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神の願いを知っていますか

2020年12月6日

川崎 公平
テサロニケの信徒への手紙一 第5章12-22節

主日礼拝

■先週の金曜日、この場所で、教会の仲間の葬りをしなければなりませんでした。(今朝礼拝堂においでになった方は)お手元の週報でお名前をご覧になって、それぞれ、深い思いに誘われた方も多いだろうと思います。わりと早くにご主人に先立たれ、数年前にはひとり息子の葬りを、自分の手でしなければなりませんでした。それはどんなにつらく、心細いことであっただろうかと思います。この、数年前に亡くなったたったひとりの息子さんというのが、実はお亡くなりになる直前に洗礼をお受けになった。そのあとこの方に残された最後の支え手は、義理のお嬢さんしかいなかったわけですが、そのお嬢さんというのが私どもの教会のメンバーで、その導きもあって、ちょうど半年前にこの場所で洗礼をお受けになりました。洗礼に先立つ長老会の試問会の席でも、既に主のみもとに召されたひとり息子の名を呼びながら、主イエスこそわたしの救い主、わたしの息子の救い主ですと言い表したその声色まで、印象深く覚えております。
 この方が、教会員として生活した時間は、たった半年でしたが、それだけに、このような仲間を与えていただいたことを感謝しないわけにはいきませんでした。先週のある夜、この方の逝去の知らせを受けたとき、「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」という主イエスの言葉が、私の心のうちに自然と響いてまいりました。マタイによる福音書の第5章4節であります。「幸いなるかな、悲しむ者。あなたは、必ず、慰められる」。その主イエスの祝福の言葉と共に、先ほど読みました伝道者パウロの言葉が、重なるように響いて来るのを感じました。テサロニケの信徒への手紙Ⅰ第5章の16節以下であります。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

5年くらい前にマタイによる福音書をこの場所で説教し続けたときに、「幸いなるかな、悲しむ人」というこの言葉について、こういうことをお話ししたことがあります。「その人たちは慰められる」と主は言われましたが、この「慰める」と訳された言葉は、もともとは「そばに呼ぶ」という意味を持ちます。その「そばに呼ぶ」という言葉が、「呼びかける」と訳されたり、いちばん多い訳し方は「励ます」あるいは「慰める」だと思いますが、今日読みました第5章の14節では同じ言葉が「兄弟たち、あなたがたに勧めます」と訳されています。しかし、いちばん根本にある意味は、「そばに呼ぶ」。「悲しむ人よ、あなたは幸せだ。わたしのそばに呼ばれるからだ」と理解しても、まったく間違いではないどころか、むしろその方が原文のニュアンスを正しく読み取ったことになるかもしれません。悲しんでいる人が、ひとりで悲しみを乗り越えるなんてことは、まったく考えられておりません。「悲しむ人よ、あなたもこっちにおいで」と、主イエスのそばに呼ばれる。そのこと自体が既に、根源的な慰めなのです。
 半年前に洗礼を受けたあの方も……数十年前、息子の結婚式のときに初めてこの礼拝堂に入って、既にそこで、神への憧れのような思いを抱かれたそうです。やがてそのひとり息子が、死の間際に洗礼を受け、教会の手によって葬られたとき、その時にも既に、この人は主イエスのそばに呼ばれていたのだと、私は信じます。

■皆さんも、ひとりひとり、等しく、主イエスのそばに呼ばれています。それが、主の日の礼拝であります。主イエスのそばに呼ばれて、まさにその場所で聞こえてくる慰めの言葉が、ここに、このように記されているのです。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

多くの人に愛される聖書の言葉です。座右の銘として、大きな字で部屋に飾っておきたいと思うかもしれません。けれどもこれは、私どもが一般的に考えるような処世訓ではありません。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝の気持ちを忘れず。そうやっていつもプラス思考を心掛けていくと、あなたの人生、きっとすばらしいものになりますよ、などという話ではないのであって、これは、私どもに対する神の願いなのです。
 「神の願いを知っていますか」。私どもの信じる主イエス・キリストの父なる神は、願いを持っておられる神なのです。その願いというのは、あなたに対する願いです。「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること」がある。それは、あなたがいつも喜んでいること。あなたが、絶えず祈っていること。そして、あなたが、どんなことにも感謝していること。そのために、私どもは神に呼ばれたのです。悲しむ者が、祈ることも感謝することもできなくなってしまって、だからこそ、主イエスのそばに呼ばれて、このお方に慰められながら、この神の願いを知るのです。「あなたには、いつも喜んでいてほしいんだよ」。私どもを愛してやまない、父なる神の願いであります。
 この神の願いが分からなければ、このパウロの言葉は、非常に残酷な言葉にしかならないだろうと思います。ちっとも喜びの言葉にはならないと思うのです。どんなにひどい人生であっても、歯を食いしばって、自分自身に鞭打つようにして、「喜ばなきゃいけないんだ。祈らなきゃだめないんだ。どんなにひどい人生であっても、感謝しなきゃいけないんだ」。自分で自分にそんなことを言い聞かせているような人がいたら、それはきっと、世界でいちばん惨めな人であるに違いありません。
 けれども、事実として、私どもはもうひとりぼっちではありません。「悲しむ者よ、あなたもこっちにおいで」。そのように、私どもひとりひとりに呼びかけ、励まし、慰めてくださるお方の声を聞くために、今私どもはここに立たされているし、実はそのために19節以下の言葉が続くのです。

