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臨場

2020年4月19日

出エジプト記第3章4-14節
ヨハネによる福音書第6章16-21節
嶋貫 佐地子

主日礼拝


上野先生がなさっていたヨハネによる福音書を続けることにいたしました。

今日は、主イエスが湖の上を歩かれるという出来事を読みました。湖の上を、主が歩いて、こちらに近づいて来られるという出来事です。昨日も、天候が荒れて強い風が吹きましたが、この出来事はあのような強風の中、しかも暗闇の中でした。

私どもは、主が湖の上を歩かれるというような出来事を奇跡と言いますが、ヨハネによる福音書はそれを「しるし」と呼びます。ひらがなで「しるし」です。他にも、カナの婚礼の席で、主が水をぶどう酒に変えられたことや、この前の5千人の人たちに主が食べ物を与えられたことも「しるし」と呼ばれます。では、その「しるし」とは何か。しるしとは、目に見える証拠です。なんの証拠かと申しますと、このお方はどなたか、ということであります。

主イエスはどなたであるか。
このお方は、神の独り子であります。神と一つであられる方です。そして私どものあいだに宿り、まことの人となってくださった、まことの神です。しるしというのは、そのことが目に見えてしまうことです。「あぁこの方は神の御子だ」ということが、はっきりと見えてしまうことです。

ある学者がおもしろいことを言っておりました。「主イエスのなさるわざのすべては、窓のようなものだ」。それは「永遠を透視する窓」。

主イエスがなさることは窓だというのです。それも「永遠を透視する窓」。永遠とは神様のことですから、主イエスが何かをなさると、その窓から神様が透けて見えるというのです。おもしろいなーと思いました。窓は透明なガラス張りですから、主イエスが何かをなさると、その向こう側の神が透けて見える。
もし、そのたとえを今日用いるならば、しるしというのはもっと、その窓が一瞬開く、ということかもしれません。…もっと神が見える。

イメージしてみますと、湖の上を主が歩いて来られる。するとそこに「永遠を透視する窓」が現れて、そしてほんの一瞬その窓が開く。すると、向こう側から閃光がさす。神の栄光が強烈に差し込む。するとこのお方がどなたであるかがわかる。しるしを見て、このお方は神の御子だとわかる。私どもはそうやって、この福音書を読むことができます。

けれどもそのしるしを初めに見た多くの人たちは、それがなんのことかわかりませんでした。ただ奇跡的なことを見て、すごいことが起こったとしかわかりませんでした。なぜなら、このお方がほんとうに神の御子だということは、このお方をほんとうに知るには、十字架と復活を待たなくてはならなかったからです。
それでも、そのことを見た人たちがあとで、これらの出来事を思い起こしたとき、あの一瞬の神の世界の垣間見を、忘れることができませんでした。あのときも、神の現れが、はっきり見えたではないか。そうしてこれらの出来事が「しるし」として、福音書に書かれることになりました。

あらためてヨハネ福音書を読み、私は何を思ったかと申しますと、主イエスの孤立でした。この方は神の御子でありながら、しかし世はこの方を理解しなかった。それは第一章で言われていたとおりです。

光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(ヨハネ1:5)

けれどもそのうちから、主を受け入れる人たちが出てまいりました。主を信じる人たちが出てまいりました。ヨハネ福音書では、そのように主を信じる者たちが一人も滅びないで永遠の命を得るように、その者たちを愛して止まない神と、御子のお姿があり、そして今日も、その光が差し込むようなのです。

そして今日も、
私どものこの礼拝においても、すでに臨んでおられる主イエスのこのお言葉(6:20)を、私どもは聴くことになりました。

「わたしだ。恐れることはない。」

ヨハネによる福音書は第6章に入りまして、前回は5千人の人たちに主がパンと魚とをお与えになったという出来事でした。その場所は湖の近くにあり、青草の生える地であって、そしてまだ日も明るいころでした。

でもそこから夕方になり、湖畔もうす寒くなり、心細くなるような時間帯に、なぜか弟子たちだけが湖に下りてゆき、舟で向こう岸に渡ることになりました。でもそこに主イエスはおられませんでした。

なぜ弟子たちだけが舟に乗ったのかはわかりません。でもこの同じ出来事が書かれている他の福音書では、主イエスが「強いて」弟子たちを舟に乗せたとありますので、そうなのかもしれません。主が弟子たちにあなたがただけで先に行くようにと言われた。そうしますと、当然、弟子たちは主イエスがあとから、舟に乗って自分たちのところに来てくださるのだろうと思っていたと思います。

