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愛のしるし

2015年12月24日

ルカによる福音書第2章8ー20節
川﨑 公平

クリスマス讃美礼拝

今年もこのように、皆さんと一緒にクリスマスを祝うことができることを、心から感謝しております。神が今夜、ここに集めてくださった、皆さまひとりひとりであると信じます。皆さまおひとりおひとりの上に、主イエス・キリストの祝福を祈ります。

イエス・キリストというお方は、今から約二千年前、ユダヤのベツレヘムにお生まれになりました。その救い主の誕生を、それよりもさらに何百年も前に預言していたイザヤという預言者がおりました。今日礼拝の最初に読んだのも、預言者イザヤの言葉でしたし、皆さんと一緒に歌った讃美歌の中にも、イザヤというカタカナの名前が出てきたことにお気づきになったかもしれません。心を込めて、イザヤは人びとに告げた。必ず、神が救い主を送ってくださる。神は、われわれのことを忘れてはおられない。そのことを信じよう。

このイザヤという人が語った、このような言葉があります。私はこの秋、あるきっかけがありまして、このイザヤの言葉がずっと頭から離れなくなりました。イザヤ書第66章13節というところに、こういう言葉があるのです。

母がその子を慰めるように
わたしはあなたがたを慰める。
母がその子を慰めるように、神は、あなたがたを慰めたいのだ。それが、神のご意志なのだ。この神の思いを信じよう。

今日、この礼拝においでになった皆さんに、まずこの聖書の言葉を贈りたいと思います。この神の思いを、皆さんに贈りたいと思います。「母がその子を慰めるように わたしはあなたがたを慰める」。この神の思いを、ぜひ大切に受け取っていただきたいのです。神の親心を、軽んじないでいただきたいのです。この神の思いに気づくことさえできれば、本当は、もう他に何もいらないのではないでしょうか。私はそう信じています。

例年のように、ルカによる福音書の伝えるクリスマスの物語を聖書から読んでいただきました。改めて思う。クリスマスというのは、まさに、「母がその子を慰めるように わたしはあなたがたを慰める」という神の思いが、はっきりと現れた出来事だと思うのです。

恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。

見なさい、あなたのための救い主だ。あなたのために神がなさったこの出来事を、よく見なさい。このとき以来、この世界は、神に愛されている世界であることが、明らかになりました。「母がその子を慰めるように」、神はこの世界を慰めたいのだという、神の思いが明らかになりました。

「そのしるしは、これである」。言い換えれば、神の愛のしるしは、これである、と天使は告げてくれました。ルカによる福音書第2章12節です。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。

「しるし」という言葉がここに出てきます。それを言い換えて、今日の私のお話の題を「愛のしるし」といたしました。「これがあなたがたへのしるしである」。このしるしを見なさい。このしるしを見れば、神の愛が分かる。しかし、〈しるし〉とは、いったい何でしょうか。

改めてこの言葉を、原文のギリシア語にさかのぼって調べ直してみました。どういう意味があるか。ひとつには、「記号」とか「合図」とか、英語で言えばサインとかシグナルというような意味があります。神の愛とか何とか言っても、抽象的でよく分からないけれども、目に見えるしるしがあると、ああ、そういうことかと、よく分かる。そういうところから、この言葉は「奇跡」という意味も持つようになりました。ものすごい奇跡を見せられて、ああ、本当だ、こんなすごい証拠を見せられたら、神を信じないわけにはいかない、ということになるのです。ですからまた、この言葉は「証拠」という意味を持つこともあります。「神の愛のしるし」。言い換えれば、「神の愛の証拠」であります。

しかし、そういうことを考えながら、もう一度この天使の言葉を読み直してみると、少しふしぎな思いがいたします。「これがあなたがたへのしるしだ」と言われても、何がどうしるしになっているんだか、分かりにくいかもしれません。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」。それが、神の愛のしるしである。それを「神の愛の証拠」と言い直してみると、いやあ、赤ちゃんが寝ているくらいじゃあ、証拠にはなりにくいんじゃないか、ということになるかもしれません。まして奇跡という意味からはかけ離れています。別にこの赤ちゃんに、それらしい後光が射していたわけでもないのです。何の変哲もない、ただの赤ん坊です。「これがあなたがたへのしるしである」。この赤ちゃんを見なさい。この赤ちゃんを見て、悟るべきことを悟りなさい。それはいったい、どういうことを意味するのだろうかということを、私は改めて考えてみました。

赤ちゃんというのは、この世でいちばん弱い存在であると言えるかもしれません。いちばん守られなければならない存在、もっと言えば、いちばん慰められなければならない存在として、神の御子がお生まれになりました。それがあなたがたへのしるしであると言われるのです。

私どもは、素朴に言って、赤ちゃんを見るのが好きだと思います。赤ちゃんを見ていると、それだけで、心が和みます。これは人間に限らないかもしれません。どんな動物でも、赤ちゃんというのは例外なくかわいいものです。うちの息子もいつの間にか二歳になり、もう赤ちゃんとは言いにくい大きさになりましたが、まだ今のところは、いろんな人に「かわいい、かわいい」と言ってもらえます。すぐにそんな時期は終わってしまうのでしょうが。特に機嫌のいい時には、親と一緒に町を歩くと、すれ違うすべての人に笑顔を振りまき、手を振って、「バイバーイ、バイバーイ」などと言います。たいていの人は、見ず知らずの息子に笑顔を返してくれます。もし私のような者が同じような真似をしたら、皆恐れをなして逃げていくでしょうが、二歳の息子には笑顔を返してくれる。羊飼いたちに与えられた「しるし」というのは、まず単純に言って、そういうことだと思います。そして私どもが、幼子を見て心が和むのは、この幼子が誰かに愛されている、守られている、慰められていることを知るからだと思います。

