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今日、あなたのために

2014年12月24日

ルカによる福音書 第2章8-20節
川﨑 公平

クリスマス賛美礼拝

今年も、こんなに大勢の方とクリスマスの礼拝をすることができ、心から感謝しております。ここに集められた皆さまおひとりおひとりの上に、クリスマスにお生まれになった方、主イエス・キリストの祝福が豊かにありますように。

今回も皆さんのお手元に配られていると思いますが、毎年私どもの教会では、12月24日の礼拝についてのアンケートをお願いしています。今年は、昨年のアンケートで寄せられたご意見を少しだけ反映したところがあって、ひとつは「もっとたくさん讃美歌を歌いたい」。ささやかですが、昨年よりもひとつ讃美歌を増やしました。それからもうひとつ、「牧師の話が長い」。うーん、そうかあ、と思いまして、これも努力して、昨年よりは短くしたいと思っていますが……。

クリスマスというのは、確かに、歌を歌う季節です。もちろん私どもキリスト教会では、クリスマスでなくても一年中この場所に集まって讃美歌を歌いますが、クリスマスになるとますます喜んで讃美歌を歌う。歌わずにいられない、喜びの出来事が、クリスマスの夜に起こったからです。

私が牧師として心から願っていることは、ここで歌った讃美歌が、皆さんの心からの歌になることです。この場所を出て、日常の生活に帰って行っても、なおここで覚えた歌が、つい口をついて出てきてしまって、「お母さん、なに歌ってんの、もうクリスマスは終わったよ」などと家族に言われるようなことがあれば、むしろすばらしいことだと思っているのです。

先ほど、皆さんとご一緒に、「きよしこの夜」を歌いました。ふだん教会に来ていない人でも、誰もが知っている歌です。しかし、その最後の第3節の歌詞は、なかなか深い内容を持つものだと思います。

きよしこのよる み子の笑みに、
めぐみのみ代の あしたのひかり
かがやけり、ほがらかに。

飼い葉桶の中で、赤ちゃんのイエスさまが笑っておられる、と言うのです。そのイエスさまの笑顔の中に、神さまの恵みが支配する新しい時代が始まっている。「あした」というのは、「夜明け、早朝」という意味の古い言葉です。もう夜が明け始めている、神さまの恵みの光が、朝日のごとく輝き始めている。そう歌うのです。

主イエス・キリストというお方がお生まれになったとき、この世界は新しくなりました。今年が2014年という年の数え方も、主イエスが飼い葉桶にお生まれになってから数えて二〇一四年ということを意味します。2014年前に、この世界は新しくなったのです。この世界は、神に愛されている世界であることが、明らかになりました。そこで興味深いことは、この讃美歌が、その新しい時代のしるしをイエスさまの笑顔の中に見出していることです。ほら見てごらん、イエスさまは笑っておられるではないか。新しい時代の光が輝いているではないか。

余計なことかもしれませんが、聖書には、イエスさまが笑っておられたなんてことはひとつも書いてありません。明らかに、この讃美歌を書いた人の信仰から生まれたものです。少し興味を持ちまして、改めて元のドイツ語の歌詞を調べてみました。原詞でもイエスさまはちゃんと笑っておられる。それに添えて「時を打つ」という表現が用いられておりまして、たとえば時を告げる鐘が打ち鳴らされる、というイメージで捉えてくださってもよいと思います。新しい時代を告げる鐘の音が聞こえる。それが、この赤ちゃんのイエスさまの笑顔だと言うのです。

私は、この讃美歌がイメージした主イエスの笑みは、とても尊いものだと思いました。今日皆さんが、この主イエスの笑顔を心に刻んで家路についてくださったなら、それだけでもすばらしいことだと思うのです。

しかし、なぜ主イエスは笑っておられたのでしょうか。何をそんなに喜んでおられるのでしょうか。

そういうことを考えながら、もうひとつ、私が思い起こしておりました一篇の詩があります。島崎光正さんというキリスト者詩人のもので、この鎌倉雪ノ下教会とも深い関わりのある方です。残念ながら、もう10年以上前にお亡くなりになりました。生まれたときから脊椎に重い障害を負っておられた方で、かつてこの鎌倉雪ノ下教会にお招きしたときにも、車いすごと壇の上に担ぎ上げて話をしていただいたことがあります。

