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おいのりのいえ

2019年2月10日

ルカによる福音書 第19章45-47節
上野 峻一

教会学校・小礼拝合同礼拝説教

そこに集まった人たちは、もう皆、夢中になって、イエスさまの話に聞き入っていました。イエスさまがお話してくださるすべてのことが、そこに集う一人ひとりにとって、神さまからの言葉そのものでした。突然ですが、皆さんは、どんな時に「お祈り」をしますか。ごはんを食べる前にお祈りをします。夜、寝る前にお祈りをします。困った時や悲しい時にお祈りをします。毎日の生活の中で、私たちは色々なところでお祈りします。私たちは、どうしてお祈りをするのでしょうか。教会は、その答えをこのように言います。「私たちがお祈りをしなければならないのは、神さまが求めておられるからです。だから、私たちが、お祈りをしないことは、神さまを悲しませることなのです。」お祈りは、神さまとお話することです。神さまは、いつも私たちと一緒にいてくださいます。神さまは、いつも一緒にいて、いつも私たちに語りかけてくださっているのに、たくさんの恵みを与えてくださっているのに、私たちが神さまを無視して、そっぽを向いていたら、神さまも悲しまれるのは当然です。そして、神さまは、イエスさまを信じる人たち皆で一緒にお祈りをする場所を、ちゃんと用意してくださっています。それが、神さまを礼拝するところ「教会」です。昔、神さまを礼拝するところは、「神殿」と呼ばれていました。イエスさまは、いよいよ、神さまの定められた時、十字架の時が近づいて来たので、エルサレムの町へとやってきました。エルサレムの町について、イエスさまが、最初に行ったところは、神殿でした。神殿では、教会と同じように、神さまに祈りをささげ、神さまからの言葉を聴きます。イエスさまは、その神殿に行かなければなりませんでした。そこで、神さまに祈りをささげ、神さまの言葉を聴き、語るためです。イエスさまは、エルサレムの町に着いてから、毎日、神殿で神さまの言葉を語り続けました。イエスさまにしか語ることができない、私たち人間が聴くべき大切な神さまの御言葉を語り続けられました。

ところが、イエスさまが、エルサレムの町に着いて神殿に行くと、そこで、お店をひらいている人たちがいました。教会でも、お店をひらいていることはあります。教会に入って、事務室の前には、本が並んでいます。小さな本屋さんです。またお昼になると、教会の地階では、お蕎麦やおうどんを売っています。日曜日だけの食べ物屋さんです。神殿でも、礼拝で必要なささげもの売るために、お店をひらいていました。しかし、そのお店は、教会のお店と大きな違いがありました。その神殿のお店は、神さまのためではなく、自分のため、お金のためのお店でした。教会の本屋さんも、食べ物屋さんも、神さまのためにあります。売っている本は、神さまのことが書かれた本です。お蕎麦やおうどんが売れたら、教会の牧師になるための学校ために使います。けれども、今日の聖書で、イエスさまが神殿でお店をしている人たちを追い出したのは、その人たちが、神さまのためではなく、お金儲けのためにしていたからです。イエスさまは、聖書から預言者イザヤが語った神さまの言葉を語られます。「わたしの家は、祈りの家でなければならない。ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にした。」神殿は、お金儲けの場所ではなく、神さまの家であって、そこは、お祈りの家であるというのです。

イエスさまが言われた神殿と同じように、この教会も、イエスさま・神さまの家であって、お祈りの家です。教会で一番大切なことは、イエスさまが言われたように、祈り、御言葉に聴き、礼拝をささげることです。だから、今も私たちは、教会で毎週、神さまを礼拝し、神さまにお祈りをして、神さまの言葉を聴きます。この教会も、牧師のものでもなく、長老のものでもなく、教会の人たちのものでもありません。教会は、神さまの家、神さまのものです。聖書は、教会の頭はキリストであり、キリストの体なる教会と言われます。そして、このキリストの体なる教会は、私たち一人ひとりが、その体の一部であるのです。「あなたは、キリストの体なる教会の手」「あなたは、キリストの体なる教会の目」「あなたは、キリストの体なる教会の鼻」「あなたは、キリストの体なる教会の爪」と、一人ひとりが、まったく違う働きと役割を与えられています。そのように皆が、それぞれに必ず教会につながっています。また、このことは、皆がイエスさまにつながっているということです。イエスさまにつながって、教会につながって、神さまの家である教会だから、ちゃんと皆の居場所、皆がいるべきところがあります。

イエスさまは、そのような教会が、お祈りの家であると言います。それは、教会が他とは区別されたところということです。教会では、神さまに礼拝をささげ、神さまにお祈りをします。神さまの御言葉に聴きます。それが、それだけが、本来、神さまの家、祈りの家ですべきことです。それじゃあ反対に、教会でないと、神殿でないと、お祈りはできないの?神さまの言葉に聴くことはできないの?という質問があるかもしれません。もちろん、そんなことは決してありません。イエスさまは、いつも私たちと一緒にいてくださいます。どこでも、いつでも、私たちは神さまに祈り、御言葉に聴くことができます。聖書の中の手紙をたくさん書いたパウロさんという人は、私たち一人ひとりが、「聖霊が宿る神殿だ」と言いました。聖霊なる神さまが、神殿である私たちの体に住んでくださるから、いつでも神さまに祈り、御言葉に聴くことができます。しかし、それでも、イエスさまを信じる皆が集まる教会はなくてはなりません。なぜなら、教会でしか新しくイエスさまを信じる人が生まれるところはありません。私たちは、たった一人でだけ、イエスさまを信じているわけではありません。共に祈り合い、共に愛し合う中でしか、わからない神さまの出来事があります。自分勝手な思い込みや間違った信仰も、教会で語られる神さまの御言葉と、教会で祈られることによって、悔い改めへと導かれます。

「皆さんは、どんな時にお祈りしますか」と聞きました。私たちは、いつでも神さまから離れ、イエスさまを無視してしまう罪に陥ります。もちろん、どうしても祈れない時もあります。けれども、そんな時に代わりに祈ってくれるのが、教会につながる仲間たちです。そして何より、私たちが祈れない時も、必ずイエスさまが私たちのために祈ってくださいます。そのようなイエスさまの語る言葉に夢中になって聴きます。この方こそ、十字架の死によって、私たちを神に背く罪から救ってくださり、復活の命によって、私たちに新しい命に生きる希望を与えてくださった私たちの救い主です。イエスさまは、互いに祈り合う私たちと一緒に歩んでくだいます。祈りの家である教会は、そのことを、いつもイエスさまの御言葉によって思いこさせます。私たちのために、ご自分の命を犠牲にしてまで愛してくださる神さまの家が、祈りの家が、私たちに与えられている教会なのです。