16節以下だと思います。皆さんの多くが、この言葉を暗誦し、また愛誦しておられると思います。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

この言葉だけ取り出しても、十分にその恵みを味わうことができるだろうと思いますが、しかしこの言葉の本当の力というものは、これがもともと〈手紙〉の言葉であったという、その事実の中にあると言わなければならないと思います。つまりこれはただの格言ではないのであって、パウロというひとりの伝道者が、テサロニケの生まれたばかりの教会に、「ちょうど母親がその子供を大事に育てるように」、ひとりひとりに語りかけるように手紙を書いた、そういう言葉であったのです。

私も今、ひとりの伝道者として、言ってみれば伝道者パウロの後輩としてここに立ち、心を込めて皆さんに告げたいと思います。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」。心からの愛を込めて、パウロはこのような言葉を書いたと思います。そして繰り返しますが、こういう言葉を確信をもって読むことのできたテサロニケの教会は、本当に祝福されていたと思います。その祝福を、私どもも今ここで、改めて学び直したいと願っているのです。

■この手紙についてひとつ興味深いことは、これがパウロの手紙の中で最初に書かれたものである、ということです。しかも、新約聖書の中でもいちばん古い文書である。それだけでも、この手紙はたいへん貴重な意味を持っていると言えると思います。パウロの最初の手紙であるということで、多くの聖書学者が指摘することは、この手紙には、たとえば信仰義認とか、いわゆるパウロ神学の典型的な内容が出てこない、などと言われます。キリストの十字架と復活の意味とか、「教会とは何か。教会とは、キリストの体である」とか、われわれがパウロの手紙というものから予想しがちな神学的な色彩は非常に薄いと、そういう評価をされることがあります。そういう面もあるかもしれません。けれどもそれは、この手紙の内容が薄いということにはなりません。
ある説教者は、むしろこういうことを言っています。「新約聖書中最古の文書であるこの手紙には、教会とは何か、その最もうぶな姿が、うぶぎにくるまれたままのような姿が描かれている」。その上で、こうも言います。「今日私どもの教会は、教会としてどのように生きるべきかを真剣に問われております。その時、私どもの教会の原点に帰る、初心に戻るということは、私どもの新しい歩みを整える上において、たいへん大切なことであるのではないか」。
そういう先輩の説教者の言葉にも励まされて、私自身、「教会の原点に帰る、初心に戻る」、そういう作業を、もう一度ここでしたいと思いました。私が鎌倉雪ノ下教会の牧師になって、10年がたちました。少なくとも数字の上では、ひとつの山を越えたのかな、などというようなことを、半年くらい前まではのんきに考えておりましたが、その後、教会は思いもかけない歩みを強いられることになりました。そこでも私が、というよりも私どもが皆それぞれに改めて問い直したことは、「教会とは何か」ということであったと思うのです。今、もう一度原点に帰り、初心に戻って、私自身、ひとりの伝道者として、このパウロの言葉を自分の言葉にしてみたいと、そう思わされました。たとえば、第1章1節にこういう言葉がありました。私もパウロと同じように、こういうふうに教会に語りかけることができたら、どんなに幸いだろうか。

川﨑公平・恵から、また嶋貫佐地子、中村慎太から、父である神と主イエス・キリストとに結ばれている鎌倉雪ノ下教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。

そう言って、この手紙は何と言うかというと、2節。

わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。

パウロと私自身のことを、このように重ね合わせるというのは、おかしなことかもしれません。おこがましいことかもしれません。たとえば、私はパウロのように、鎌倉から遠く離れているわけではありません。けれども今日も、この礼拝堂に自由に集まることができない人たちが大多数であることを考えるだけでも、このパウロの言葉は、他人事でないような気がしてならないのです。
「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして」……そのときに、どういう思いが呼び起こされるのだろうか。パウロがここで明確に言うことは、「わたしは、神に感謝しています」ということです。新共同訳では、2節の最後に「感謝しています」とありますが、原文ではむしろ最初に「感謝しています」と書いてあります。その前の1節は挨拶ですから、この手紙の本文の最初の言葉は、「わたしたちは感謝しています! 神に、いつも、あなたがた一同のことを」。私も今、自分の言葉で、そう語ることができると思っています。

■ここでパウロが見つめている素朴な事実は、教会は神のものだ、ということです。テサロニケという大きな町に、小さな教会が生まれた。嵐の中の小舟のごとく、いつ沈むか分からないような一握りの人たちを、しかし、神が生かしてくださっている。教会は、神のものなのだ。だからパウロはまず、「神に感謝します」と書かずにおれませんでした。4節でも、「神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています」と言います。あなたがたを選んでくださったのは神だ。あなたが神を選んだのではない。神があなたがたを選び、捕らえてくださり、今もこの教会を生かしてくださる。そういう素朴と言えばたいへん素朴な教会の現実を、まさに神の現実として見つめるまなざしを、この手紙を通して与えられたいと願っているのです。
聖書の言葉を行ったり来たりするようで恐縮ですが、パウロが最初の挨拶のところで、「父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ」と言ったとき、まさにそこにも感謝の思いを込めただろうと思います。テサロニケの教会は、父なる神と、そして御子キリストに結ばれている。その結びつきというのは、神が、神の方から手を差し伸べてくださった結びつきであって、その事実に対して、感謝以外の気持ちはあり得ない。
ところで、少しややこしい話をするようですが、この「結ばれている」という翻訳には、批判がないわけではありません。直訳すれば、「父なる神と、主イエス・キリストの中で」。英語で言えば「in」にあたる前置詞が使われています。新共同訳聖書は、この「in Christ」にあたる表現をほとんどすべて「キリストに結ばれて」と訳しましたが、それはちょっと訳し過ぎだろうということで、聖書協会共同訳という新しい翻訳では、これが修正されました。なぜこんなややこしい話をするかというと、先に紹介した第5章16節以下にも、同じ「キリストの中で」という表現が出てくるからです。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて(キリスト・イエスの中で)、神があなたがたに望んでおられることです。

あなたがたテサロニケの教会は、キリストの中にいる。決してキリストの外になんかいない。そのような者として、神があなたがたを選んでくださったのだ。だから、そのキリストの中で、あるいはキリストに結ばれて、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」。当然そうすることができるはずだ。あなたがたは、キリストの中にいるんだから。

■パウロは、このような福音の説教を、テサロニケの人たちにも繰り返し語りました。そのときのことを振り返りながら、5節では、「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです」と言います。ここも原文を読むと興味深い表現で、「わたしたちの福音が、あなたがたの中で起こった」。そう言うのです。「福音が伝えられた」というよりも、「福音が、起こった」。起こった、というのはつまり、福音が、あなたがたの間で出来事となった。ここではもう、主語はパウロでも誰でもない、福音が、出来事を起こした。そのことにいちばん驚いたのは、パウロ自身ではなかったかと思います。
これに呼応するように8節では、「主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく」云々、と言うのです。これもたいへん力強い言葉です。〈主の言葉が〉響き渡った。〈わたしが〉伝道したとか、〈わたしが〉苦労したとか、そんな話ではなくて、ここでも主語は「主の言葉、神の言葉」です。主の言葉が、響き渡った。まさにそのように、福音が出来事となった。そのことにいちばん驚いたのは、パウロ自身ではなかったかと先ほども申しましたが、パウロはどこででも困難な伝道をしました。現にテサロニケでも、パウロたちは夜逃げをしなければならないところにまで追い詰められたのです。どんなにキリストの恵みを語ってみても、何も響かない苦しさというのは、しかし私も含め、すべてのキリスト者が知っていることだと思います。けれども、そのような経験の中で、「わたしたちの福音が、あなたがたの中で起こった」。テサロニケの教会は、主の言葉の見事な共鳴体となった、と書くのです。パウロは、そこに神の現実を見るのです。
神のみ言葉の奇跡に驚き、感謝する思いを込めて、パウロはこの手紙を書きました。神の言葉が、働いたのだ。あなたがたは、そのみ言葉の響きの共鳴体にさせていただいたのだ。私どもが、今思いをひとつにして願うことは、この鎌倉雪ノ下教会もまた、主の言葉を豊かに響かせる器とさせていただきたいということであります。
旧約聖書のイザヤ書第55章10節以下に、こういう言葉があります。

雨も雪も、ひとたび天から降れば
むなしく天に戻ることはない。
それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
種蒔く人には種を与え
食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ
わたしが与えた使命を必ず果たす。

私どもの教会の歩みも、楽観できることばかりではありません。だからこそ、私どもの頼るべきものは、主のみ言葉以外にないことを、心に刻み直したいと願います。「主の言葉が、むなしく天に戻ることはない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」。寄る辺ない教会に与えられた確かな約束を、今共に聴き取りたいと願います。祈ります。

主よ、ご覧ください。ここにも、あなたの教会が生きています。あなたが愛し、選び、生かしてくださっている、あなたの教会です。不安を数え始めたら、きりがありません。けれども、なお私どもは、御子キリストの恵みの中におります。今立つべきところに立ち、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する歩みをみ前にささげるものとさせてください。そのためにあなたのみ言葉を聞き、またこれを私どもの存在をもって共鳴させる存在として、この教会を、あなたが生かし抜いてくださいますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン