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救いの突入

2016年2月7日

マタイによる福音書第1章17節
川﨑 公平

主日礼拝

今日から、マタイによる福音書を礼拝で読み始めます。最後まで読み終えるのに何年かかるか、まだ予想できません。2年や3年では終わらないことは確かです。そこで皆さんにも覚えていただきたいことは、2年や3年も待つまでもなく、来年の10月には、私どもの教会の伝道開始100年の刻みの時を迎えます。そのことも意識しながら、この福音書を読み始めたいと思います。

この「伝道開始」というものの言い方は、私がこの教会に来るまでは知らなかったものです。ふつうは「教会創立何年」という言い方をすることが多いと思います。しかし私どもは、組織としての教会が作られた日付よりも、最初の集会が行われた日付を大切にしてまいりました。その日以来、私どもが続けてきたことは伝道です。道を伝えると書いて〈伝道〉。私どもにとって伝えるべき道とは、「わたしが道である」と言われた方、イエス・キリストのことでしかありません。この福音書を読むことによって礼拝の生活を作りながら、私どもは、何と言っても、イエスというお方のことをあらゆる人びとに紹介したいと願います。

そのお方の系図を、今日は読みました。新約聖書の最初の頁がこのようなカタカナの名前の羅列であるということは、案外多くの人が知っていることかもしれません。そしてそのことは、消極的な感想を生むかもしれません。なぜいきなり、こんなわけのわからない系図から読み始めなければならないか。

新約聖書の最初の頁を正しく理解するために、どうしても必要なことは、やはり聖書をきちんと読むことだと思います。「きちんと読む」というのは、ここでは、聖書を通読するということです。ここは、きっぱり言い切った方がよいと思いますが、聖書は通読すべきものです。たとえば一冊の小説を取り上げて、最初の部分だけ読みましたとか、後半の四分の一だけを読みましたというのでは、本当にその本を読んだとは言えません。聖書の一部しか読んだことがないのであれば、その人は、まだ聖書を読んだことがないということになると思います。

もうひとつ大切なことがあります。聖書を通読するというときに、ときどき勧められる方法は、たとえば、旧約聖書を1日3章、新約聖書を1日1章というように、旧約と新約を並行して読むという方法です。しかし、あまり聖書を小説と類比させるのは適当でないかもしれませんが、小説の前半部分と後半部分を少しずつ並行して読むというのは、かなり変則的な読み方であると言わざるを得ません。読むなら、旧約聖書の最初の頁から新約聖書の最後の頁まで、順番通りに読むべきです。聖書自身が、そのように読まれることを求めていると私は思います。

このようにさんざん偉そうなことを言っておいて何ですが、私はそのような意味で聖書を通読したことは、実は一度しかありません(旧約と新約を並行して、という通読の仕方なら何度かありますが)。しかもその一度というのは、実はつい数年前のことで……。偉そうなことを言ってすみませんでした。

5年前の夏休み、10日間で聖書を通読しました。新共同訳では聖書は約二千頁ですから、1日あたり約200頁。こういう聖書の読み方をすることはなかなか少ないのではないでしょうか。少なくとも今の私には、そういう贅沢な時間を確保することは難しくなっていますから、皆さんを裁くつもりは毛頭ないのです。しかしぜひ皆さんにもお勧めしたい。ぜひ一度は、なるべく集中して短い時間で、聖書を最初から最後まで通読なさるとよいと思います。先ほどから聖書を小説に類比させるようなことを申し上げていますが、10日間で聖書を通読して、私は壮大な歴史小説を一気読みしたような感動を覚えました。