ところが、弟子たちだけの舟が湖の真ん中ほどまで来たとき、強い風が吹き出して湖が荒れ始めました。辺りはすでに暗くなっていましたが、それはその嵐の前触れだったのかもしれません。やがてほんとうに一面暗くなった。凄まじい強い風が吹いて、高波が来て、舟は上に、下に、打ち付けられる。体も持ち上がる。飛ばされる。主イエスが不在なのに、弟子たちは試練に遭います。

人は極度のストレスを受けると黙り込みますが、弟子たちもそうだったかもしれません。でも心の中ではすでに叫んでいたと思います。たすけてください。こんなことになるとは思わなかった。こんな事態になるとは…。この嵐は、いつまで続くのか。このままなら、だれかが放り出される。まさか自分が、とは思うけれど、それもわからない。舟ごとひっくり返されるかもしれない。…たすけてください。

しかしそのとき主が来られました。
向こうから、湖の上を歩いてこちらに近づいて来られました。
主が臨場なさった。

おいでになった。
嵐の中なのに、よく見えました。
その方がこちらに迫って来ます。

ところが弟子たちはそれを見て恐れました。恐ろしい…と思ったのです。いつものお姿ではない主イエスを見て恐ろしいと思ったのです。嵐よりも、嵐を踏みつけて来られる主イエスのほうがずっと恐ろしかったのです。

神であられる方が、こちらに迫って来るというのは、恐ろしいことではないでしょうか。彼らは主イエスを待っていたのに、安心したのではなく恐れました。
窓の向こう側が見えたからです。向こう側の方が近づいて来られたからです。

人が、ほんとうに神に出会ったとき、命の危機を感じるというのは正しいことだと思います。神こそは自分の命をどうにでもおできになる。この世界もどうにでもおできになる。でもその神が、自分を愛していてくださっているという事実をわかっていれば、信頼をもってひれ伏すという畏れをもつ。畏れ敬うという畏れをもてる。
でも、こわがるというのはどうでしょうか。あたかも神から脅迫を受けているかのようにこわいと思う。近づかないでほしいと思う。そこでは神は自分とは何の関係もないです。

しかしこの場合、
嵐の湖での主イエスの臨在は、神の脅しか、それとも、たすけか。

主は言われました。 「わたしだ。」

「恐れることはない。」
主は、「わたしだ」と、弟子たちを信頼させてくださいました。

先ほど出エジプト記の第3章を読みました。そこで父なる神もそのようにされました。出エジプトの導き手のモーセに神は言われました。わたしは、わたしの民の苦しみを見た。わたしは彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。わたしの民をエジプトから連れ出せ。
わたしは降って行き、彼らを救い出し、約束の地に導き上る。

「わたしはある。わたしはあるという者だ。」(出3:14)

神はご自分を「わたしはある」と信頼させてくださり、民を救うために「わたしは降って行く」(出3:8)と仰せになりました。そしてほんとうに、神は降って来られました。独り子を、世にお与えになりました。
主イエスはその出エジプトの出来事を、そして主なる神の「わたしはあるという者だ」というお言葉を、お心に留めて、言われたと思われます。

「わたしだ」。

神の独り子が、救いに来てくださいました。

弟子たちはそのあと、主のこのお言葉を信頼し、この方だけを頼りにし、主を迎え入れようとしました。するとまもなく舟は「目指す地」に着きました。彼らが主を「迎え入れようとした」ら、舟はもう「目指す地」に着いたのです。

こういう想像も許されるかと思います。主イエスは弟子たちが迎え入れようとしたとき、もう「目指す地」に着いて弟子たちをお待ちになった。ご自分を「迎え入れよう」と信仰に立った者たちを喜び、彼らが来るのを目指す地でお迎えになった。
まるで終わりの日のように。

主のご臨在は、そのようにいつも私どもをたすけてくださり、私どもを目指す地へと、連れて行ってくださいます。
だから、「恐れることはない」。何事も。

お祈りをいたします。

父なる神様
主が、自分のところにおいでになるということを、いつも信じさせてさせてくださいますようお願いいたします。信仰を強め、平安をお与えください。
この祈りを主の御名によっておささげいたします。アーメン