「“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」(19~22節)。

これは、聖書朗読をお聞きになっただけでは、ちょっと分かりにくかったところかもしれません。けれどもこれが16節以下の「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しなさい」という言葉に続けて記されている意味をよく理解するならば、決して難解な言葉ではないと思います。「“霊”の火を消すな」と言います。もちろん神の霊のことです。その神の霊によって語られる言葉を「預言」と呼ぶのです。火のように燃える神の霊が、「いつも喜んでいなさい!」と、私の魂に語りかけてくださるのです。その「“霊”の火を消すな」と言われるのです。
 ルードルフ・ボーレン先生という、この鎌倉雪ノ下教会にも何度も来てくださった神学者が、この「御霊を消すな」という短い聖句についてのみ説教なさったものが、日本語に紹介されています(『喜びへの道』小澤良雄訳、教文館、256頁以下)。そこで、こういうことを言われます。霊とは何か。「いつも喜んでいなさい!」と語りかけてくださる神ご自身です。それをボーレン先生は、「私たちの内で、決定的な発言権を有しているもの」と定義します。簡単に言えば、「霊とは〈私のボス〉です」と言うのです。けれども問題は、ただ霊というだけなら、さまざまな霊があって、そのさまざまな霊が、自分の心に語りかけてくるという事実に思い至らないわけにはいかないだろう、と言うのです。それは自分の声であったり、他人の声であったり、時代の声であったり。「今日、霊の世界全体が私たちに襲い掛かって、実権を握って私たちのボスになろうとしています。無数の声がひしめき合って、一体誰が自分の内で決定的な発言権を持っているのか、誰が自分の主人なのかが全く分からなくなっています。人間の悲惨の原因はそこにあるのです」。
 けれども、ここでパウロが言っていることは、「御霊を消すな」。新共同訳の翻訳で言えば、「“霊”の火を消してはいけません」。自分自身の声でもなく、もちろん他の誰かの声でもなく、時代の霊の声でもなく、神の霊が自分の中で決定的な発言権を持つようになります。「いつも喜んでいなさい! 絶えず祈りなさい! どんなことにも感謝しなさい!」と、自分の中からは決して出てこないはずの発言が、霊によって、私の魂に語りかけられるということが起こります。その“霊”の火を消すな。言い換えれば、主イエスのそばに呼ばれているのに、その声をかき消すようなことをするな、ということにもなるだろうと思います。

