人の目を気にする私達
マタイによる福音書第6章1 – 4節
川﨑 恵
主日礼拝
今日の説教題は「人の目を気にする私達」としました。一週間、この題が教会の外の掲示板に貼られていましたが、教会の前を通る人々はどんなことを思っていたかなと思います。皆さんはこの題をみて、あるいは、今聞いてどんなことを感じたでしょうか。「本当にそうだなあ。」と思われた方があったかもしれません。いろいろな年代のいろいろな状況の方がこの説教題をみつめ、その人その人の状況の中で人の目を気にする自分を思い起こされたのではないでしょうか。
先日、ある方の結婚式の披露宴でご一緒した大学の先生との会話の中で、こんなことをその先生が話しておられました。もう退官が近いベテランの先生でしたけれども、最近は学生達がアンケートで自分の授業を評価し、その評価が自分のところにやってくる。自分の講義はおもしろいかどうかを学生達が評価する。時代は本当に変わった。とても大変だとおっしゃっていました。
最近、新しい目がさらに出現しています。それは、インターネットです。インターネットをよくご覧になる方も、ならない方もいらっしゃるかもしれませんが、インターネットにはすぐ人の評判が書き込まれます。「あそこのお店はおいしかった」、「あそこのお店はまずかった」、「あそこのお医者さんはとっても腕がいいけれども、あそこのお医者さんは行かないほうがいい」、「あのテレビ番組はおもしろかった」、「この番組はつまらなかった、もう見ない」といったように。
家族の間、親子の間でもお互いの目を気にする私達がいます。愛情をこめて、子どもを育てながらも、思ったような反応が返ってこないと腹がたったりします。子どもが感謝してくれない。親である自分を重んじてくれない。一所懸命作った料理をおいしいと言ってくれない。子どもも親の目を気にします。思うように成績があがらない自分を親が認めてくれない。思うように仕事がみつからない。思うように結婚ができない。そのような自分を親が認めてくれないと悩んだりします。
仕事をしている人も、お客さんの目や上司の目、同僚の目、家族の目、たくさんの目を気にしながら一所懸命働いています。夫婦の間でも、近所の人との関係においても、私達はいつも「たくさんの人の目を気にしている」。一所懸命仕事をしながら、一所懸命誰かを愛しながら、助けながら、人の目を気にしている。自分はどう思われているのだろう。
そして、一所懸命相手のためにつくしたにも関わらず、思ったような評価が返ってこないと、落胆したり、怒ったりします。もうこの人のためにがんばるのはよそう。あるいは十分評価をされない自分に絶望し、引き籠ったり、もう愛に生きるのはやめようと思ったり、家を出たり、深刻になると自殺をしたりします。
今日の聖書の言葉は、そのような私達に警告します。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」。善行とは「善い行い」のことですが、ここでは善行として、特に三つのことをイエス様がとりあげています。2節では施し、5節からは祈り、16節からは断食。施しとは、生活に困っている人を助けてあげることです。食べ物をわけてあげたり、お金を助けてあげたり、宿を貸してあげたり。当時のユダヤ人にとって、この三つの行いは神さまを心から愛し、信じていることをあらわすための大事な行いでした。人々は一所懸命に施し、祈り、断食までして、神さまへの愛を一所懸命にあらわしました。私達も神さまを愛し、礼拝を大切に守ります。聖書を読み、祈り、愛のわざに仕えます。教会の中で、外で、神さまと人々に仕える。共に生きる人々を愛し、慰め、祈る。み言葉を伝える。それは神さまの愛にとらえられ、神さまの愛に自分をささげて生きる幸せを神さまから与えられたからです。けれどもそれが、いつのまにか、神さまのためにではなく、自分が人からみとめられるため、人からあの人は立派だ、あの人は素晴らしい、あの人はいい人だと言ってもらいたいがための行いにすりかわってしまうことがある。
2節に「偽善者」という言葉があります。これはもとのギリシア語をみると、もともとは「俳優」という意味の言葉なのだそうです。当時の俳優は仮面をつけて演劇をしました。そういう仮面をつけている俳優のように、私達は演じている。表向きの顔は、神さまを愛し、人を思いやる優しい笑みをたたえている。けれども心の中では、自分をみとめてほしい、自分を見てほしい、ほめてもらいたいという思いでいっぱいになっている。1節の「見てもらう」という言葉も、もとのギリシア語をみると、「シアター」「劇場」という意味の英語のもとになる言葉が使われています。「偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」と2節でイエス様はおっしゃいました。当時のユダヤ教の礼拝の中では、献金をする時になんと、献金の箱にラッパがついていて、大きな額の献金がささげられると、ラッパが大きく鳴ったのだそうです。ちょっと信じられないような気がしますけれども、そうしてささげられた献金の中から、困っている人へのお金がささげられたり、食べ物が分け与えられたりということがあったようです。実際に誰かに施しをする時にまたラッパが鳴ったということはないようですけれども、けれども、誰かを助ける時に、「この私のわざをみてほしい。」とラッパを吹きたくなるような罪の心が私達の中に働くのを、イエス様はこのようにおっしゃったのです。
