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いつの日か、共に喜ぶために

2018年11月11日

ヨハネによる福音書 第4章31-38節
アモス書 第9章11-15節
上野 峻一

主日礼拝説教

「その間に」という言葉から、今日の聖書箇所は始まりました。明らかに、御言葉が記されている文脈や状況があります。町外れの井戸のそばで、何気なく水を汲みに来たサマリアの女が、主イエス・キリストと出合い。そして、彼女が「この方が、救い主かもしれない」と驚きと喜びに満ちて、一目散に町へと戻って、人々を主のもとに連れて来る間です。その時になされたイエスさまと弟子たちとのやり取りです。弟子たちは、主イエスとサマリアの女が出会う前、疲れておられたイエスさまを、その場に一人残して、食べ物を買うために町へと出かけました。弟子たちが戻ってくれば、当然、調達してきた食べ物を食べることになります。弟子たちは、「ラビ、先生、どうぞ、食事を召し上がってください」と勧めます。ところが、主イエスは、「わたしには、あなたがたの知らない食べ物がある」と言いわれます。「誰かが、食べ物を持ってきただろうか」という言葉には、そこに否定のニュアンスが込められます。「いや、誰も持ってくるはずはない」のです。一体、何があったのか。弟子たちが、主イエスを一人残して、町へ食べ物を買いに行っている間に、自分たちが知らないうちに、イエスさまにある「食べ物」とは何だったのかと、弟子たちが問われます。

主イエスは、この「食べ物」が、イエスさまが父なる神さまの御心を行い、神の御業を成し遂げることにあると言われます。このことは、主イエス・キリストが、食べることよりも、ご自身の命をかけてまで、最も大事な使命があるということです。ヨハネによる福音書において、主イエスが十字架で死なれる最後の言葉は、「成し遂げられた」という一言です。父なる神さまの御心を行い、神の御業を成し遂げられた時に、主イエスは、この地上での歩みを終えられます。主イエスが言われた「あなたがたの知らない食べ物がある」ということは、「食べ物を持ち続けている」という継続の意味を含みます。この地上での歩みは、この使命が果たされるまでは、それがあり続けるのです。すべての人に、どのような人であっても、神さまから与えられている使命があり、生きる意味、目的があります。主イエス・キリストとの出会いは、そのことを私たちに気づかせるのです。

主イエスは、第4章36節で語られます。「刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種をまく人も刈る人も、共に喜ぶのである。」この喜びは、私たちが、共に神を父と呼ぶことができる「喜び」です。それは、主イエス・キリストを信じて生きる私たちの「教会の喜び」です。イエスさまは、弟子たちに「種まきと収穫」のたとえを用いて、主の御心を語られました。主イエスは言われます。「あなたがたは、『刈り入れまでまだ四ヶ月ものある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。」主イエスは、収穫の時は「今」であると言われます。「四ヶ月」という数字が、具体的に何を指すのか、明確な答えはありません。けれども、「いつか収穫の時がある」と待つのではなく、それは「今」なのだと告げられます。そのために、イエスさまは、私たちに「目を上げて畑を見なさい」と言われます。「畑」というのは、「諸地域」「財産としての土地」「場所」という意味です。イエスさまに言われて、目を上げた先に弟子たちが見たのは、主イエスのもとに、ぞくぞくと集まってくるサマリアの町の人々でした。彼らを導いたのは、主イエスと出合ったサマリアの女でした。35節にある「色づいて」という言葉は、「白い」という言葉を日本風に意訳したと言われます。それは、町から井戸まで歩いて来る白い衣を着たサマリア人たちの様子であったという解釈もあります。ただし、この「白い」には、「輝く」という意味になっていきます。やはり、人々が主のもとにやってくる光景を見て、神の救いの恵み、イエスさまを信じて救われる、その輝きを見たということでしょう。

刈り入れる人は、報酬を受けます。既に受けているとも言われています。それは、刈り入れる者も、主イエス・キリストを信じ、永遠の命に至る実にあずかって生きているからです。この種まきと収穫で言われている働きを考えるならば、一人の作業です。自分が種を蒔いたのだから、その作物が育って収穫の実りにあずかるのも自分ということです。37節にある「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」という「ことわざ」は、本来、残念な結果になってしまったことを嘆く言葉でした。ところが、主イエスは、この「ことわざ」を残念な出来事とはなさいませんでした。むしろ、弟子たち、そして、私たちの教会の現実を指し示し、何よりも、それが「共に喜ぶ」こととしてあることの意味を伝えます。実際、弟子たちは、自分で苦労しなかったものを刈り取ることになります。ヨハネによる福音書が書かれた背景にある教会には、多くの異邦人、サマリア人がいたと言われます。その者たちは、まず主イエスがサマリアで伝道されたことはもちろん、後に最初のエルサレム教会が迫害を受けて、サマリアに逃げて来た者たちが伝道したからだと言われます。あるいは、主イエスを救い主として信じるための道筋は、既に旧約聖書の預言者たちの働きがあったからであるとも言われます。つまり、弟子たちが、種を蒔いたのではないという事実があります。他の人々の労苦があったから、弟子たちは、主イエスを信じる仲間たちを与えられていくのです。

けれども、収穫の時が来たなら、誰かが刈り取ったとしても、自分のことのように共に喜びます。なぜなら、私たちが、種を蒔き、刈り入れているものは、必ず一つの喜びに至るからです。誰が、どこで、神の救いに入れられたとしても、主イエス・キリストという一つの木に、キリストの体なる教会につながることに変わりはないのです。主イエス・キリストにこそ、永遠に神を限りなく喜びとし、この方を信じて生きることにこそ、私たちが「神を父と呼べる喜び」のすべてがあるからです。主イエスは、38節「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」と言われます。「あずかっている」という言葉は、元々のギリシア語では、「入り込む」という意味です。受け取るという意味さえはありません。そして、「労苦の実り」という言葉も、「労苦」や「働き」という意味が第一です。イエスさまは、弟子たちに、また私たちに単純に「あなたたちは、他の人々が苦労した、その成果にあずかっている」と言われたのではありません。もし、そうであるならば、ここで「実」という単語で済むはずです。そうではなくて、主イエスは、種を蒔くものも、また刈り取るものも、共に喜ぶように、共に労苦に入るように言われるのです。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くように、労苦する人と共に労苦するのです。そして、この労苦は、何よりも主イエス・キリストにある喜にとつながる、イエスさまのなさった労苦です。私たちは、その主の労苦の実にあずかるものです。

主イエスは、ここにいる私たち一人ひとりのために、ご自身の命を捨ててまで、私たちを愛されました。父なる神さまの御心を行い、その御業を成し遂げるために、すべてをささげられたのです。そこに、主イエスの労苦があり、また主イエスの喜びがあります。主イエスは、私たちの罪のために十字架で死に、私たちの命のために三日目に復活なさいました。ここに、私たちの救いの喜びの源があります。死によって、決して終わることのない永遠の命を生きる、終わりの日の復活の希望があるのです。既に、種は蒔かれ、収穫の時は来ています。このことは、私たちの人生の歩みにおいて、また私たちの教会において、これからも続けられていきます。もしかすると、今はまだ、共に喜ぶことができない、そう思えることがあるかもしれません。しかし、共に喜ぶ時は来ています。いつの日か、共に喜ぶために、そのこの喜びは、既に始まっているのです。主イエス・キリストにあって、主なる神さまを喜ぶ、私たちの毎日が、ただ主の御言葉によって豊かに続けられますように。私たちは、今日も、神を父と呼ぶことができる救いの喜びのうちに、この礼拝から新しい歩みを始めます。お祈りをいたしましょう。