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誰の言葉に聞くのか

2017年9月10日

ヨハネによる福音書 第1章35-42節
上野 峻一

主日礼拝説教

「誰の言葉に聞くのか」という本日の説教題は、誰の言葉「を」ではなく、「に」とすることで、「誰」ということに、重点を置いています。私たちが、言葉を聞いていく上で、もちろん言葉の内容も大事ですが、それ以上に、「誰」ということが問われる、そういうメッセージを含んだ説教題です。今日の聖書から私たちは、「誰」ということを問われます。言葉だけが一人歩きすることがあります。言葉が勝手に用いられ、誤解され、利用されることが日常茶飯事です。そのような時代や社会の中で、私たちは聞くべき言葉の、その発信元に辿り着かなければなりません。どなたが語られる言葉なのか、なぜその方がこの言葉を語られるのか。誰に聞くのかが問われています。

「その翌日」と、今日も聖書は語り始めます。一日一日、刻一刻と、ヨハネ福音書は、神の出来事を、時間の歩みにおいて記します。それは、今を生きる私たちと同じ、歴史の時間を刻む中で起こったことです。二人の弟子と一緒にいたヨハネは、歩いておられるイエスさまを見つめて、「見よ、神の子羊だ」と言います。歩いているという言葉を、「通り過ぎる」と翻訳した人がいました。ヨハネは、今、自分たちの目の前を通り過ぎていくイエスさまを、じっと見つめて、「見よ、神の子羊だ」と言うのです。聖書によれば、「二人の弟子は、それを聞いて、イエスに従った」とあります。ヨハネは、イエスさまに話しかけてもいません。また、弟子たちに、あの人に従いなさいとか、あの人が今日からあなたたちの先生ですとも、言っていません。ただ、「見よ、神の子羊だ」とだけ語って、主イエス・キリストを指し示しています。それは、まるで、それまでのヨハネと弟子たちの間で、この時の、この出来事を、準備して待っていたかのようです。

いよいよ、その時が来ました。ヨハネの二人の弟子たちは、ヨハネの発した言葉を聞き、主イエス・キリストについて行きます。そして、ここから主語が代わります。これまで、「ヨハネは、」と記されてきたものが、「イエスは、」と続いて記されていきます。洗礼者ヨハネから、主イエス・キリストへと交代が起こっています。ただし、それは、初めから計画されていたことでした。こうなることが神のご計画であり、またヨハネ自身もそれを受け入れ、語り続けてきたことです。ヨハネの弟子たちも、それはわかっていました。だから、ヨハネの言葉を聞いた時、直ぐさま、主イエスに従っていくのです。この方こそ、「神の子羊だ」と、ヨハネの言葉を聞いて、主イエス・キリストに、何よりもまず、付いて行くのです。そうして、今度は、イエスさまが、ヨハネの二人の弟子たちに、次の言葉を語られます。

イエスさまは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われます。この「何を求めているのか」という言葉は、軽く「どうしたいの?」と問うことだとも言われます。自分に付いてくる者たちに対して、イエスさまは、どうしたいのかと問いかけられます。彼らは、イエスさまに答えます。「ラビ、どこに泊まっておられるのですか。」すると、イエスさまは、「来なさい。そうすればわかる」と、自分についてくる者たちを招かれました。そうして、その者たちは、主イエスが泊まっているところを見て、その日、そのまま主イエスのもとに泊まったのです。これが、主イエス・キリストに従っていった者たちに起こった最初の出来事です。

この一連の出来事を通して、一体何が語られているのか。普通に考えれば、イエスさまについて行った者たちが、イエスさまに呼ばれて、一晩一緒に過ごしたということです。しかし、ヨハネ福音書は、この出来事の背後に秘められた意味も伝えようとしています。一体あの人は、どういうお方なのか。自分たちの先生であるヨハネが言うほどの方なのか。彼らは、イエスさまに対して、「ラビ」と言っています。彼らは、ついさっきまでヨハネの弟子であったけれど、今、この時から、あなたを「ラビ」、先生と呼ぶことが起こります。ヨハネの言葉に聞いていたが、これからは、主イエスの言葉に聞くのです。そして、どこに泊まっているのかと問いかけます。ただし、この「泊まっている」ということは、イエスさまの宿泊場所を問うだけではありません。主イエスがどこに留まっておられるのか。主イエスとは、一体どのようなお方なのか。それを知りたいという彼らの思いが記されているのです。