さらに、主イエスは3節でこうおっしゃいました。「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである」。右手で自分がやっていることを左手が覚えないことはありません。自分がやっているのですから。ですからこれは、自分がやっていることを自分が見ないということです。自分のしているわざを相手にみせびらかそうとしたり、人を気にしたりということがなかったとしても、そっと自分で自分をほめたりしたくなる。「うむ、私は、いいことを今している。私はいい信仰者だ」と自分で自分を評価したくなったり、あるいは「これじゃだめだ」と、自分で自分をみとめることができなくなって、落ち込んだり、ふさぎこんだり、「こんな自分はだめだ」と思ったりする。イエス様はそれも偽善だとおっしゃる。他人にほめてもらうために、自分で自分をほめるために施しをしてはいけない。見てもらおうとして、人の前で善行をしてはいけない。そして、イエス様は私達が忘れていることを思いださせてくださったのです。「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」。天におられる神さまの目。私達の行いをみている別の目がある。隠れたところ、天におられる父なる神さまが隠れたところでなす私達のわざをみておられる。
この第6章1節から4節は5章1節から始まる山上の説教の中の言葉です。イエス様は弟子達と一緒に山にのぼられて、弟子達に教えてくださいました。神さまが私達を救ってくださり、神の国が来ること。私達が神の子になること。私達はイエス様と一緒に、神さまをお父さんと呼ぶ天の父なる神さまの子どもとなることを話してくださいました。そうして、今までとは全く違う新しい人生が始まるのだと話してくださいました。あなたがたが本当に生かされる人生が始まるのだ。神の子の人生が始まるのだ。その神の子の歩みというのはこういうものなのだと、山上の説教で話してくださったのです。
ですから、今日の箇所でもイエス様は、神の子の生き方を教えてくださっているのです。今までは見てもらおうとして、善行をしていたかもしれない。人の評価に一喜一憂していたかもしれない。けれどもこれからは、あなたがたは人の前で善行をしてはいけない。隠れたところで行いなさい。隠れたところで父があなたを見ていてくださる。そして、あなたに報いてくださる。けれども、私達は思います。神さまに私達の隠れたところを全部見られたら困ります。偽善を行う私達の心も全部お見通し。それでは、私達は生きることができません。神さまの怒りに触れて、滅ぼされるしかありません。私達はどうしたらいいのでしょう。
今日の箇所の直前で、イエス様はこう弟子達に話してくださいました。「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。なぜならあなたがたを救ってくださるあなた方の天の父は、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」神さまは人にほめられようと偽善を行う私達を激しくお怒りになります。けれども、神さまはおっしゃるのです。しかし私は敵を愛する。自分を憎み、自分を迫害する者も私は憐れむ。私は悪人にも、善人にもあたたかい太陽のひざしをさして、あたためてあげたい。正しくない者にも恵みの雨を降らせてあげたいのだ。
主イエス・キリストはこの神さまの憐れみ、正しい者にも、正しくない者にも恵みの雨を降らせたい、そう思ってくださる神さまの憐れみによって私達のところに来てくださいました。マタイによる福音書の第3章13節以下に、その地上の歩みを始められたイエス様のお姿があります。イエス様は洗礼者ヨハネのもとに来られておっしゃいました。「洗礼を授けてほしい」。罪のない清らかな神の子、自分を救ってくださる救い主が、なぜ私に洗礼を授けてくれと頼むかと、ヨハネは躊躇します。「できません。わたしこそあなたから洗礼を受けるべきです」。けれども、イエス様はヨハネにこうおっしゃるのです。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。この「正しいこと」と翻訳されている言葉は、実は今日の6章1節の「善行」と訳されている言葉と同じ、ディカイオシュネーというギリシア語なのです。まことに正しい神さまが、善人にも悪人にも太陽をのぼらせてくださる神さまが、まことの愛をつらぬかれる。その神さまの意志に従うことが我々にふさわしいことなのだとイエス様はおっしゃり、全く罪がないきよらかな神の子であるにも関わらず、洗礼を受け、罪に汚れた私達と同じ人間となってくださいました。そして、この罪の私達を救うために、神の正しさがつらぬかれる道を歩み始めてくださったのです。
私達人間はみな、偽善の罪を犯してきました。神さまのために、人のためにといいながら、仮面をつけて、神さまを、人を、あざむき続けてきました。その私達を神さまはどんなに悲しみ、どんなに激しくお怒りになっていることでしょう。誰のことも愛していない、神さまのことも愛していない、自分のことばかり考えている私達のことを。けれども神さまはおっしゃるのです。「けれども、私はそれでもあなたがたを愛している。それでも、私はあなたがたを憐れみたい。あなたがたは私のもの。あなたにも太陽の日差しを注ぎたい。恵みの雨を注ぐのだ。」
神の御子、主イエス・キリストはこの神さまのご意志に従って、私達のもとに来てくださいました。神を愛さず、誰をも愛さず、自分も愛することができなくなった私達の罪をかわりに負うために来てくださいました。けれども、誰もこの方を信じませんでした。この方が自分の罪をかわりに背負ってくださり、滅亡から救い出してくださるのに、むしろ神を冒涜していると裁いて、むちでうって、着ているものをはぎとって、いばらで編んだとげとげの冠をのせて、頭から血が流れるのを笑って、そして、十字架にかけたのです。十字架の上で苦痛に顔をゆがめるイエス様を私達はののしりました。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っていれば、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」。誰もイエス様をほめませんでした。だれもイエス様にありがとうと言いませんでした。けれども、イエス様は黙って、十字架の上で死んでくださいました。黙って私達の罪が赦されるための身代わりとなって死んでくださいました。
ヘンリ・ナウエンという方がある本でこう語っています。
「イエスは真に自由でした。イエスの自由は、ご自分が神の愛する子であるという霊的な自覚に根ざしていました。生まれる前から御自分が神のものであり、神の愛を宣べ伝えるために世に遣わされ、使命を果たすと神のもとへ戻って行くことを、存在の深みで知っておられました。そのためにイエスは世にへつらうような語り方をしたり、振る舞ったりしないでいられる自由を持っておられました。そしてまた、人々の苦しみに神の癒しの愛をもって応える力がありました」。
ああ、そうなのかと思いました。イエス様は人の目を気にすることから全く自由であられました。人から冒涜されようと、だれもほめてくれなくても、だれもありがとうと言ってくれなくても、全ての人に憎まれていても、私達を愛し、全てを与えることがお出来になりました。それは御自分を神さまが愛してくださることを知っていたからです。いつも御自分を愛してくださるまなざしが、注がれていることを知っていたからです。父は私を愛している。その愛から、何者も引き離すことはできない。全ての人に憎まれても。たとえ、人が私を殺すようなことがあっても、私を愛される父の愛から、何者も私を引き離すことはできないのだ。「隠れたことを見ておられる父がわたしに報いてくださる」。
イエス様は今、私達にこの自由を与えてくださいます。神さまはあなたを見ておられる。あなたを愛しておられる。神は私を遣わし、あなたがたを救い、あなたがたを神の子とする道を開いてくださった。あなたはわたしの兄弟である。わたしと同じように、父なる神をお父さんとよぶことができる神の子になるのだ。だから、父のようになりなさい。父はあなたがたをいつも見ておられる。だから安心しなさい。もう人の目を気にしなくていい。人の言葉を気にしなくていい。ほめられようとしたり、自分で自分をみとめようとしたりしなくていい。隠れたところにおられる神さまは、あなたのわざをいつもみていてくださる。そして、その働きに報いてくださる。
新約聖書はギリシア語で書かれていますが、2節の「施し」という言葉はもともとギリシア語にはなかったのだそうです。ユダヤ教の「施し」をあらわすために、違う言葉があてはめられた。その、あてはめられたギリシア語は、「憐れみ」という言葉。ここでは「憐れみ」という意味のギリシア語が「施し」の意味で使われている。そういえば、施しというのは、神さまの憐れみが次の人に受け渡されることなのでした。神さまが助けたい、神さまが愛したいと思っている人を神さまが私達を通して助けてくださるのです。施しをする者は神さまの手足なのです。そうであるならば、人の目を気にしたり、言葉を気にする必要はないのですね。
