1. HOME
  2. 礼拝説教
  3. 生涯の日を正しく数える

生涯の日を正しく数える

2014年4月13日

詩編第90篇
大澤 正芳

主日礼拝

今日共に聴きます詩編90篇において、この祈りを祈る人は、「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」と語っています。

それは、自分の生涯が、その人生がいったいどういうものであるかを問うている言葉であるように聞こえます。

これまでの自分の人生の歩みがどのようなものであったかを振り返り、また、今置かれている状況がどのようなものであるかを見極め、そして生涯の残りの日々があとどれくらいあるのかを数えてみる。そのように自分の生涯の初めから終わりまでを視野に入れて、果たしてそれがどのような人生であったのかを敢えて言葉にしてみる。

そのようなことをこの詩編90篇の詩人はしているように見えます。しかも、それを一人でしているのではありません。神の御前でしているのです。

この人は、神に向かって、「主よ、あなたは代々にわたってわたしたちの宿るところ」と呼びかけます。神はこの人にとって、故郷のようなお方です。マイホームのようなお方です。その生涯の全ての時間が、初めから終わりに至るまで、そのまなざしの中にあることを確信させて下さるお方です。

そのようにしてこの私に寄り添う「あなた」である神のまなざしの下にずっとありつづけた、自分の生涯の日々を数えようというのです。そこで、見返される人生は、どんなに素晴らしい言葉によって総括されるものであるかと、私たちは期待せずにはおれません。

ところが、この期待に反し、共にいて下さる神のまなざしの下にある人間の生涯をどのようなものであるかと評価するこの人の言葉は、驚くほど、神を知らぬ現代人の評価と似ているような気がしてなりません。

詩編90篇は語ります。「朝が来れば、人は草のように移ろいます。/朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい/夕べにはしおれ、枯れて行きます。」、「人生はため息のように消えうせます。/人生の年月は七十年程のものです。/健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。/瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」

人生ははかなく、幸せな日々は壊れやすい。何千年も前の、イスラエルの人の言葉ですが、どこの時代の、どこの国に生まれようと、神のまなざしの下にあろうと、神のまなざしを知らなくとも、この実感に違いはないようです。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ってゆく。しかし、これは言うまでもない言葉です。けれども、言うまでもないからこそ、この詩編90篇の言葉は、それだけに、これを初めて聞く者も、少なくともこの聖書の言葉は、真実だ、本当のことだと納得できる言葉ではないかと思います。

しかし、教会に通わない者だろうが、神を信じぬ者だろうが、何千年も前の信仰の詩人だろうが、同じように共有できていると思う人生のはかなさに対する実感ですが、果たして、本当にぴったりと一致するものなのか、同じものを見ているのだろうかとも問いたいのです。

この詩編90篇は、人間ならば誰しも、自分の経験を眺めて、理性を働かせれば、辿りつくような、一般的で普遍的な真理を語りたいのか。そういう理解を得たところで、たとえば、「光陰矢の如し」なのだから、今、自分の手の内にある働きや責任を誠実に行う他ないではないか、そういう結論に至れば、詩編が語らんとしていることを正しく聴き取ったことになるのだろうか。

何万年と変わらぬ人間であれば、誰でも自然に共有できるような心を語っている詩編だと、ただちに、この詩編を読み終えるのでなくて、落ち着いて丁寧に読んでみると、実はかなり、違和感があり、異様なことが語られていることに気づくのです。

そこで、改めて気付くのは、これが祈りの言葉だということです。この詩編の作者の言葉は、すべてが過ぎ去る世界の中にあって、自分も過ぎ去る者でありながら、それに気付いてしまった人間の淋しい独り言では決してありません。

自分に向かっての独白ではありませんし、滅びゆく人間仲間に向かっての、共感の言葉でもありません。

これは、祈りの言葉です。

この人は、神に向かって祈るのです。

過ぎ去って行く世界、過ぎ去って行く世代を前にして、決して過ぎ去らないお方、主と呼ばれる神、しかも、草のように移ろいゆく私たちが、なお、そのお方に対して、私たちの住まい、私たちの砦、私の主よと、人と人とが顔と顔とを向き合わせて、語り合うように、語りかけることができるお方として、私たちにその御顔を向けていて下さる神に、語りかけているのです。

瞬く間に飛び去る私たちを、幾世代も幾世代も、ずっと近くで共に歩き、守り、見ていて下さった方のまなざしを感じつつ、自らの人生のはかなさをその方に申し上げているのです。

人生が短くはかないということと、人生が無常で空しく、無目的だということは、似ているようで、同じではありません。「人の子よ、帰れ」と親しく仰る方が、私たちをこの世界に呼び出し、また塵に返すのならば、命は、短くはかなくとも、無常で空しくはありません。

けれども、改めて考えてみたいのは、どこで誰に向かって語られた言葉なのかという決定的な違いがありながら、その私たちの命の評価は、神を知らぬ者のそれと、表面上において、驚くほど似ているのです。しかも、人生が短く、瞬く間に飛び去ってゆくということは、いのちを与え、取り去る神の御前にあっても、決して肯定的には受け止められていないのです。