このイエス・キリストというお方が、のちにこのような印象深いことを言われたことがありました。「神の国は、乳飲み子のような者たちのものだ」。「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決して神の国に入ることはできない」。それは、「子どものように神の愛を受け入れる者でなければ」と言ってもよいのです。それは、主イエスが弟子たちと一緒に旅をしておられたときのことです。ある人びとが赤ちゃんを連れてきて、ぜひイエスさまに抱っこしていただけないかと願ったというのです。ところが弟子たちは、主イエスに配慮したつもりだったのでしょうが、先生はお疲れなんだからそんなことをするなと追い返そうとしました。ところが主イエスはそこで、怒りをあらわになさって、「邪魔をするな」と言われました。「わたしは、この赤ちゃんたちを、祝福したいのだ」。そして、その赤ちゃんを実際に抱っこしながら言われました。「神の国はこのような者たちのものである」。私が今、この子どもを抱っこしている。そのことの意味が分かるか。この姿を見て、見るべきものを見なさい。悟るべきことを悟りなさい。そこで主イエスがおっしゃりたかったことは、決して難しいことではない。乳飲み子にしても二歳児にしても、決定的なことは、自分の力で生きてはいないということです。抱かれている。守られている。何よりも、愛されているのです。

大人である私どもは、違うのでしょうか。……そんなことは、決してないのです。「母がその子を慰めるように わたしはあなたがたを慰めたいのだ」。この神の思い、神の親心が鮮やかに現れたのが、クリスマスの出来事なのです。

しかも、私どもがこころを打たれることは、この神の思いを示すしるしが、あの乳飲み子イエスであったということです。神の御子、私どもの信仰に従って言えば、神ご自身、神そのものであられるお方が、乳飲み子としてお生まれになりました。この世でいちばん弱い、この世でいちばん母の慰めを必要とする姿でお生まれになったのであります。

あえてこう言ってもいいと思うのです。主イエス・キリストというお方は、実は、私どもの誰よりも、神の慰め、母の慰めにも似た神の慰めを必要とする存在としてお生まれになったのです。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている、あの乳飲み子」というのは、そのような存在であったのです。いやいや、それはおかしい、神の御子ともあろうお方が、誰かに慰められなければいけないなんて、などと考える必要はありません。むしろ私どもは、主イエスよりもずっと、間違った意味で自立してしまっているのではないかと思います。神さまなんかに頼らない。自分は自分で生きていく。そのようにして、神さまから離れてしまっている。けれども、それは神の親心を裏切ることです。

その意味では、クリスマスというのは、イエス・キリストの誕生の記念の日でもありますが、私どもの新しい誕生の日であるとも言えると思います。神に愛された神の子として、新しく生まれるのです。

主イエス・キリストというお方は、十字架につけられました。最後に、「わたしの神よ、わたしの神よ、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫びながら、息を引き取られました。そのような聖書の記事があることも、ご存じの方が多いかもしれません。しかしこの主イエスの最期については、多くの人が首をかしげました。なぜ神の御子ともあろうお方が、こんな情けない死にざまを見せたか。しかしある神学者は、単純にこう言いました。このお方は、われわれの身代わりになって、このように叫んでくださったのだ。「神さま、どうか見捨てないでください」。ここにむしろ、本物の神の子の姿が見えたのだ。

私どもはもしかしたら、神さまから離れてしまって、あまり本気でそんな叫びを挙げることもないかもしれません。そういう私どもに代わって、このお方は本気で神を呼び続けられたのです。母に捨てられた幼子のように、あらん限りの大声で、父なる神の慰めをお求めになったのです。だからこの神学者は続けてこうも言います。われわれの人生の歩みもまた、絶望を知っている。けれどもそのわれわれの絶望を、主イエス・キリストというお方は、なお深いところで一緒に担っていてくださるのだ。

今、皆さんの中に、絶望しかかっておられる方があるならば、そのような方こそ、本気で神を呼んでほしい。「神さま、見捨てないでください」と、本気で神さまを呼んでほしい。まさにそのようなところで、私どもは、主イエス・キリスト、このお方が私と一緒にいてくださるという恵みの事実を見出すのだと思います。

神はこの主イエス・キリストを、死者の中から復活させてくださいました。そこにも、神の思いが鮮やかに示されました。母がその子を慰めるように、神はイエス・キリストを慰めてくださいました。神は、生きておられるのです。その神の思いが、皆さんひとりひとりにも及んでいると信じて、私は今ここに立ちます。今夜、皆さんをここに集めてくださったのは、私どもの父なる神であると私は信じます。その神が、どうしてもしたいことがある。「母がその子を慰めるように わたしはあなたがたを慰める」。あの飼い葉桶の乳飲み子こそが、この神の愛のしるしなのです。