この島崎さんがしばしば語られたことがあります。今のように、子どもが生まれる前にその健康を診断できるようになると、もしかすると自分と同じような障害を持つ人間は、親が生むことを望まないかもしれない。実際に、島崎さん自身、なぜお前のような者が生まれてきたかと言われながら育ったところがあるそうです。特に下半身が麻痺するような障碍でしたから、授業中にお手洗いを我慢できないというようなつらい経験もしたそうです。けれども小学校の時に出会った校長先生がキリスト者で、「光正は、光正らしく」と言われた。「光正は、光正らしく」。その言葉が、大げさでも何でもなく一生の宝になりました。長じてなおその先生に導かれて、28歳の時に洗礼を受け、たとえば今日皆さんにご紹介するような信仰の詩を書き続けた方であります。

「聖誕」

言(ことば)は
耐えられずに
形となり
地球への旅を急いでいた

約束の時は
ふるえ

ベツレヘムの夜更けに
嬰児(みどりご)となった言は
ふと
花のように瞳(め)を開いていた
馬小屋の片隅で。

(『島崎光正全詩集』日本キリスト教団出版局、148頁)

最初に出てくる「言」というのは、聖書独特の表現で、神のみ子イエス・キリストを意味します。その主イエスが、もうこれ以上我慢しきれないことがあった。「言は/耐えられずに/形となり/地球への旅を急いでいた」。あなたのところに行きたい。急いで行きたいんだ。そのような思いに突き動かされるようにして、神そのものである方、主イエス・キリストがこの地上に生まれてくださった。このわたしのところにも来てくださったんだ。島崎光正さんという方が、とても素朴な、しかし非常に味わい深い言葉で言い表していることは、そういうことです。「あなたのところに行きたい」。言うまでもなく、神がそれほどに、私どものことを愛してくださっているということを意味します。

そのあとの、「約束の時は/ふるえ」というのは、島崎さんが何を言おうとなさったか、正直なところ私もよく分かりません。たとえば先ほど申しましたように、主イエスの笑顔が時を告げる鐘の音のように、神の恵みの時を知らせてくれる。町中に大きな鐘の音が響き渡って、空気全体が振動しているような姿をイメージしてもよいかもしれません。あるいは、遂に神の約束の時が満ちて、神ご自身が深い喜びに震えておられる。そういうことかもしれません。

しかし何と言っても印象深いのは、最後の段落です。「ベツレヘムの夜更けに/嬰児(みどりご)となった言は/ふと/花のように瞳(め)を開いていた/馬小屋の片隅で」。神の言葉が、小さな赤ちゃんになって、馬小屋の片隅にお生まれになりました。その赤ちゃんのイエスさまが、ふと気づくと、目を開いている。もちろんここでこの島崎光正さんは、既にこのイエスさまに見つめていただいている自分であることを深く感謝しながら、この詩を書いたと思います。

自分の周りには、あざけりやからかいの目、変わったものを見るような目ばかりだと思っていた。そんな自分を、それでも愛してくれた父親も死に、母親とも、0歳の時に別れなければならなかった。自分はひとりぼっちだと思っていたところに、「光正は、光正らしく」。そう声をかけてくれた恩師のやさしいまなざしのことをも思っていたかもしれません。恩師のまなざしと、神のまなざしが重なるような思いさえ抱いたかもしれません。このわたしを、まるごと愛してくださる神は生きておられる。神が、このわたしを愛してくださるのだ。その神の恵みを、ここでは、「花のように瞳(め)を開いていた/馬小屋の片隅で。」そのように表現している。

イエスさまの瞳が、このわたしにも及んでいる。そのことに気づいたとき、島崎光正さん自身にとっても、新しい「約束の時」が始まったのではないでしょうか。そしてその新しい時代の到来を告げる主イエスのまなざしは、もちろん、決して、にらみつけるようなまなざしではなかったし、人をあざけり、からかうようなまなざしでもなかったと思います。「み子の笑みに」、島崎光正さんもまた触れたのだと思うのです。私どもも、このお方の笑みに出会わせていただいているのです。

クリスマスの夜、天使は羊飼いたちに告げました。

恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。

今日、あなたのために、お生まれになったイエス・キリストです。今日、私どもが共に歌った幼子主イエスの笑みも、皆さんのためのもの、あなたのための主イエスの笑顔です。この神の愛が、どうぞ、皆さんひとりひとりを生かす、力強い慰めとなりますように。

(12月24日 クリスマス讃美礼拝説教)