むしろ、この詩編のはかない人生に対する評価は、非常にネガティブだと言わざるを得ません。永遠の神の前でこそ、自らの命、人生のはかなさの実感は、むしろ、極まり迫って来るのだと感じさせられます。

この人は、「千年といえども御目には/昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません」と、神に告白します。

この人は、代々とこしえに神でいらっしゃるお方を知るゆえにこそ、人の命が一瞬のものであることをよりはっきりと知らされているのです。「夜の一時」これは、夜警が夜番をする一区切りの時間だと言います。それは3つに区切られていた。だからその「夜の一時」はおよそ4時間だと言います。神の目には、我々の先祖の何十世代も遡る1000年という長いときであったとしても、私たちが感じるほんの数時間にすぎないと言うのです。

このような神のまなざしを知ると、人間の生涯が本当に一瞬にすぎないことをいよいよ認めざるを得ないのです。

命を与え、命を取り去る神を知る者にとって、死は絶望ではないと考えるかもしれません。しかし、むしろ、死を誰も免れることのできない自然なこと、花が枯れるように、時と共に枯れていくものと捉える者にとってこそ、死は無常であっても、絶望ではないのかもしれません。そこには、もののあわれと、いのちのはかなさを愛でる余裕すら生まれる余地があるのかもしれません。

ところが、「あなた」と呼びかけることのできる、ひしひしと感じる神の身近なまなざしの中に生きる詩編の祈り手にとっての命の終わりとは、草花が生え出て、枯れていくこととピタリと一致することではないのです。神が人と顔と顔とを向い合せられているからです。

神のまなざしのなかに生きる者にとって、神はただ移ろいゆく人間とは異なる永遠の御方であるだけでなくて、人と人とが語り合うような近さをもって、この私と向き合って下さるお方です。そのまなざしは、かえって、その圧倒的な私たちとの違いと、また近さのゆえに、恐れをひき起こさざるをえないまなざしです。

人間は草花と変わりないような塵から取られ、塵に返って行く存在かもしれない。しかし、その塵のような者に神のまなざしが注がれているのです。そのように神に注目される人間の命の終わりは、自然のサイクルとして命の終わりを迎えるのではなくて、この祈り手の実感からすれば「神よ、あなたの怒りの中で死んで行くのです」と、自らの死が神の怒りの下にある死だと認めざるを得ないのです。

これこそ、神を知らなければ、決して知ることのできない私たちの命に対する理解です。神に教えて頂かなければ隠されたままであることです。

私たちが死ななければならない存在であることは、考える必要のない当たり前のことです。けれども、この詩人は、死ななければならないことを熟考しなければならないと語ります。そこには、今さら教会に来るまでもなく、聖書を読むまでもなく、言うまでもなくわかっていると言って、私たちが見過ごしにすることのできない何かがあるというのです。私たちが死ななければならないことを、改めて熟考しなければなりません。しかも、これを正しく考えるためには、神に向かって、「教えてください」と願わなければなりません。

それは、一人で考えてもわからないからです。神に教えて頂かないと分からないからです。私たちが死ぬべき存在であるということが、瞬く間に過ぎ去ってゆく者であるということが、本当には何を意味しているのかは、神に教えて頂かなければわからないのです。だから、詩編の祈り手は、「生涯の日を正しく数えるように教えてください」と神に願っているのです。

そして、この人は、「あなた」と呼びかけることのできる神と向き合いながら、永遠の神のまなざしの下にある自分の生涯が、このお方の汲み尽くせぬ怒りの下にあることに気づきます。

7節以下です。「あなたの憤りに恐れます。/あなたはわたしたちの罪を御前に/隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。/わたしたちの生涯は御怒りに消え去り/人生はため息のように消えうせます。/人生の年月は七十年程のものです。/健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。/瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。/御怒りの力を誰が知りえましょうか。/あなたを畏れ敬うにつれて/あなたの憤りをも知ることでしょう。/生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」

これらの言葉は、明らかに私たちの生涯のはかなさが、私たちの罪に対する神の怒りのゆえであると理解しています。私たちの人生ははかなく、しかも、労苦と災いに満ちている、なぜならば、私たちの罪のゆえに、神の憤りが私たちの上に注がれているからだと語っているようです。

だから、この人が神さまに教えて頂いた、人生を正しく数え、それがどのようなものであるかを正しく弁える知恵とは、私たちの生涯は神さまの怒りの下にある生涯だという知恵であるように聞こえてきます。

絶望的な理解です。人生の短さを、もののあわれなどと味わい、愛でる余裕など、ここにはありません。草花のように自然に生え、自然に枯れるのではありません。神の怒りの下に人生は飛び去って行くのです。このような人生のはかなさに対する理解は、疑いなく、飛び去りゆく人生を自然のサイクルの中にある必然的運命だと嘯いている者たちよりも、徹底した絶望、諦めに至るように思います。そうなって当然と思います。

ところが、違うのです。ところが、全然違うのです。このような罪ゆえに神の怒りの下にある私の生涯という自己理解にもかかわらず、13節以下には、驚くべき言葉で次々と祈るのです。

