神に引き抜かれた教会
ペトロの手紙Ⅰ第1章1―2節
川﨑 公平
主日礼拝
今朝の礼拝からしばらく、私が説教するときには、ペトロの手紙Ⅰを読みます。主イエスの12弟子のひとりの、ペトロの手紙です。多くの人が、このペトロという弟子に心惹かれてきました。ふしぎな魅力を持った人物です。主イエスに呼ばれて弟子とされ、しかも何度となくみじめな失敗を重ねた弟子です。
元来ガリラヤの漁師でした。ある日、漁の仕事をしていたときに、主イエスに突然声をかけられました。「わたしについて来なさい」。ペトロはすぐに舟を捨て、網を捨て、家族を捨て、そして故郷を捨てて、主イエスに従って行きました。のちに教会の指導者になりました。そのペトロの言葉を、今私どもはこの日本という国で、改めて学び始めようとしています。考えてみるとふしぎなご縁です。ペトロは、「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地」の教会にあててこの手紙を書きました。まさかその自分の手紙が、こんなに遠い場所で読まれるとは思わなかったかもしれません。
ただし、現代の多くの学者は、ペトロが直接筆を執ってこの手紙を書いたとは考えません。だからと言って、ペトロとまったく無関係の手紙だと考えるのも不自然です。この手紙の結びの第5章12節に、「わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き」とあります。なぜシルワノという人の手を借りたのでしょうか。この手紙は、他の新約聖書の文書と同様、ギリシア語で書かれました。ギリシア語というのは、当時のいわゆる国際語であって、教養のある人が当然身につけなければならない言葉でしたが、ガリラヤの漁師であったペトロには少し難しかったと思います。そのペトロの助け手としてこの手紙を綴ったのが、シルワノという人ではなかったかと言われます。
ついでに第5章13節には、「共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています」とあります。このバビロンというのは、ローマ帝国、あるいはその首都であるローマを意味します。旧約時代、神の民イスラエルを苦しめたバビロンの名が、今はローマという、教会を迫害する力を意味する言葉として使われているのです。ペトロ自身が、ローマで殉教したと伝えられます。そういう迫害の危険を既に肌に感じながら、ペトロはシルワノという信頼している兄弟の手を借りながら、自分の信仰の言葉を伝えたのです。
確かにこの手紙を読むと、当時の教会に迫っていた迫害の様子を読み取ることができます。既に第1章1節にこうありました。「離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」。ばらばらに散らされ、自分の故郷を失い、しかもそこで神に選ばれている人たち。ペトロは教会の人たちに、そのように呼びかけます。なぜ、そういうことになるのでしょうか。
たとえば、日本人が日本の教会で洗礼を受ける。当然日本人のままです。鎌倉の人が鎌倉の教会で洗礼を受けたからといって、鎌倉の生活を捨てるわけではありません。ここに出てくる、ポントスとかガラテヤという土地の人たちも同じだったと思います。ペトロは鎌倉雪ノ下教会の皆さんのことも、同じように「離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」と呼ぶと思います。洗礼を受けるとき、私どもは、ある意味で日本人であることをやめるのです。神に救われるということは、最も深いところにおいて、自分の故郷を失うということを意味するのです。
伊勢神宮の目の前に建つ教会で30年間伝道した牧師がいます。私の尊敬する先輩のひとりです。この牧師が、かつての教会が経験した迫害と、伊勢の伝道の歴史とを重ね合わせながら、ペトロの手紙Ⅰを興味深く説く文章を書いておられます。いわゆる国家神道を支えた町です。特に戦争中は、伊勢こそが日本の中心という意識さえあった町で、伊勢神宮の目の前にある教会堂に集まるということは、既に日本人でなくなることを意味しました。非国民と呼ばれたのです。
