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最後の望み

2020年3月22日

コリントの信徒への手紙一 第15章42-49節
川崎 公平

主日礼拝

蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活するのです。
(コリントの信徒への手紙一 第15章42節)

 世界中が不気味なウイルスに振り回されているときに、このような聖書の言葉を遊び半分で読むことはできません。「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活するのです」。つまり、朽ちるべき私たちの体が、やがて朽ちない新しい体に復活するというのです。いつも使徒信条において、「身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」と唱えている通りです。今改めて、私たちは神に問われています。この福音を、信じるのか、信じないのか。

 もう一度、信仰の基本に立ち帰りたいと願います。私たちの命の主は、神なのです。〈復活〉の信仰とは、「神が神であられる」という事実の言い換えでしかありません。そして、その初穂たるキリストの復活は、「神が神であられる」という事実の決定的な現われとなりました。この事実をほかにして、本物の望みはどこにもないのです。

 「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活するのです」。日野原重明さんという著名な医師が、この聖句を説きながらこういうことを言いました。「私たちは、二万二千の遺伝子を両親からもらって生まれてきます。この遺伝子の中で一番決定的な遺伝子は、『あなたの寿命には制限があるのですよ』という予告をするものです」。「このように人間には死の刻印が打たれていることが科学的にも証明できるのです」(『愛とゆるし』教文館、63~64頁)。「蒔かれるときは朽ちるもの」。その事実を望みをもって受け入れることができるのは、その朽ちる体が、まさしく神に造られたものであるからです。

 この手紙を書いたパウロも、「蒔かれるときは朽ちるもの」、だからこの肉体の生活に対した意味はないのだ、と言ったのではありません。そこで注目すべき言葉があります。「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し」という42節の表現を、44節ではもう少し事実に即して、「つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」と言い換えます。この「自然の命の体」という翻訳には議論があります。原文を直訳すると「息の体」「息をしている体」とでもなるでしょうか。

 これを理解するために、さらに45節を読む必要があります。「『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてありますが……」。これも直訳すると「最初の人アダムは息の中へと生きる者となった」という不思議な表現です。その背後には創世記第2章7節があります。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。

 神の「命の息」であります。人間は、この神の命の息を吹き入れられて、初めて生きる者となった。まさしく息をするようになったのです。ここに聖書の根本的な人間理解があります。

 その意味では、「自然の命の体」という翻訳は誤解を招きやすいかもしれません。ましてそれが「朽ちるもの」などと言われると、どうしても悲観的になってしまうかもしれません。「そうだ、人間は必ず死ぬのだ。自然の摂理には逆らえないのだ……」。けれども聖書が語ることはむしろ非常に積極的です。私たちが今このように生きているのは、神の命の息を吹き入れられたからでしかないのです。

 パウロは、その「命の息ある命」が、しかし朽ちるものであり、卑しいものであり、弱いものであると言います(42~43節)。日野原先生の言う通り、遺伝子レベルでそのように神がお定めになったのです。私たちも、自分の命が実はどんなにはかないものであるか、よく知っています。そこに恐れが生まれ、悩みが生まれます。けれども、そんな私たちの命が、もともと神の命の息によって生かされたものであるならば、既にその事実の内に、確かな望みが見えてくるのではないでしょうか。

 主イエスご自身、そのような朽ちるべき「自然の命の体」をまとってくださいました。「わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです」(49節)とある通りです。このお方は、神の御子だからといって、特別に不老不死の肉体を与えられたわけではなかったのです。ウイルスに侵されたら熱だって出るし、十字架につけられたら痛くて苦しかったのです。遂にはまるで神の御子であることをやめたかのように、「神よ、死にたくありません」と、泣き言のような叫びを上げられたのです。このお方は、死に至るまで、「土からできた私たち」の似姿になってくださいました。考えられないことです。

 その「最後のアダム」、すなわちイエス・キリストを、父なる神は死者の中から復活させられました。まさにそのようにして、神が神であることが、明らかにされました。私たちは、そのお方に似るのです。「土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです」(48~49節)。ここに、最後の望みがあるのです。