良くなりたいか
ヨハネによる福音書 第5章1-9a節
サムエル記上 第2章1-10節
上野 峻一
主日礼拝説教
「良くなりたいか。」主イエス・キリストは、私たち一人ひとりに、このように語りかけられます。「良くなりたいか。」その言葉を聞き、私たちは答えます。「もちろんです。どこに、悪くなりたい人がいるのでしょうか。良くなりたいと、そう願うのが、当然ではありませんか。」今日の聖書に記されている「良くなる」という言葉は、「なおる」や「健康になる」という意味で使われます。もとの状態に戻ること、健全であることが、「良くなる」と表現されています。それは、「善」という漢字をあてる「良い」という意味とは、違います。あくまでも、健康であって、健やかな状態です。ただ別の言い方をすれば、「本来あるべき状態」と言ってもいいかもしれません。「良くなりたいのか。」このイエスさまの問いから、私たちは、自分自身を見つめ、主のもとに立ち帰っていく、大事なことに気づかされます。
本日の聖書に記されている38年も病気で苦しんでいるということを、どのように受け止めるでしょうか。ある聖書学者は、この数字は、キリストの奇跡の大きさを示すものだと言います。また別の学者は、38年という数字は、旧約聖書の申命記から、荒れ野の放浪の期間を象徴的に暗示するものだと言います。どちらも正しいでしょうが、もし38年間、病気で苦しんでいるという時間をリアルに考えるなら、そこには、もう諦め以外のほか、何も残っていないのではないでしょうか。それでも、「良くなる」「なおる」と信じていることは、まったくもって、あり得ない話となります。38年も病気で苦しんでいる人が、いつから、この回廊にいるかはわかりません。しかし、彼が、このべトザタの池の回廊にいるのは、もう他には、どうすることもできない手の施しようがなかったからです。何としても良くなりたい、どうにかして治したいと、あらゆる方法を試し尽くして、最後にたどり着いたところが、この場所であったと思います。それから、どれくらいの時間が経ったのか、私たちには、わかりません。しかし、主イエス・キリストは、すべてわかっておられました。その人が、横たわっているのを見て、また、もう長い間、病気であるのを知ったのです。それは、この人が、この回廊にいる大勢の人たちの中で、最も重い病にあることを知ってのことであったでしょう。
イエスさまは、この38年も病気で苦しんでいる人を見て、彼の心からの嘆きと悲しみを知りました。だから、主イエスは、ご自分から彼に語りかけられます。主イエスは、彼との人格的な関りを始められました。しかし、それは、主イエス・キリストにしか、決してすることができない問いかけ、関わりでした。「良くなりたいか。」病人にとっての当然の願いが、もう当たり前のように口にすることができない状況が、そこにあったのです。誰が見ても、それはもう良くはならない絶望的な様子であったでしょう。ただし、主イエスだけは、この方だけは、そのような現実を前にして、たとえ、どのような病であっても、そこから立ち上がらせることのできる方でした。なぜなら、主イエスこそ、いまだかつて、誰一人として見たことがない神をお示しになる神の御子、神ご自身であるからです。主イエスが、38年も病気で苦しんでいる彼を見て、知ったこととは、もうとっくの昔に諦めてしまっていた、いや、彼自身さえも忘れていた、彼の「本当の願い」でした。人は、その願いによって、その人が、どのような人間であるかが、わかります。彼自身は、孤独の中で、その闇の中で、自分自身の「本当の願い」を口にすることさえできない絶望へと追い込まれていました。「主よ、水が動く時、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」この嘆きと悲しみの奥に、その更に深いところにある彼の想いを、主イエスだけが知っておられました。彼の「本当の願い」を知り、彼を根本的に救うために、主イエスは彼に語りかけ、その関わりを始められたのです。
私たちの本当の願いは、一体何でしょうか。「良くなりたいか。」この主の御言葉が、私たちに届けられた時、私たちも、やはり「主よ、わたしは寂しいのです」と、今の現実を嘆くに留まるのでしょうか。もう決して治らない死に至る病であることを、それさえも、良くすることができるお方を目の前にして、実は「本当の願い」を忘れてしまってはいないでしょうか。主イエスは、彼の「本当の願い」を知り、彼が助け求める奥にある根本的な問題を、一方的に解決へと導きます。この病人は、彼自身が選んだのではなく、主イエスによって選ばれ、関わりを与えられ、癒されたのです。私たちも、そうです。主なる神さまの一方的な恵みの中で、神の愛を知らされました。私たちが、願い求める前から、私たちを見て、知って、私たちの「本当の願い」を成し遂げてくださったのです。主イエスは言われます。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」これこそ、この病人が、彼自身さえも諦め、忘れていた本当に願い求めていたことです。そして、このことは、私たち自身もまた諦め、忘れてしまっている、いや、もしかしたら気づいてさえいない「本当の願い」を成し遂げる出来事なのです。私たちの「本当の願い」、それが「罪からの救い」です。
主イエスは、私たち人間の一人ひとりの絶望と闇、その病のすべてを、たった一人で担われて、十字架の死へと向かわれたのです。他の誰もが、決して変わることができない苦しみを、私たちの罪による死を、神の御子であるイエスさまが身代わりとなってくださったのです。それが、私たちに示された神の愛です。私たちが、とっくに諦め、忘れてしまっている、いや、気づいてすらいない「本当の願い」、「罪からの救い」という十字架の贖いです。主イエスは、私たちに問われます。「良くなりたいか。」私たちは、どんなことを、イエスさまに答えるでしょうか。主イエスは、私たちの本当の願いを知り、語りかけ、まことの救いを与えてくださいます。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。主の御言葉に聴いて、良くなったものが、床を担いで歩きだします。この救いの出来事は、私たちにとっても同じではずです。それぞれの生活の中で、何もかも諦めて、忘れてしまって、横になっている現実こそ、実は担ぐべき自分の床ではないでしょうか。御言葉によって、良くされた者が、その床を担いで歩きだすのです。私たち自身でさえ気づかない「本当の願い」を知り、そこから救い出してくださる主イエスが共におられ、愛していてくださいます。その方だけが、そこから立ち上がる力を、自分の床を担いで歩きだす勇気を、私たちに与えてくださるのです。私たちは、ただ、この主の御言葉に聴き従います。一方的な恵み、神の愛を受け入れ、喜びのうちに遣わされるのです。主イエスの御言葉によって、神の御業が起こります。この神の救いの出来事が、私たち一人ひとりにも起こるのです。主の御言葉に聴きた者として、良くなったものとして、「本当の願い」をきかれ、救われたものとして、私たちもまた、自分の床を担いで、なすべき務めを果たすために歩みだします。お祈りをいたしましょう。