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どこまで赦せるのか

2016年7月3日

マタイによる福音書第5章7節
川﨑 公平

主日礼拝

「憐れみ深い人々は、幸いである」。この言葉に対して、「なんだ、当たり前のことが書いてある」という感想があり得るかもしれません。別に主イエスでなくたって、この程度のことは誰でも教えるであろう。「憐れみ深い」という日本語がしっくりこなければ、「他人の痛みに同情できる人は幸いだ」と言い換えてもよいのです。私どもが子どもの頃から教えられていることです。人には親切にしなさい。意地悪ではいけない。しかし、この分かり切ったことがなかなか分かり切ったことにならないのが、私どもの生活の実情であるとも思うのです。

昨夜、私の友人がインターネット上(フェイスブック)にあるところで見つけた七夕飾りの写真を紹介してくれました。明らかに姉と妹とおぼしきふたりが、それぞれ短冊に願い事を書いている。妹の方の短冊には、「おねいちゃんがなかよくなれますように」。それに対して、そのお姉ちゃんが何と書いたかというと、「妹がもっとかわいくなりますように」。「妹」という漢字が書けているあたり、もう大きい子でしょうね。妹の文章はたいへん幼い感じがしますが、「おねいちゃんが」と書いているあたり、何だか強い気持ちを感じます。つまり、「わたしが、おねえちゃんとなかよくできますように」というのではなくて、「おねいちゃんが」。私は悪くない。「おねいちゃんが」仲良くできないのが悪い。そういう強い主張を感じます。けれども実は姉の方も似たようなことを考えているのであって、「妹がもっとかわいくなりますように」。

その二枚の短冊を紹介してくれた友人が、ひと言感想を書きました。「切ない」。私は切なくなる前に噴き出してしまったのですが、切なくなるのが本当であったかもしれません。おそらく私どもは、一生同じことを続けているのです。「夫が、なかよくなれますように」。「妻がもっとかわいくなりますように」。「姑が」。「嫁が」。「親が」。「息子が」。「娘が」。どこででも起こっていることです。

「憐れみ深い人々は、幸いである」。当たり前のことでしょうか。私どもが深いところで問い続けていることは、自分が隣人に対して憐れみ深いかどうか、そのことについて真剣に悩むというよりも、話はまったく逆で、「この人は私に対して憐れみ深いか。この人はどうか、あの人はどうか」。そのようなところに、主イエスの言葉が投げ込まれるのです。「憐れみ深い人々は、幸いである」。「あなたは、幸せですか」。これは、私どもに対するたいへん厳しい挑戦であると言ってもよいと思うのです。

私どもは、特に信仰を持っている人間は、よく知っているのです。たとえば今のような話を礼拝で聞かされて、もう一度決心してみる。このままじゃだめだ。ひとつ悔い改めて、憐れみ深い人になってみよう。そういう私どもの決心がどんなに頼りないかということは、私ども自身がよく知っています。憐れみに生きる。愛に生きる。親切にする。いろいろ言い換えても結局同じことで、非常に難しいことです。そしてその難しい原因は、自分ではなくて他人にあると、いつも私どもは考えているのです。人に親切にしようとしても、親切にすればするほど付け上がったり、無視されたり、誤解されたり、それどころか恩を仇で返されたり。私どもは既にどこかで、人間に絶望しているのかもしれません。

ある人は、この「憐れみ」という言葉は「同情」を意味すると言いました。英語ではシンパシー、それをさらにギリシア語にさかのぼって理解すると「共に苦しむ」という言葉です。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」という聖書の言葉を思い起こしてもよいかもしれません。しかし、「同情」という日本語もよい言葉です。同じこころに生きるのです。それがどんなに難しいかということは、くどくど説明する必要もないと思います。「夫が、なかよくなれますように」。「妻がもっとかわいくなりますように」。そういうことばかり願っている私どもの心の深いところに、同じこころに生きる、あるいは苦しむ者と共に苦しむこころが欠けていることは、いくらでもあるのです。それは、やはり切ないことです。

私どもは、もちろん七夕の神などいないと信じています。けれども同時に、ただひとりの真実の神が、たとえば「おねいちゃんがなかよくなれますように」「妹がもっとかわいくなりますように」というような願い事にも、とにかく耳を傾けてくださっていると信じます。神がそういう短冊を、「あ~、かわいいなあ」とご覧になるだろうか。一方ではそうかもしれません。この小さなふたり姉妹の短冊を、神がどんなにいとおしくご覧になっているか。それはそうだと思います。けれども、それだけではないのではないか。「神よ、夫がなかよくなれますように」。「神よ、妻がもっとかわいくなりますように」。……おそらく神は、この短冊を紹介してくれた友人が「切ない」と書いた、それよりもなお深く、神は切なさを感じておられたのではないか。私はそう思うのです。

「憐れみ深い人々は、幸いである」という、この言葉は、神の私どもに対する切ない思いがあふれ出た、ひとつの現れです。神が切なさに耐えながら、「わたしは、あなたがたに、本当に幸せになってほしいんだ。憐れみ深い人こそが、幸せなんだ」。その神の思いの深さに、気づくべきです。

ところで、先ほどからこの「憐れみ」という言葉について、たとえば「同情」とか「親切」とか言い換えてまいりましたが、新約聖書が書かれたギリシア語の世界では、それで間違いないようです。けれどももうひとつ大切なことは、この言葉は旧約聖書の背景を知らないと正しく理解することはできないということです。旧約聖書のヘブライ語において、この「憐れみ」という言葉がどういう言葉に対応するか。人間の感情というよりは、法的なこと、たとえば「正義」とか「裁き」という意味合いを持つようです。神が、正義の神として、裁きの神として、その正しさを私ども人間に対しても貫かれる。そういうニュアンスが、ここでの「憐れみ」という言葉の背後にあると言うのです。

これは少し意外なことかもしれません。聖書をよく知っている人間こそ、分かりにくいかもしれません。つまり、こういう誤解があると思うのです。「もし神がその正しさを貫かれたら、われわれ罪人はひとたまりもない。けれども神は正義の神であるだけではなく、他方で憐れみの神でもあられるから、その憐れみによってわれわれは救われたのだ」。けれどもここではそうではない。神の義と神の憐れみとは、ひとつのことなのです。

そのことを理解するために助けになるのは、旧約聖書の創世記第18章の後半にある、ソドムとゴモラという町を神が滅ぼされたという物語です。たいへん繁栄した町でしたが、そのためにかえって、人の罪が極限に達した。本来人間は、神に造られた存在です。その神に造られた人間が、もしも神の本来の創造の目的から離れてしまったならば、その時点で人間は存在の意味を失う。これは神の正論です。そして神がその正論を押し通されたとき、大きな都市がまるごと焼き滅ぼされるということが起こったのです。

ところが、これらの町を救うために、アブラハムという人が神の前に立ちはだかりました。こう言ったのです。

「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか」。

神よ、あなたは正しい方であるはずです。それならば、もし五十人の正しい人がこの町にいるなら、どうぞこの町を滅ぼさないでください。あなたが正しい方であるならば、必ずそうなさるはずですよね。そう言ったのです。それに対して神は答えられました。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう」。ここに、神の義と憐れみがまったくひとつのものとして現れてきています。

ところでさらに興味深いのは、アブラハムはなお神との交渉を続けるのです。

アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか」。主は言われた。「もし、四十五人いれば滅ぼさない」。アブラハムは重ねて言った。「もしかすると、四十人しかいないかもしれません」。……

アブラハムはそのように、「三十人しかいないかもしれません」「二十人しかいないかもしれません」「十人しかいないかもしれません」と神との交渉を続け、遂に神から、「その十人のために、わたしは町全体を赦す」という言葉を引き出すのです。「わたしは正義の神だから、十人の正しい人がいれば、この町全体を赦す」。しかし第19章に進みますと、神はソドムの町にたった十人の正しい人をも見つけることがおできにならず、そのためにこの町は火で焼き滅ぼされてしまいます。

のちに、このような聖書の読み方の伝統が生まれました。しかし、われわれはどうなのか。なぜこの世界は今、神によって焼き滅ぼされていないのか。ただひとりの正しい人、主イエス・キリストが、私どものために執り成してくださったからでしかない。十字架の上で。「神よ、どうかわたしに免じて、この人たちを滅ぼさないでください」。この主イエスの執り成しに支えられて、今生かされている私どもなのであります。それはまさに、切ないほどに私どもを愛してくださった神が、その愛のゆえに、ご自身の正しさを貫く決心をなさったということなのです。「ただひとりの正しい人イエスのゆえに、わたしはあなたがたを滅ぼさない。それが、わたしのやり方だ。ここに、わたしはわたしの義を立てる」。

この神の正しさ、この神の憐れみを知っている私どもは、隣人に対してもまた、正しい振る舞いをすることが求められるし、それができるようにさせていただいているのです。そこでもうひとつ読みたいのが、マタイ福音書第18章23節以下の主イエスの譬え話です。一万タラントンという莫大な借金を負ってしまった家来が、けれども主君の憐れみによって借金を帳消しにしていただいたという話です。それもまた、神が神としての正しさを貫いてくださったということでしかないのです。けれども話はそこで終わらないのであって、この家来は、「自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ」。けれどもこれを赦さず、牢屋に閉じ込めたというのです。そのとき、神はいったいどうなさるだろうかと、主イエスは私どもに問いかけておられる。そのような譬え話です。

主イエスはこのように譬え話を結んでおられます。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」。それこそ子どもにだって分かるはずのことです。しかも私どもは、この物語が本当は分かりにくい、非常に難しいものであることに気づいているのです。たとえば、主イエスはここで、この家来が赦すことのできなかった隣人への借金の額を、百デナリオンと譬えておられます。労働者の賃金百日分です。皆さんの年収の三分の一、あるいは四分の一。決して小さい額ではありません。「あなたの痛みの大きさは、よく分かる」と主がおっしゃっているように思えてなりません。赦すということは、痛みを伴うことです。そしておそらく私どもは、百デナリオンよりもっと小さい額のところで呟き続けていると思います。「おねえちゃんが」「妹が」「親が」「妻が」「夫が」……。痛みの中で、小さな正義を振り回します。しかし、それは決して、神の正しさに適う正しさにはなっていないのです。

私どももまた、神の憐れみなくして生きていけないのです。いちばん近くにいる隣人の痛みすら本当の意味で分かち合うことのできない私どもです。子どもの頃から、ずっとそうだったのです。切ないことです。けれども神は、私ども以上に私どものことを切なく思い、深く憐れんでくださったのです。

その神の招きの言葉であります。「憐れみ深い人々は、幸いである」。「どうか、あなたには幸せになってほしい」。この招きに応えて、神の憐れみの中に立つほか、私どもが人間として幸いに生きる道もないのです。