主イエス・キリストはまことの愛に生きる道を開いてくださいました。主を受け入れた私達に主は聖霊を注ぎ、神の子としてくださいました。そして、神の憐れみをもちはこぶ手足としてくださいます。憐れみたい、助けたいと思う人々のところに神さまが私達を連れていかれます。あの人のところに行ってほしい。あの人に言葉をかけてほしい。こういうプロジェクトをしてほしい。この子どもたちにこういうことをしてほしい。あの人のところにこれを届けてほしい。あの人のところに住む場所を与えてほしい。ここで会議をしてほしい。あの人が転ばないように支えてほしい。そして、あなたに私のみ言葉をとりついでほしい。「わたしを信じなさい、私はあなたを愛している。私は共にいる」。悪人にも善人にも恵みの雨を降らせてくださる神さまの憐れみを届ける新しい人生を、神さまが私達に与えてくださいました。私達はもう人の目は気にしません。神さまが私達をみていてくださり、ありがとうとおっしゃり、報いを与えてくださいます。
ところで、この「報い」とは何でしょうか。ある地区集会で、この箇所を一緒に読んでいたら、ある方が私はこんな箇所を思い出しましたとおっしゃってくださいました。それは、マタイによる福音書第25章31節以下です。そこには、終わりの日のことが書かれています。主イエス・キリストが救いのみわざをすべてなしとげてくださいましたから、いつか必ず神の国が来ます。イエス様が神の国の王様となられて、私達を迎えに来られます。そのときに、私達みんなイエス様の前にたち、裁きを受けますが、神の国に入る者にイエス様はこうおっしゃってくださいます。
『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ』。
人々は驚いてイエス様に言います。いつ私達はあなたをお助けしたでしょうか。すると、イエス様はおっしゃるのです。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』。そして、46節ではこの正しいみわざに仕える者は、永遠の命にあずかると神さまが約束してくださっているのです。これが神さまが私達に約束してくださった報いです。
なんとおそれおおいことかと思います。私達の小さなわざを神さまがみてくださり、実はそれはわたしのためにしてくれたのだ、ありがとうとおっしゃってくださり、そして、その報いとして救いを与えてくださる。神の国に入る希望、永遠の命を約束してくださる。人の目、人の言葉を気にしていたあなたたちはこのことを見失っていた。あなたに神はこんなにも大きな報い、こんなにも大きな祝福を与えてくださっているのだ。だから、安心しなさい。あなたがたは天の父の子。神の愛のまなざしだけをおぼえ、神の手足となって、神の愛のわざに仕えなさい。神のわざに仕えるとき、あなたはもう神の国がもうここに来ていることをみることができる。神さまは私達のなす小さなわざを、想像を超えた仕方で大きくしてくださいます。私達がとりつぐ、私達が届ける神さまの言葉が思いがけないところで実を結びます。私達が触れる時、神さまがその人に触れてくださり、大きな愛で助けてくださいます。慰めてくださいます。神さまは生きておられ、私達と共におられること、ここに神の国が来ていることを、何度も私達はみさせていただける。そのような幸せな人生を私達は与えられたのです。私達は自由です。神さまが私達を愛してくださっているから大丈夫なのです。安心して、神さまの愛に動かされて生きる、幸せな神さまの手足、神さまに愛されている神さまの手足としてご一緒に生きていきたいと思います。祈ります。
主イエス・キリストの父なる神さま、ありがたいみ言葉をありがとうございました。本当にこのみ言葉のとおり、人に見てもらおうとして、偽善を行い続けてきた私達です。あなたのまなざしを忘れ、人の言葉に一喜一憂し、自分で自分を評価し、あなたに罪を犯し続けてきました。自分を見失っていました。けれどもそこからあなたが救い出してくださり、本当にありがとうございます。善人にも悪人にも恵みの雨を降らせてくださるあなたの憐れみが、私にも注がれたこと、わたしはもう罪を赦され、あなたの命を注がれて、あなたの憐れみを持ち運ぶ神の手足となる人生を与えられたことを聞きました。本当にありがとうございます。もう人の目を気にせずに、人の言葉に耳を傾けずに、あなたに愛されていることに安心して、あなたのまなざしの中で、あなたに仕えていきたいと思います。私達の人生のすべてをあなたにお捧げしていきたいと思います。どうぞ主よ、私達をとおして、なおあなたの憐れみがあなたの愛する人々に注がれますように。私達をみこころのままにお用いください。
今日は花の日です。ふだん教会の礼拝に足を運ぶことができない方や、今日も働いている方、施設でお一人で過ごしておられる方にたくさんの花を届けに行きます。どうぞそのわざに仕えるお一人お一人と共にあなたがいましてくださいますように。そして、今日の花の日だけでなく、私達は日々、あなたの御用に仕えていきます。どうぞその私達をあなたがみていてくださり、おぼえてくださいますようにお願いいたします。まだこの自由を受け取っていない者が大勢おります。どうかそれらの方々にあなたが触れてくださり、私達と共に、この自由を生きることができますように助けてください。このお祈りを尊き主イエス・キリストのみ名をとおしてお捧げいたします。アーメン