そのようなところで、いつも私どもが繰り返し問うべき問いがあります。「なぜ、わたしはこの教会に生きているんだろう」。既にポントスやガラテヤの教会員も、そのことを問うたかもしれません。しかし誰よりも、ペトロ自身がそのことを改めて問いながら、この手紙を書いたのではないかと思います。
「離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」。この言葉を書いたペトロ自身が、深い感慨に捕らえられていたのではないかと思います。どうして自分は、故郷のガリラヤを離れ、ギリシア語もラテン語もうまくできないのにローマに住んでいるのだろうか。神に選ばれたからだとしか言いようがない。
「選ばれた」と訳されている言葉は、辞書を引くと、まず「引き抜く」という意味が出てきます。もちろん、主イエスに引き抜かれたのです。「こっちに来なさい」。漁の仕事中に突然声をかけられ、引き抜かれた。そして故郷を離れました。主に従う者とされました。
けれども、そのペトロの歩みはすべてが順調ではありませんでした。先月号の巻頭説教でもペトロの物語を説きました。やがて主イエスは十字架につけられる。そのとき、ペトロは主イエスを捨てた。わたしはあんな人のことなど知らないと言い張った、そのペトロを、主イエスは振り返って見つめてくださったというのです。まさにそのようにして、神の選びが貫かれたのです。「ペトロよ、それでも、あなたはわたしのものだ」。
けれども、そのあとの話も単純ではありませんでした。主イエスがお甦りになったあと、どうしたことか、ペトロは故郷のガリラヤに戻って、漁師の仕事を再開したというのです。まだどこか、ペトロの深いところに、わたしの故郷はガリラヤだという思いがあったのだと思います。そのペトロを、主イエスはガリラヤまで追いかけて来られました。それこそペトロが漁をしていたときに、甦られた主イエスが岸に立っておられた。「あの時と同じだ」と思ったかもしれません。それに気づいたペトロはびっくりして、舟から岸まで百メートルばかりを泳いで主のもとに行きました。そうせずにおれなかったのだと思います。
そこで主がペトロに改まってお尋ねになったことがある。「あなたはわたしを愛しているか」。三度繰り返して、同じ質問をなさいました。ペトロは三度繰り返して答えました。「そうです。あなたはよくご存じです。わたしが、あなたを愛していることを」。けれども、三度も同じことを聞かれたので、ペトロは悲しくなったと言います。多くの人がこう推測します。ペトロが既に〈三度〉、主イエスとの関係を否定してしまったことと関係があるだろう。どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。自分の弱さ、浅はかさが本当に悲しくて……。
けれども今は、こう答えないわけにはいかない。「主よ、わたしは、あなたを愛しているのです。あなたは、よくご存じです」。なぜ、そういう言い方をしたのでしょうか。「主よ、わたしを選んでくださったのはあなたです」という信仰を言い表したのではないでしょうか。わたしが、あなたを選んだのではありません。あなたが、わたしを選んでくださった。だから、わたしがあなたを愛していることをいちばんよくご存じであるのも、あなたであるはずです。
そのとき、ペトロは遂に故郷を捨てたのだと思うのです。まさに、引き抜かれた。けれども、引き抜かれた雑草のように根無し草になったのではありません。もっと確かなところに根を下ろして生きるようになりました。故郷とのつながりではなく、主イエスとの愛の関わりの中に生きるようになりました。そのような場所に植え替えられたのです。
そのペトロが、各地の教会に語りかけるのです。これはわたしひとりの特別のことではない、あなたがたもそうだ。ポントス、ガラテヤ、カパドキアのキリスト者も、鎌倉のキリスト者も等しく、離散して仮住まいをしている身です。けれども私どもは知っているのです。「我らの国籍は天に在り」。天には、私どもを愛してくださる主がおられます。私どもは、このお方を愛しているのです。
そのような私どもの姿を見て、ほかの人も気づくかもしれません。あれ、この人は何だろう。日本人のはずなのに……。「あなた、お国はどこですか」。そう聞かれたら、「わたしは、天国人です」と答えることができるのです。主イエスに愛され、主イエスを愛している人間のことであります。
