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あなたが主に結ばれているなら

2020年10月25日

川崎 公平
テサロニケの信徒への手紙一 第3章6-13節

主日礼拝


■今日の説教の題を、「あなたが主に結ばれているなら」といたしました。教会堂においでになった方はお気づきかもしれませんが、10月から、教会堂の前に貼り出している説教の題を立派な筆文字で書いてくださる、いわゆる毛筆奉仕を半年ぶりに再開しました。あまりこういうことを言いすぎると毛筆奉仕の方たちが首をすくめてしまわれるかもしれませんが、やはりいいものだなと思います。「教会が生きている」という感じが伝わってきます。それだけに、私もそれなりの思いを込めて、説教の題を考えました。「あなたが主に結ばれているなら」。そんな言葉が教会堂の前に貼り出されて、ちょっと照れくさいようなところもありますし、あるいは日頃聖書に親しんでいない人は、「主に結ばれて」なんて言われても、何のこっちゃ、というところだと思いますが、今日お読みしたテサロニケの信徒への手紙Ⅰ第3章の中心主題は、「やはり、これだ」という思いがあります。8節にこう書いてあります。

あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。

伝道者パウロが、テサロニケの教会に宛てて書いた手紙です。あなたがた、テサロニケの教会の人たちが、「主にしっかりと結ばれている」というのは、新共同訳聖書のたいへんよい翻訳だと思いますが、原文を直訳すると、「主の中に、堅く立っている」という表現です。あなたがたは、しっかりと立っている。なぜ立つことができるか、なぜ倒れないか。あなたがたが、主の中にいるからだ。しかし興味深いのはその先で、テサロニケの教会の人たちがしっかりと信仰に生きていることと、伝道者の生き死にが深く結びついているというのです。「見よ、わたしたちは、今このように、生きている!」 その命の源は、教会の仲間が主に結ばれて、しっかりと立っているという事実だと、パウロは言うのです。
 これは、いわゆる狭い意味での伝道者、いわゆる牧師だけに許される発言ではないと思います。おおよそ教会に生きる者であれば、誰もがこのパウロの言葉に自分自身の心を重ねることができるはずだと思うのです。「あなたが、主に結ばれてしっかりと立っているなら、今、わたしは生きている!」 教会の仲間が信仰に生きているかどうかということと、自分自身の生き死にとが、深く結びついている。言い換えれば、自分の命が救われるのか、それとも滅びてしまうのか、それはひとえに、「あなたがたが、主に結ばれてしっかりと立っているかどうか」、そこにかかっているというのです。これは、私どもの信仰生活にとっても、非常に多くのことを考えさせるものがあると思います。

■この8節と深く関わるのが6節です。ここにもたいへん興味深い表現が隠されているので、「ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました」と書いてありますが、この「うれしい知らせ」と訳されている言葉は、少なくとも新約聖書においてはほとんど例外なく「福音」と訳されます。イエス・キリストの福音、というときの福音です。もちろんその基本的な意味は、「よい知らせ」、「うれしい知らせ」ということですから、新共同訳の翻訳は何も間違ってはいない。ただここで、パウロが「福音」という表現を用いたのだということには、気づいておくとよいと思います。福音って何ですか。あなたの信じる福音、キリスト教会の信じる福音って何ですか。そう尋ねられたら、神の救いのわざについて、まず何よりも主イエスの十字架と復活のことについて答えるのが常識的なところでしょう。ところがここでは、同じ「福音」という言葉を用いながら、その具体的な内容が何であるかというと、テサロニケの教会の人たちが、主にしっかりと結ばれて、信仰と愛に生きていた。それをパウロは、「福音」と呼びました。どうでしょうか。このような〈福音理解〉に、改めて目を開かれるような思いがしないでしょうか。
 「あなたが主に結ばれているなら、わたしは生きることができる。あなたが信仰を捨てるなら、わたしの命は滅びる」。このようなセンスを持っていたパウロだからこそ、先週の説教でも触れましたが、第2章の最後のところでは、テサロニケの仲間たちよ、主イエスが再び来てくださるとき、あなたがたこそ、わたしの誇るべき冠だと言ったのです。再臨の主イエスに改めてお目にかかるとき、私どもはいろんなことを主イエスとお話ししなければならないでしょう。けれども、主イエスの前で何よりも誇らしい思いで自慢したいこと、話題にしたいこと、その第一は自分の生かされた教会のことであると言うのです。このような、パウロの信仰的なセンスというか感覚というか、これに改めて目を開かれるような思いがするのです。

■パウロという人はしかし、決して非常識な楽観主義者ではありませんでした。「あなたが主に結ばれているなら」と、パウロは、夢を見るような思いでこういうことを言ったのではありませんでした。テサロニケの教会の仲間たちが、信仰に生きているか、愛に生きているか。パウロは、テサロニケの教会のことが、心配でならなかったのです。それで、そのことを確かめるために、パウロは弟分の伝道者であるテモテを派遣したと言います。1節以下にこう書いてあります。

そこで、もはや我慢できず、わたしたちだけがアテネに残ることにし、わたしたちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをそちらに派遣しました。それは、あなたがたを励まして、信仰を強め、このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした。

アテネからテサロニケまで、テモテの歩いた距離は500キロにも及びます。テサロニケの教会を励ますため、主の中にしっかりと立ち続けることができるために、しかし考えてみれば、テモテの労苦も、並大抵のものではありません。今、私どもの教会も、ひとつの試練の中にあるということは、間違いありません。だからこそ、特に私のような牧師は、鎌倉雪ノ下教会の仲間たちを「励まして、信仰を強め、このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないように」……しかし私自身、どれほどのことをしているだろうか。私は、ひとりの牧師として、何だか恥ずかしくなってきました。私自身、教会の仲間のために何キロ歩いただろうか。パウロは、あるいはテモテは、なぜそこまでしたのだろうか。

■そのようなことを考えていたというか、悩んでいたというか、そのときにふと、私の心に留まったのは、2節の「神の協力者テモテ」という表現です。「キリストの福音のために働く神の協力者テモテ」と言うのです。パウロは、この「協力者」という言葉が好きだったようです。パウロの手紙のいろんなところにこの言葉が出てきます。そして「ここぞ」というところでは、ただ「協力者」とは言わず、「神の協力者」と言います。現在、中村慎太牧師が説教しているコリントの信徒への手紙Ⅰの第3章9節にも、「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり」と言います。「わたしたちは、神の協力者」。そこで大切なことは、これは「わたしたち」の働きではないということです。わたしたちは、神に協力させていただいているだけだ。だから、同じコリントの信徒への手紙Ⅰ第3章にも、こう書いてあります。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(6~7節)。
 ここでも同じことだと思うのです。パウロは、テサロニケの教会の仲間たちのことを、一方から言えば、たいへん心配したのであります。苦難の中で、信仰が動揺してしまうのではないか。そのことが心配で心配で、そこで、もはや我慢できず、テモテを派遣したというのですが、だがしかし、テサロニケの教会のことをいちばん心配してくださったのは、神ご自身なのです。そして、テサロニケの教会が主に結ばれてしっかりと立っている、そのことを「これぞ福音」と、いちばん喜んでくださるのも、実は他の誰でもない、神ご自身なのです。いやそれどころか、神にとって何がいちばんの喜びかといったら、私どもが御子イエスに結ばれて生きている、そのことにまさる神の喜びは、なかったのであります。
 それならば、逆に、このように言うことができるのでしょうか。もしも、私どもが信仰を捨てるなら。主との結びつきを断ち切ってしまうなら。神は、死んでしまうのでしょうか。……きっと、そうなのだと思います。少なくとも、私どもの罪について、何よりも不信仰の罪について、神が死ぬほどお悩みになったことは確かです。だからこそ神は、私どもの救いのために、御子イエスを、十字架につけなければならなかったし、これを死人の中から甦らせなければならなかったのであります。私どもが、主に結ばれて、しっかりと立つために。それは他の誰の願いでもない、神ご自身の切なる願いに根ざすことであったのです。
 それほどの神の思いを分けていただいているのが、「神の協力者」です。私どものことです。そういう私どもが、今ここにも主の教会を造らせていただいているのです。そしてお互いに、お互いのことを喜び合うのです。もしも、皆さんのいちばん大好きな人から、「あなたが主に結ばれているなら、わたしは生きることができるよ」と、そんなことを言われたら、こんなにうれしいことはないだろうと思います。けれども、そういうことを言葉にはっきりと出すことがなかったとしても、教会の交わりというのは、本来そういうものです。なぜならば、私が主に結ばれて生きていることを、誰よりも喜んでいてくださるのは、神ご自身であり、けれども私が神から失われていることを、誰よりも悲しんでくださるのも、神ご自身だからです。
 伝道者パウロは、ローマの信徒への手紙第12章で、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と教えました。そのような教会であることを願わない人はおりません。しかしそれもまた、神の喜びに根ざし、神の悲しみに根ざす交わりでなかったら、たいへん脆いものにしかならないだろうと思うのです。

■本当は、いつも神にご心配をおかけしているばかりの私どもなのであります。ここでテサロニケの教会は、「あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました」(6節)とか、「兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました」(7節)とか、最高の評価を受けていますが、改めて私ども自身を顧みるとき、いつもどこかで、自分の信仰について、また自分の愛について、心もとなさしかないようなところがあると思うのです。
 パウロもそのあたりのことは、実はよく分かっている。だからこそ10節では、「顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています」とも言うのです。新共同訳の「あなたがたの信仰に必要なもの」という翻訳は、少し柔らかすぎたかもしれません。「必要なもの」というよりは「足りないところ、欠けているところ」ということです。「あなたの信仰には足りないところがあるから、わたしが補ってあげよう」などと言われたら、場合によってはカチンとくるかもしれません。けれども、私どもの信仰について、まず神が心配していてくださるとしたら、どうでしょう。こんなにありがたいことはないかもしれません。そして事実、私どもの信仰は、欠けだらけ、足りないところだらけなのです。けれども、そのことを誰よりも心配していてくださる神の真実を信じることができるなら、私どもも、安心して自分自身を、また信仰の仲間のことをも、神に委ね切ることができると思います。
 こうして、このパウロの手紙は、最後には祈りに終わらないわけにはいきませんでした。11節以下であります。ここで明らかに、手紙の前半部が終わります。この11節以下については、いちいち説き明かす必要はないと思います。これは、そのまま読めば足りる。いや、そのままこれを私どもの祈りとすれば足りると思います。異例のことですが、この11節以下のパウロの祈りをもって、説教を終えたいと思います。祈ります。

「どうか、わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエスとが、わたしたちにそちらへ行く道を開いてくださいますように」。主イエス・キリストの父なる御神、この鎌倉雪ノ下教会も、仲間たちが互いに引き離されています。この場所に来ることができない仲間たちがたくさんいるのです。その仲間たちの顔を見たい、共に賛美を歌いたい、たくさん語り合いたいと願いながら、その道を私どもは開くことができません。あなたが道を開いてください。改めて祈ります。「どうか、主が私どもを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように」。「そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように」。マラナ・タ、主イエスよ、来てください。主のみ名によって祈り願います。アーメン。