1. HOME
  2. 礼拝説教
  3. わたしが命のパンである

わたしが命のパンである

2020年5月24日

ヨハネによる福音書 第6章22-40節
嶋貫 佐地子

主日礼拝


今日は、ほんとうは子どもの日・花の日として、教会学校の人たちはこの礼拝堂で礼拝をして、それからいろいろなところにお花を届けに行く日でした。でもそれはかないませんでしたが、今日は、大人のみなさまと教会学校のみなさんとみんなでいっしょに、聖書のことばをお聴きしたいと思いました。

今日、イエスさまはわたくしたちにこう言われました。

「わたしが命のパンである。」(6:35)
「わたしを食べなさい」。

イエスさまがそのようにして今、わたくしたちにご自分を差し出してくださっています。

先週の日曜日、教会学校のみなさんに宮崎県の教会の牧師さんがお話をしてくださいました。いま、たくさんの教会の牧師さんが子どもたちのために説教を送って来てくださっていますが、そのひとつです。今でも雪ノ下教会のホームページに行きますと「教会学校のブログ」というものがあり、そこを開きますと、いつでもその説教を聴くことができますので、観ておられない方はぜひ観ていただきたいと思うのです。いまは、少しそのお話の紹介をします。

都城城南教会の岩住啓太先生が語られた、旧約聖書の出エジプト記第16章のお話です。このようなお話でした。
「もし、みんなが無人島に行ったら…
みんなは何をもっていくかな?
ゲームとか布団とか、いろいろ持って行きたいけれど、でも一つだけしか持って行かれないとしたら、たぶん食べ物をもって行くんじゃないかな?
だってわたしたちは、食べないと生きていかれませんから。

昔のイスラエルの人たちも無人島のような何もない「荒れ野」というところを旅したとき、お腹がペコペコになりました。人はなんにも食べないと元気が出ません。でもイスラエルの人たちは、おなかもペコペコでしたが、心が元気じゃなくなってしまいました。なぜなら、神様を信じられなくなってしまったからです。」

彼らは思いました。神様がエジプトでの閉じこもった生活から自分たちを出してくださったのはいいけれど、今度は食べられないじゃないか。このままだと死んでしまう。もしかしたら神様は、自分たちを見捨ててしまわれたのではないだろうか。そう思ったら彼らは悲しくなり、そして心が元気じゃなくなりました。

でも神様が、そんなイスラエルの人たちに天からパンをふらせてくださいました。天からその日その日に食べられるパンがふってきたのです。イスラエルの人たちはそれを食べて元気になりました。でも神様が、自分たちのことをお見捨てにならないとわかって、心が元気になったのです。
そこで、その牧師さんは言いました。
「わたしたちには、天から、イエスさまが降りて来てくださいました」。

そういう説教でした。それを聴きましたのが先週で、
そうしましたら今日は、イエスさまがほんとうに、わたくしたちに言ってくださいました。
「わたしが命のパンである。」
わたしが「天から降って来た」(6:33,38)天からの命のパンである。
だから、「食べなさい」。

神さまが天から、わたくしたちにイエスさまを与えてくださったのですね。でも食べるっていうのはどういうことでしょうか?するとイエスさまがちゃんと教えてくださいました。

「食べるとは、わたしのところに来て、わたしを信じることだ。」(6:29,35,37)

食べるというのは、イエスさまを信じることなのですね。

このあいだ雪ノ下教会のみなさまにアンケートをしました。教会が、みなさまにお聞きしました。大丈夫ですか?説教を聴くことができていますか?それとも聴くことができていませんか?みなさまからのお返事がたくさん届きました。いいことがいっぱい書いてありました。そのお返事の中で「このように教会で礼拝ができなくなってとても寂しいです」と、たくさんの方が言われていました。そして同じの方々が、「でもイエスさまのお話を聴くと、こんなにも自分が元気になることが、前よりもずっとよくわかりました」と言われていました。前よりもイエスさまのお言葉がもっとよくわかるようになりました。

もしかしたらそういうこと思ってもお書きにならなかったみなさまも、そうだと思いますし、また教会学校のみなさんもきっとそうだと思います。いまは教会には行かれなくて、日曜日もおうちにいなくてはなりません。いろいろ楽しいことは見つけられますが、でもそれは自分にどうしても必要かというかというと、そんなでもないかもしれません。いろいろやってみて、さっきは楽しかったなと思うけれども、でも終わるとなんだか、やっぱり足りないなと思う。そういうものでは、ほんとうには元気になれなくて、そうではなくて、ほんとうに自分が元気になれるのは、イエスさまだと思うのです。わたくしたちが生きるのに、なくてはならないのはイエスさまだと思うのです。
イエスさまのお話を聴いて元気になる。イエスさまの命で生かされる。元気になるのは信じているからです。わたくしたちはみんな、そうしてイエスさまを信じています。

イエスさまが言われた
「食べる」というのは、わたしの命をあなたがたはごくっと飲んで、からだの中に入れていきなさいということです。信じるってそういうことではないかと思います。じんわり温かくイエスさまの命が自分の命になってゆくことです。

そうやってイエスさまは、ご自分の命をくださいましたが、
その命は人間にはない命でした。神さまの命だったのです。

イエスさまは「永遠の命」と言われました。

わたしは永遠の命を与えるために来た。(6:38-40,51)

永遠の命は、神さまの命です。

わたくしたちはイエスさまを信じて洗礼を受けると、神さまの命に入ります。するとその人は、いつも神さまと生きるようになります。ずっと神さまと生きるようになります。大変なことがあっても、かなしいことがあっても神さまと生きるようになります。そして心がいっぱいになり、神さまと生きると元気になります。それは生きている時もそうですし、死んでしまってからもそうです。その人は死んでしまってからも神さまとずっと一緒に生きてゆきます。

教会の中でも、たくさんの愛する人が神さまのところに行きましたが、でもみんな今も神さまのところで生きています。わたくしたちはその人に会えなくなりましたが、でもその人たちは神さまのところで眠っていて、命がなくなったのではなくて、神さまの命に入れてもらって、ずっと神さまといっしょに生きています。

そしていつか、イエスさまがその人を復活させてくださると、イエスさまが約束してくださいました。

イエスさまは、わたくしたちにはなかったその命を天から与えに来てくださったのですね。

だからイエスさまは言われました。わたしを食べなさい。
わたしを食べる人、その人は生きる。その人は死なない。
その人はずっと神といっしょに生きるんだ。

今度、洗礼を受ける方たちがいます。その方たちは、これからは聖餐を受けられるようになります。パンとぶどう液を受けることができます。聖餐を受けるときにわたくしたちはいつも、イエスさまのこのお言葉の意味がとてもよくわかります。
「わたしを食べなさい」。

「わたしが命のパンである」。
あなたは、わたしの命で生きるのだ。

お祈りをいたします。

天の父なる神さま
神さまからのパン、イエスさまは、わたくしたちと今いっしょにいてくださって「わたしを食べなさい」と言ってくださいました。どうか「ありがとうございます」と言って、イエスさまを受け取ることができますように。
この祈りをイエスさまのお名前によっておささげいたします。

アーメン