そのときに、何と言ってもいちばん感動した箇所が、このマタイによる福音書の最初の頁でした。まず旧約聖書を、来る日も来る日も聖書の中に首を突っ込むように読み続け……旧約聖書とは、要するに、神に愛された罪人の歴史です。神の愛の御手を振り払うように、神の御心を無視して生きた人間が、どんなに悲惨なところに落ち込んでしまったか。その人間を、神がなおどこまでも追いかけてくださった、神の愛の歴史です。その旧約聖書が閉じられ、新約聖書の最初の頁。そこにこのような系図をマタイが記したとき、マタイは、旧約聖書が伝える、神と人間との間に作られた歴史を鮮やかに思い起こしていたと思います。そしてその歴史の最後にこう記した。「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」。私はこの言葉を読んだとき、激しく心を揺り動かされました。そうだ、神はそれでも人間を諦めるようなことはなさらなかったのだ。この人間の歴史の中に、「イエス」というお方が、突入してくださったのだ。神の愛そのものであられるお方が、この系図の中に、名を記してくださったのだ。

だからこそこの福音書は、この第一章の後半では改めて、このイエスというお方の名を「インマヌエル」と呼び直しました。「神はわたしたちと共におられる」という意味の言葉です。私どもが福音として聞き取るべきこと、そして、私どもが福音として宣べ伝えるべきことも、このこと以外にはないのです。神が共にいてくださる。あなたと共にいてくださるのだ。

マタイはここで、「アブラハムの子、イエス・キリスト」と言いました。このお方は、アブラハムの子。創世記第12章において、神がアブラハムに語りかけてくださいました。「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」。イスラエルという神に選ばれた民の歴史は、このアブラハムの選びから始まりました。自分たちはアブラハムの子孫、その意味で神に選ばれた種族なのだということが、ユダヤ人のアイデンティティになりました。けれどもマタイによる福音書がここで、アブラハムの子イエス・キリストと書いたとき、思い上がった選民意識などはなかったと思います。「地上の氏族はすべて」。つまり、私ども日本人も、ということです。すべての民が、神の祝福を受ける。そのために、アブラハムの子孫として、イエスというお方が生まれてくださったのです。だからこそ、このお方の名はすべての人にとってかけがえのないものになりました。

ヘブライ人への手紙第2章にこのような言葉があります。「イエスは、わたしたちを兄弟と呼ぶことを恥となさらない」と言うのです。アブラハム、イサク、ヤコブから始まって、この系図に現れる人びとの親戚と呼ばれることを恥となさらない。このわたしの兄弟と呼ばれることも恥となさらない。すべての人が神の祝福に入るとは、そういうことです。イエス・キリスト、このお方がわたしの兄弟として、共にいてくださるのです。

ところで、「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」ということは、裏を返せば、主イエスに恥ずかしがられてもしかたのない私どもであったことを意味します。私どもも、自分の親戚に有名な人、偉い人がいれば、何となく誇らしい思いになると思いますし、逆に自分の親戚の中に刑務所に入ったことのある人がひとりでもいたら、必死になってそれを隠すことがあると思います。そういう意味では、系図というのは、案外私どもにとって切実な意味を持つものだと思います。

新約聖書の最初の頁がいきなり系図から始まるということは、消極的な印象を呼び起こしたかもしれないということを申しました。それは、これが他人の系図だと思うからです。もしこれが自分と関係の深い系図だったら、私どもはたちまち目が覚めるでしょう。私どもは案外、自分の親戚筋にどういう人がいるかということにこだわっているものです。自分の子どもを三人も東大医学部に行かせた母親のことが話題になるのも、そういう思いに通じるかもしれません。そういうところでごそごそやっている私どものところに、聖書の言葉が飛び込んでくる。「主イエスは、あなたの兄弟であることを恥ずかしがっておられないよ」。それはいったい、何を意味するのでしょうか。
この系図は、アブラハムからイエス・キリストに至る系図です。その意味では、これはイスラエルという特別な民族の歴史です。その歴史を、マタイは、このように捉えてみせます。

「こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である」(17節)。

アブラハムの選びから、ダビデ王を経て、バビロンへの移住を経験したのち、イエス・キリストに至る。これが神の民の歴史である。バビロンへの移住というのは、別に移住したくて移住したわけではありません。強制連行されたということです。紀元前6世紀のことです。国の主だった人たち、そして多くの市民たちが、ごっそり外国に連行された。これ以上ないしかたで、国を失う経験をしたのです。その経験のただ中で編纂された歴史書が、旧約聖書のサムエル記、そして列王記です。紀元前6世紀の人たちが、それよりも4、5世紀前の歴史をまとめたのです。21世紀の私どもが16世紀の日本の歴史をまとめるのよりも、ずっとたいへんなことであったと思いますが、なぜそういうことをしたのか、すぐにお気づきになると思います。なぜ国が滅びたのか。その背後にある神の思いを尋ねようとしたのです。神がわれわれをお見捨てになったのか。違う。われわれが神を捨てたのだ。その結果がこれだ。

そこでイスラエルの人びとが、どうしても500年前のことを振り返らなければならなかった、ひとつの核になる出来事が、今日読みました系図で言えば6節です。「エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」。サムエル記下第11章以下に記される事件です。王ダビデが、自分の部下のウリヤの妻がたいへん美しいのを見て、こっそり自分のものにしてしまった。しかもそのあと、自分の責任を隠蔽するために、ウリヤをたいへん卑怯な方法で殺してしまったというのです。もし私が同じように、浮気と殺人の両方を実行したら、鎌倉雪ノ下教会の牧師であり続けることは不可能です。そのために日本が滅びることはないでしょうが、家庭は崩れるでしょうし、鎌倉雪ノ下教会も若干揺らぐかもしれません。しかし、サムエル記を編纂した人びとは、ここにも国が滅びたひとつのきっかけを見ていたと思います。

言うまでもなく、彼らはダビデひとりの罪を糾弾したのではありません。なぜ国が滅びたのか。われわれが神の前に罪を犯したからだ。ダビデのみならず、そのあとに続く王たちの作った歴史もまた、神の愛を軽んじた歴史でしかなかった。それがバビロンへの強制連行に至り、さらにそれが、イエス・キリストの誕生に至ったのです。その背後にある神の思いを、この系図を書いたマタイは、深い悔い改めと、深い感謝をもって読み取っていたに違いないのです。

マタイにとっても、この系図は、他人事ではありませんでした。私どもにとっても、他人事ではないのです。主イエスがわたしたちと共にいてくださる。罪人のわたしの兄弟と呼ばれることを、恥となさらない。ここに、旧新約聖書を貫く神の愛があります。この神の愛の前に立ちながら、私どもがそれに対してどういう態度を取るか。もちろんそのことも問われます。

ユダヤの人びとが、自分たちの歴史をこのように振り返ったとき、もうひとつ、時代を大きく画することがありました。それは、なぜイスラエルという国が王を持つようになったかということです(サムエル記上第8章)。ダビデの先代にあたるサウルが、イスラエルの初代の王でした。それまで王というものを持たなかったこの国が、なぜ王を持つようになったのか。人びとが王を求めたからです。周辺の国々と同じように、自分たちも王に支配される国になりたい。人びとが、預言者サムエルに、そのことを強く求めました。そのことでサムエルは深く悩み、しかし祈りの中で主の声を聞きます。「彼らの言う通りにしなさい。彼らが王を求めるのは、神であるわたしを捨てたがっているのだ」。そう言って、神は民の求めるままに、王をお与えになりました。けれどもサムエル記は、そこに国家滅亡の端緒を見出すのです。

しかし、私どもはどうなのでしょうか。真実の支配者である神を捨てて、人間は本当に人間らしく生きることができるのでしょうか。

そのような私どものために与えられた真実の王が、イエスというお方です。マタイによる福音書は、この系図の最後に、「イエス」という名を記すことができました。神を捨てた民の歴史の中に、神ご自身が、もう一度突入してくださったのです。この名を他にして、私どもの真実の王を見出すことはできません。このイエスのみ名を証しするために、この鎌倉雪ノ下教会も建てられているのです。