1. HOME
  2. 礼拝説教
  3. 目を覚ましていなさい

目を覚ましていなさい

2020年3月1日

マルコによる福音書 第13章37節
川崎 公平

主日礼拝

マルコによる福音書第13章の最後の言葉です。この言葉を最後に、第14章からは主イエスの十字架に向かう歩みが本格的に始まります。その意味では、主は遺言のように、弟子たちにこう言い残されたのです。「目を覚ましていなさい」。

主イエスの十字架と復活、そして昇天ののち、教会は主イエス不在の時を迎えました。主が再び来てくださる再臨の時まで、主イエスは不在です。「いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである」(35節)。心細くないと言ったら嘘になります。そのようなとき、福音書が書かれた当時の教会も、この主の言葉を思い起こし、互いに励まし合ったのではないかと思います。「『目を覚ましていなさい』、そうイエスさまは言われたね。眠り込んじゃいけない」。

「気をつけて、目を覚ましていなさい」(33節)とも言われました。「気をつけて」というのは、直訳すれば「見なさい」という意味です。「見なさい」と言われても、主のお姿は目に見えません。影も形もありません。しかしだからこそ、目覚めた思いで見るべきものがあるのです。

「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ」(34節)。「目を覚ましていなさい」というのは、僕たちに割り当てられた〈仕事〉について、目覚めた思いで〈責任〉を持つということです。洗礼を受けて教会員になった者は、ひとりの例外もなく、この〈責任〉を委ねられています。

「責任」と訳されていますが、他の箇所ではむしろ「権威」「権能」と訳されることが多い言葉です。福音書の理解のために、大切なキーワードです。

人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」(マルコによる福音書第 1 章27節)。

「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」。そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(同第 2 章10-11節)。

ところが福音書は、このキリストの「権威」が弟子たちにも委ねられたと言います。

そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった(同第 3 章14-15節)。

そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け……(同第 6 章 7 節)

教会の歴史は、既にこのように始まっていたのです。そしてここ第13章では、主は十字架を眼前にしつつ、もう一度念を押すように、弟子たちに「よろしく頼むよ」と言われるのです。

新しい年度を迎えようとしています。この教会が歴史の大きな曲がり角に立たされていることは、明らかだと思います。しかもそのような時に、私たちが本来は願っていなかった形での牧師交代が起こりました。危機であり試練です。けれども、だからこそ神がこの聖書の言葉を、この教会に新しく与えてくださったのだと、私はそう信じています。

あれが足りない、これが足りないと、不安要素を挙げれば切りがありません。けれどもそのことだけに捕らわれることは、主のみ旨に沿うことではないと思います。「目を覚ましていなさい」と言われた主の思いに、私たちの思いを寄せたいと思うのです。私たちは、自分たちのための〈宗教〉をやっているのではありません。教会の主はイエス・キリストです。その事実に目覚めていなければ、どんなに熱心に活動しようと、眠りこけているのと同じです。

詩編第127篇 1、2 節にこういう言葉があります。

主御自身が建ててくださるのでなければ
家を建てる人の労苦はむなしい。
主御自身が守ってくださるのでなければ
町を守る人が目覚めているのもむなしい。
朝早く起き、夜おそく休み
焦慮してパンを食べる人よ
それは、むなしいことではないか
主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。

ある人がこういうことを言っています。眠りは、神が与えてくださった賜物の中で最も貴重なものだ。われわれの人生の3分の1は、眠っている時間なのだから。「主は愛する者に眠りをお与えになる」。いろんな心配事を寝床にまで持っていってしまう人は、思い起こしてほしい。あなたが眠っている時も、神は目覚めておられるということを。

「主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい」。この教会の主である神は生きておられます。その事実にいつも目覚めていたいと思います。そうすれば、思い煩うことなく、主の仕事に責任をもって励むことができます。ここに主の弟子たる者の喜びがあるのです。