■そのために、つまり、神の霊の火を消さないために、私どもに与えられているのが、次の20節の「預言を軽んじるな」という命令です。預言というのは「言葉を預かる」と書きますが、ここでは教会が、神の言葉をお預かりしているという意味です。教会が神からお預かりしている言葉。それは何と言ってもまず聖書であり、その聖書の言葉を教会自身が説き明かす説教の言葉です。「神の霊の火を消すな」ということと、「預言を軽んじるな」ということは、ひとつのことです。
 そこでまた、ボーレン先生が興味深いことを同じ説教の中で言っておられます。説教というのは、神の霊によって与えられるものだ。だから、「説教者は、御霊が語るべき言葉を与えてくださるまで待たねばなりません。真の説教者は説教を捏造してはならないのです。そのためには、不断の闘いが要求されます」。「説教を捏造するな」というのは、たいへん興味深い、またずいぶんと激しい言葉です。しかし、少しでも説教者としての生活を始めると、痛いほどによく分かります。金曜日。土曜日。それどころか日付が変わって日曜日になっても、説教の原稿ができないということが起こります。そういうときに説教者が誘惑されることは、聖霊から言葉を与えていただくのを、言ってみれば待ちきれなくなって、それで、聖霊に教えられてもいない言葉を、けれども日曜日の朝にはとにかく何かをお話ししないといけないという理由で、「説教を捏造してはならない」。
 別の書物で、ボーレン先生は、土曜日の夜になっても説教ができなかったらどうするかという問いに答えて、「さっさと寝なさい」というような趣旨のことを書いています。怠け者の説教者を甘やかすための発言ではありません。もしそのように読むならば、次の21節の、「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい」という言葉も読みにくくなるだろうと思います。説教を語る者も、聴く者も、これをきちんと吟味するのは当然です。けれどもその吟味というのは、聖霊が与えてくださる言葉を待つための吟味であり、「そのためには、不断の闘いが要求されます」とボーレン先生も言うのです。
 今私が、このような話をしているのは、われわれ説教者はこんなにたいへんだということをアピールしたいわけではありません。説教というのは、神から与えられるのを、〈待つ〉ほかないものなのです。「いつも喜んでいなさい」と言われますが、喜びも祈りも感謝も、すべて神からいただくものであって、決して私どもの中から生まれてくるものではないのです。
 愛する者を喪ったとき。自分の罪に絶望するとき。自分で自分を励まそうったって、そうはいかないのです。私の救いは、私の外からしか来ない。それを待つ以外に救いはないのです。自分ではどうしようもない恐怖に負けてしまうとき。自分だけが損をしているというような、どうしようもない怒りの心にとらえられるとき。そんな自分の心に自分で語りかけて、「喜びなさい、祈りなさい、感謝しなさい」と、何千回、何万回唱えてみたって、何の意味もないのです。けれども、そんな私どもを、主イエスがそばに呼んでくださり、慰め、励まし、諭してくださる言葉のことを、「“霊”の火」と呼び、「預言」と呼んでいるのです。

■このような神の霊の言葉を聞き取るために、ボーレン先生が言うように、「不断の闘いが要求されます」。けれどもその戦いは、ひとりでするものではありません。教会という共同体において初めて実を結ぶものです。ですから、既に12節以下では、教会の生活について具体的に語るのです。

兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい(12~13節)。

ここに出てくる「主に結ばれた者として導き戒めている人々」という言葉で、パウロがどのような教会の制度を考えているのか、厳密にはよく分かりません。単純に言えば、私どもの教会の牧師・長老たちのことを考えてくださればよいと思います。先に読んだ20節の「預言」の担い手でもあると思います。牧師・長老たちは偉いんだぞ、とか、そんなつまらない話ではありません。神の霊の火を消さないために、「いつも喜んでいなさい」という神の御心をひとりひとりが聴き取ることができるように、そのために主に結ばれた者として労苦しているのが、牧師であり長老たちなのです。
 そして、そのようにして神の霊に生かされるひとりひとりが、またお互いのために、慰めの担い手として立つのです。

兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい(14~15節)。

このところを読みますと、当然と言えば当然のことですが、パウロが夢の中でこの手紙を書いたのではないということが、よく分かります。「いつも喜び、絶えず祈り、どんなときにも感謝せよ」と、たいへん結構な言葉が私どもには与えられておりますが、それがいちばん難しいということを、パウロもよく知っていたのであります。怠けている人がいます。気落ちして、立ち上がれない人がいます。私どもは皆、弱い者なのです。しかもその弱さは、共に生きる人に忍耐を強いるような弱さでしかないことが、ほとんどなのであります。「だれも、悪をもって悪に報いることのないように」。このひとつの言葉を取り上げるだけでも、私どもの祈りはいくらでも広がり、また深まっていくだろうと思います。そんな私どもの生活の中に、「いつも喜んでいなさい!」という神の願いが投げ込まれるのです。私どもの生活が、喜びと祈りと感謝に満ちた生活になるように。そのことを願ってやまない神の愛を消すな!
 この神の愛に触れた人は、その生活も、少しずつではあったとしても、新しくなっていくでしょう。怠けている者、気落ちしている者、弱い者がそばに現れたときにも、忍耐強く、これまでとは違った態度で臨まないわけにはいかないでしょう。「この人も、神に呼ばれているのだ。神はこの人のためにも、絶えることのない喜びをお与えになりたいのだ」。私どもに対する「神の願いを知っていますか」。その知識に根ざす教会の交わりを、主のみ前におささげしたいと願います。祈ります。

父なる御神。喜びと祈りと感謝を、あなたは私どもにお求めになります。それがいちばん難しい私どもの生活であることを恥じつつも、そんな私どもをなお、みそばに招いてくださるあなたの思いに触れ、既に私どもの心は感謝に満たされております。喜びを失っている私ども自身のために、また喜ぶことができなくなっている隣人のためにも、祈りを新しくさせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン