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なぜ浮気は罪なのか

2016年10月2日

マタイによる福音書第5章27―32節
川崎 公平

主日礼拝

「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」。たいへん有名な主イエスの言葉です。文語で覚えた方も多いかもしれません。「すべて色情を懐きて女を見るものは、既に心のうち姦淫したるなり」。「もし右の目なんぢを躓かせば、抉り出して棄てよ」。「もし右の手なんぢを躓かせば、切りて棄てよ」。このような言葉に衝撃を受け、ひそかに悩み、あるいは絶望してしまった男性の数は相当多かったかもしれません。しかしまた、この言葉によって慰められた女性たちも、案外多かったのではないかと思います。いずれにしても、たいへん激しい言葉です。なぜ主イエスは、こういうことを言われたのでしょうか。

かつて牧師仲間同士のやり取りのなかで、ある人が「主イエスも性欲に苦しむことがあったのだろうか」と問いました。そんなことはあまり考えたくないなあ、などと私は思ったのですが、昨年全体集会でお招きしたキリスト品川教会の吉村和雄牧師が、すぐにご自分の考えを述べてくださいました。そうだ、主イエスも性欲を持っておられたし、罪に誘われたし、その苦しみも知っておられただろう。しかしその誘いに負けて罪を犯すことはなかった。そこでヘブライ人への手紙第4章15節を引用なさいました。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」。この「試練」という言葉は、「誘惑」と訳しても差支えない言葉です。主はあらゆる点で、わたしたちと同じ誘惑に遭われた。だからこそこのお方は、罪は犯されなかったが、あらゆる点において、私どもに同情してくださるのです。

ここで主イエスは、「姦淫するな」という戒めを取り上げておられます。その戒めひとつを巡っても、私どもがどういうことで苦しんでいるのか、どういうところで罪を犯しやすいのか、よく理解してくださり、なおかつ同情してくださるのです。そういう主イエスのお言葉を、今朝読んだのです。ここで主イエスは、「姦淫するな」という戒めを取り上げておられます。その戒めひとつを巡っても、私どもがどういうことで苦しんでいるのか、どういうところで罪を犯しやすいのか、よく理解してくださり、なおかつ同情してくださるのです。そういう主イエスのお言葉を、今朝読んだのです。

しかもこのところをよく読むと、主題は性欲そのものというよりは、むしろ結婚です。夫として生きる。妻として生きる。そのときに私どもが経験するあらゆる誘惑も試練も、主はよく知っていてくださいました。ある意味では、私どもの誰よりも、妻の苦しみ、夫の苦しみを知っていてくださるのです。そのお方が言われます。「姦淫するな」。言うまでもなく、私どもがいつも唱えている十戒の第七の戒めです。なぜかこの「姦淫」という言葉が、32節では「姦通」と言い換えられますが、原文では同じ言葉です。不倫とか浮気 とか、そういうことです。

ふと気になって、『広辞苑』で「姦通」という言葉を調べてみました。その次に「姦通罪」という項目があって、「夫のある女性が姦通する罪。相手方も処罰される。……男女平等の原則に反するので、1947年の刑法改正により削除」。つまり、既婚女性が不倫をしたら刑事罰の対象になるけれども、既婚の男性、たとえば私のような人間が妻以外の女性と肉体関係を持っても処罰の対象にはならない。男性は何をしてもいいが、逆はいけない。それは男女差別だということで、戦後廃止されたというのです。考えてみるとおかしなことで、男女平等というなら、男女平等に姦通罪を適用すればよいと思いますが、「それは困る」という男性のわがままな意見が勝ったということでしょう。

ここで主イエスが言おうとしておられることは、こういうことです。結婚は聖なるものであるから、目によっても心においても、夫はその妻を裏切るようなことをしてはならない。それはもちろん、ただ他の女性に無関心であればよいということではないでしょう。あなたの妻を最後まで愛し抜け、ということでしかありません。このような聖書の言葉に慰められた女性たちは、思いのほか多かったかもしれません。私はそう思います。

その関連で、ひとつ翻訳上の問題を指摘しておきたいと思います。新共同訳聖書は、「みだらな思いで〈他人の妻〉を見る者は」と訳しました。けれども先ほど読み上げた文語訳では「すべて色情を懐きて〈女〉を見るものは」と訳されました。口語訳聖書でも同様です。他人の妻ではなくて、女一般を情欲の対象として見るな。そうなると、性欲そのものが問題だということになります。けれどもここはやはり、新共同訳のように「他人の妻を」と理解した方がよいようです。性欲そのものが問題だというよりは、浮気をするな、神が結び合わせてくださった夫婦の関係を壊すな、ということです。だから31節以下でも、離婚禁止の教えが続くのです。

そのついでに、「みだらな思いで見る」というのは少し訳し過ぎかもしれません。直訳すれば、「欲するために見る者は」。この妻よりもあちらの奥さんの方がいいなあ。そのように「欲する」思いは、もちろん「みだらな思い」であることが多い。それは確かです。けれども結局のところ根本的な問題は、「他人の妻を欲する」ということです。なぜ欲しがるのでしょうか。

ここで主イエスが取り上げておられるのは、十戒の第七の戒めであると申しましたが、実はさらに、第十の戒めが関わっていることに気づきます。ふだん私どもは「汝、その隣人の家をむさぼるなかれ」と唱えます。けれどもここを聖書本文で読むと、「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」(出エジプト記第20章17節)。私どもが欲しがりそうな隣人のもの、その中で筆頭にあげられているのが「隣人の妻」です。妻を所有物のように扱うとはけしからん、という批判もあり得るかもしれませんが、実際には、隣人の妻を欲しがる心が存在します。隣人の妻、隣人の夫をうらやむ。もっといろんな隣人のものを欲しがっているかもしれません。そういうことを既に十戒が戒めているのを、主イエスはそのまま繰り返しただけです。その意味では、この言葉はわれわれ日本人にとっては衝撃的であったかもしれないけれども、主イエスの独創的な教えというわけでもなかったのです。

姦淫とは何か。別の妻を欲しがることです。今の夫とは別の夫がよかったな。お隣の奥さんのほうがよさそうだな。そういう考え方から、それこそ心の中で、心の底から自由になることは、私どもには不可能なことかもしれません。くどいようですが、主イエスはそういう私どもの弱さに同情できない方ではないのです。

結婚式のときに読まれる、誰でも知っている言葉があります。「その健やかなときも、病めるときも」、この人を愛し抜きますか、この人の、よき慰め手となることを誓いますか、というのです。「病めるときも」というのは、自分の相手が価値を失ったと思われるときにも、なおこれを愛するかと問われるのです。私自身、結婚式の司式をする人間としてよくこころに刻むのは、誓約の最後の言葉です。「よき慰め手となることを誓いますか」。しかし私どもの生活というのは、自分がこの人のよき慰め手となっているか、どうかということよりは――これは夫婦の関係に限ったことではないかもしれません――いつも周りを見回して、あの人は自分によくしてくれるか、あの人は自分を慰めてくれるか、どうか。いつもそういうことばかり問うているかもしれません。「あなたは、この人の慰め手になるつもりがあるのか」。主イエスにそう問われるのです。途方に暮れるほかありません。少なくとも私はそうです。

けれどもそこで気づくことがある。この妻は、この夫は、主イエスにとって、大切な存在なんだ。主イエスがそれほど大切にしてくださるこの相手を、私が軽んじてよいのか。むしろ私どもは、既に自分の隣人に注がれている主の愛を学びつつ、主の背を追いかけるようにして、愛に生きるのです。主イエスの背を必死で追い続けている限り、他人の妻をみだらな思いで見ている暇などなくなってしまうと思います。

10年以上前、私がある教会員同士の結婚式の司式をしたときに、忘れがたい出来事がありました。披露宴の席で、料理の献立や席次表、それに加えて、新郎新婦のプロフィールのようなものが配られました。ふたりがいくつかの質問に答えるという形です。「好きな食べ物」「苦手な食べ物」「相手の好きなところ」など。最後に「相手にお願いしたいこと」という項目がありました。皆さんだったら何をお書きになるか。このふたりは、「そのままでいい」「今のままでいい」。そういう趣旨のことを書きました。

披露宴の同じテーブルにいた、やはり同じ教会の女性が、「え? すごい!」 そしてすぐに自分の夫にそれを見せて、「ねえ、ちょっと、『そのままでいい』だって!」そう言われたご主人は微妙な苦笑いをしていましたけれども、この女性の方は一度離婚を経験なさった方で、その意味では深い悲しみを知っておられました。それだけに、「相手にお願いしたいこと」「そのままでいい」という言葉を読みながら、本当にうれしそうでした。

姦淫しないとは、たとえば、こういうことだと思うのです。この相手を与えてくださった神を重んじるとき、私どもは姦淫せずにすむ。他人の妻を欲しがる必要もなくなるのです。何よりも私どもが繰り返し教えられていることは、まず神が私どもを、そのあるがまま愛してくださったということです。私どもの歩みは、そこから始まる。

ヨハネによる福音書第8章1節以下に、たいへん印象深い記事があります。姦淫の現場を取り押さえられた女が、ファリサイ派の人たちによって主イエスの前に引きずり出された。そこでファリサイ派は主イエスに問います。「この女は姦淫の罪を犯しました。律法によれば、こういう女は石で打ち殺すことになっています。先生はどうお考えになりますか」。主イエスのこれまでの教えから考えると、ここで殺したらいい、という答えはなさそうだ。けれども、許してやりなさいと言われるならば、聖書の教えを無視することになる。それが彼らの仕掛けた罠です。もちろんこれは屁理屈で、そのことはすぐに明らかになりますけれども、彼らはそれが主に通用すると思っていたようです。ところが、主イエスは何もお答えになりませんでした。黙ってかがみ込み、指で地面に何かを書き始められました。これは私どもの心を打つ主のお姿です。主がこの情景を、どんなに深く悲しんでおられたか。

けれども、ファリサイ派の人びとがなおしつこく問い続けるので、主イエスは身を起こし、ただ一言おっしゃいました。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、この女を石で打ちなさい」。そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられました。そうしたら年長者から始めて、皆立ち去ってしまった。遂にこの女を罰し得た人はいませんでした。

姦淫の罪を犯した女と、主イエスだけが残されました。そこで主は言われました。「わたしも、あなたを罪に定めない。行きなさい。もう罪を犯すな」。主イエスは、この女の夫のことも考えておられたと思います。この夫婦がもう一度すこやかに歩み出すことを願っておられたと思います。何よりも確かなことは、この女は主イエスに愛された存在として家に帰ったということです。罪を赦されて、あるがまま主に愛されて夫のもとに帰ったとき、その生活は、既に根本的に新しくされたに違いないのです。私どもも、同じところに生かされているはずです。

私どもの多くは、姦淫の現場を取り押さえられ、そのことを人前でなじられるような経験はせずにすんでいるかもしれません。けれども自分の配偶者ひとり満足に愛し得ない惨めさを、ほかのどこでもない、主イエスの前でこそ知ります。このお方は、私どもの弱さに同情できない方ではない。そのことを知るのです。

その主イエスが語られた離婚禁止の戒めもまた、法律の条文のように読もうとするとおかしなことになります。それこそ、あのファリサイ派の人たちと同じです。姦淫の禁止にしても、離婚の禁止にしても、これは神のご意志です。神は、私どもに幸せになってほしいと願っておられるのです。その神のご意志が、このような言葉遣いで表現されているということに気づいていなければなりません。

もちろん現実には、離婚せざるを得ないこともあるのです。一刻も早く別れなさいと、牧師として助言しなければならないことだっていくらでもあるし、離婚の決断をしなければならなかった人の信仰が間違っているなどと考える必要もないのです。大切なことは、決して私どもをえり好みなさらなかった主イエスの愛を受け入れることです。その主イエスの愛に従って、私どもも愛に生きることです。そのようにして私どもの全生活が救われる。そのことを私どもの望みとしたいと願います。