「離散して仮住まいをしている」という言葉は、どこか悲しい響きを持ちますけれども、ペトロはそんなつもりでこの言葉を使いはしなかったと思います。本当に帰るべき場所を持っている人間の望みを言い表した言葉です。だから私どもは、どこに行っても、本当の故国の話をしてよいのです。私どもの愛する主のことを、誇らしく語ってよいのです。それこそが、私どもの教会の伝道でしょう。
先ほど紹介した先輩牧師がこういうことを言っています。今はもう、信仰のために血を流さなければならないような迫害はなくなった。けれども、伊勢の町で痛いほどに実感していることがある。町の人が誰も教会に振り向きもしない。伊勢だけではない。日本の教会は、無視、無関心という迫害を受けているのではないか。
皆さんの中にも、家族は自分が教会に行くことを許してくれるが、まったく関心を持ってくれない、という方がいらっしゃるかもしれません。そういうときに、「いったい、なぜ自分は教会に生きているんだろう」と、改めて問わなければならないかもしれません。そこで「わたしは神に選ばれたのだ」という事実が分からなくなると、私どもの信仰は、すぐに崩れていくものだと思います。
先日、東京神学大学の学長と話す機会がありました。何気ない会話から、今、特に地方の教会はたいへんだという話になりました。牧師のいない教会がたくさんある。牧師の数が足りないわけではない。教会に牧師を呼ぶ経済力がないのだ。十人くらいの教会の群れが、牧師とその家族の生活を支えるということになれば、確かにたいへんです。そこで、他教会の牧師が代務者になったりします。それでもその態勢で一所懸命伝道しようということになればよいのかもしれませんが、学長が感じ取っておられたひとつの空気は、「自分の代まで教会がもってくれればいい。そして、他教会の牧師であっても、自分の葬儀をしてくれる牧師がいれば、それでいい」。しかし、信仰がこのようなけちくさい思いにすり替わっていくということは、教会の大小に関係なく起こることだと思いました。
ペトロの言葉は、神の大きな思いに気づかせてくれます。「わたしたちは、神に選ばれたのだ」。主イエスに声をかけられたから。主イエスに見つめられたから。だから、私どもは、この教会に生きているのです。私どもは皆、ペトロと同じです。この神の大きな思いを知るとき、私どももまた、みみっちい思いから解き放たれると信じます。この神は、自分にとって役に立つか、立たないか。この教会は、ちゃんと自分の葬儀をしてくれるか、どうか。そんな小さなことで信仰生活をはかることもなくなります。この教会があと何年もつか。この教会を長持ちさせるためには、もっと若い人を増やさないとだめなんじゃないか。そんなけちくさい思いからも自由になれるはずです。神の思いは、もっと大きい。
その神の大きな思いを、2節では、「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、〝霊〟によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです」と言います。これは洗礼を意味する言葉です。「〝霊〟によって聖なる者とされ」、「イエス・キリストに従い」、「また、その血を注ぎかけていただくために」、神が皆さんを選び、洗礼を授けてくださいました。この教会の存在そのものが、神の切なる思いの結晶のような存在なのです。ペトロ自身が、よく知っていたのです。わたしは、神の御子に見つめられて、ここに生きている。あなたがたもそうなのだ。どうか今新しく、その事実に立ち戻ってほしい。
今から聖餐を祝います。杯を分け合いながら、このような言葉を聴きます。「この杯は、あなたがたのために流される主イエス・キリストの血による新しい契約です」。「その血を注ぎかけていただくために」という言葉が、ここにも響いています。主の血によって、「新しい契約」、私どもと神との間に、切っても切れない関係が出来上がっている。そこに生まれる恵みと平安を、ペトロは私どもの教会にも告げてくれます。「恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」。主イエスの恵みと平和、ただそれだけが、あなたがたを生かす。私どもを選び、見つめてくださった主イエスの恵みが揺らぐことはないのです。
(7月5日 礼拝説教より)