「真理はわれらを自由にする。」知る人ぞ知る有名な聖書の御言葉です。この言葉は、日本の国会図書館にギリシャ語で掲げられています。ホームページを見ても、その由来が、ヨハネによる福音書の言葉であることが記されています。しかし、この言葉には、その前に、次のような言葉があります。ヨハネによる福音書第8章題31節、お聞きください。「イエスはご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉に留まるならば、あなたたちは、本当にわたしの弟子である。あなたたちは、真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。』」この「わたしの言葉に留まるならば」とある「留まる」という言葉が、「主イエスのもとに泊まった」ということと、同じです。主イエスのもとに留まらなければ、わたしたちを自由にする真理がわからないのです。この言葉をどなたが語られたかわからなければ、真理の意味を知ることができないのです。私たちが、主のもとに留まり、聞くべき言葉、知るべきことがあります。そして、そうしなければ、決して気づけないことがあるのです。

主イエスのもとに留まった二人のもののうちの一人は、アンデレと言いました。彼は、主のもとに留まった後、まず自分の兄弟シモンに会いに行き、「わたしたちはメシアに出会った」と行って、彼をイエスさまのところへ連れて行きました。「油注がれた者」とは、キリストという言葉です。彼らが、待ち望んだ救い主に会ったというのです。二人のうちの一人アンデレは、主イエスのもとに留まり、そのことによって、自分の兄弟を主イエスのもとへと連れて行きます。ここに、教会が、キリスト者一人ひとりが、福音を伝える、証しと伝道の一つの姿をみることができます。宗教改革者カルヴァンは、このことを「十分な光に照らされながら、他の人たちに同じ恵みに与らせようと努めなければ、そのようなわたしたちの無気力さは、まさに呪われるべきものだとう」と、非常に厳しく語ります。アンデレは、とにかく、イエスさまに会ってもらうしかない。そう思って、自分の兄弟シモンをイエスさまのところへと連れて行きます。主イエス・キリストの福音とは、神が与えた喜びの知らせです。何よりもまず、私たち自身が、主の御言葉に聞けているかどうか。何を求めてここにいるのか。主イエス・キリストは、教会に集まり、神の言葉に聞き、主に従う私たちに、いつも私たちに問いかけます。

アンデレは、自分の兄弟をイエスさまのもとに連れて行くと、「イエスは彼を見つめて、『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファと呼ぶことにする』と言われた」とあります。ケファとは、イエスさまの一番弟子となるペトロのことです。この名前の意味は、岩です。名前というものは、その人自身を表します。存在や生き方を示すものとも言えます。名前が変わる、別の名で呼ばれ始めることは、新しい人生が始まることを意味します。主イエスに出会い、主の言葉に聞いて、ここから新しい歩みを始めるのです。誰の言葉に聞いて、その一歩を始めるのか、それが最も大切なことです。

私たちは、このように神の御前にあるにも関わらず、自分自身ですら、自分たちの願うことわからない人間です。神に立ち返ることなしには、正しさを知ることさえもできない罪人なのです。しかし、主なる神はそのことも、すべてご存知です。だからこそ神は、そのような私たちを救うために、主イエス・キリストをお与えになったのです。主は振り返り、問われます。「何を求めるのか。どうしたいのか。」私たちは、知らなければなりません。神の子羊である主イエス・キリストというお方が、どこに留まっておられるのか、なぜこの方が十字架で死ななければならなかったのか。私たち人間は、真実に聞くべき方の御言葉に聞いた時、主イエス・キリストに示された神の計り知れない愛を知った時、本当に新しい出来事へと一歩踏み出すことができるはずです。