よく聴いて頂きたい。「主よ、帰って来てください。/いつまで捨てておかれるのですか」と祈り始めます。求めることなど許されるはずがないところで、求めることを許されないはずのことを求め始めるのです。

「主よ、帰って来てください」と。

主の憤りの深さと、憤りを受けても仕方のない罪の身に過ぎないため息のような者と自分のことを認めたはずの者が、神の慈しみに満ち足りることを求め、罪への罰と言っても差し支えないであろう苦しみの日々、苦難の年月を、罪への報いというよりも、神さまの責任であるかのように語り、「私たちに喜びを返してください」と厚かましくも祈るのです。当然の報いを受けたのではないのか。なのに、なぜ、私たちを苦しめたことを思って、喜びを返して下さいと祈れるのか。不思議な祈りです。

隠れた罪も神のみ前にあるのです。自分が隠している自分の醜さのみならず、自分の気付いていない罪さえ、見ておられる神の裁きの下にある生涯であるとはっきりと理解しているのです。しかし、それにもかかわらず、その短い人生が自らの罪のゆえに、労苦と災いに満たされることを甘んじて受け入れるということを全くしていないのです。一切諦めていないのです。

そして、神に向かってこう祈るのです。「主よ、帰って来てください。/いつまで捨てておかれるのですか。/あなたの僕らを力づけてください。/朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ/生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。/あなたがわたしたちを苦しめられた日々と/苦難に遭わされた年月を思って/わたしたちに喜びを返してください。」まだ、続きます。「あなたの僕らが御業を仰ぎ/子らもあなたの威光を仰ぐことが/できますように。/わたしたちの神、主の喜びが/わたしたちの上にありますように。/わたしたちの手の働きを/わたしたちのために確かなものとし/わたしたちの手の働きを/どうか確かなものにしてください。」諦めていないのです。不屈の祈りです。

なぜ、このように祈れるのか。求め続けられるのか。神に迫ることができるのか。人生を諦めないのか。

おそらく、この大胆さは、1節の告白に由来します。「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。」

さらっと流れてしまいかねない一節でありますけれども、

この告白は、歴史に根差した重みのある信仰の告白です。

神がイスラエルの先祖を選び、苦難の中にあった彼らと共に住んで下さったことを思い起こさせる告白です。それは同時に、一方的な選びであったということも思い起こさせる告白です。なぜ神はイスラエルの人々の宿る所となったのか。イスラエルの民が素晴らしい民であったからだという理由はなかったのです。たとえば、1節の表題にモーセの祈りと記されているように、エジプト脱出の経験を思い起こすことができるかもしれません。そして、この経験が、どのようなことを意味していたのかと言えば、申命記7章6節以下の言葉を思い起こせばよいのです。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」

たとえば、このような神の言葉が、「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ」という告白の内に鳴り響いているのです。功績のない者を憐れみ、愛の恵みをかつて与えて下さった方、これからも与え続けて下さる方、だから、今も与えて下さることを希望させて下さる神への告白です。どんなに私たちの罪が重くとも、その罪は、赦されるのです。大胆に、あなたの慈しみに満ち足らせ、喜び歌い、喜び祝わせて下さいと求めることができるのです。

こういう不屈の祈りが生まれる秘密は、祈る者自身の内にあるのではなくて、神ご自身の愛の歴史にあるのです。

この詩人が呼んでいる神が、今、私たちが礼拝を捧げている私たちの主であられる神なのです。

そして、私たちはこの信仰の先輩が神に教えて頂いたよりも、深く、自らの罪を教えられており、この私たちに対する神の憤りのすさまじさを知っており、自分たちが永遠の滅びにふさわしいものであることを知っており、しかし、同時に、この信仰の先輩よりも、深く神の一方的な愛を教えられているのです。

この神が私たちのために、私たちを目指して送って下さった、私たちの主イエス・キリストを通して教えられているのです。

すなわち、このお方の十字架を見上げる時、私たちは、私たちに対する神の怒りの深さを知ります。このお方の十字架の死は、事実、私たちの人間仲間が、私たち人間の罪深さが、このお方を十字架につけたという意味において、私たちの罪を語るものであります。しかし同時に、このお方が十字架で死ななければならなかったということは、そのお姿には、詩編の詩人が神の御前で教えられた汲み尽くせぬ我々の罪に対する神の怒りが、実は現れているということなのです。キリストは、神の怒りのもとその裁きに合わなければならない私たちに代わって、私たちの罪を全部引き受け、負って下さった身代わりの死を、死んで下さったのです。

どんなに神が私たちを怒っていらっしゃるか。主イエスの十字架を見れば分かります。私たちは、詩人が知り尽くすことのできないといった私たちに対する神の怒りを、この人よりも深く知ることができます。

しかし、このキリストの十字架を見上げる時、この怒りの下にある私たちが、同時にキリストの十字架のゆえに、既に今この時、完全に赦されていることを知るのです。

「生涯の日を正しく数えるように教えてください。」この祈りは、ここでこそ、神の教えて下さるありのままに、私たちに明らかになるのです。

飛び去るように去って行く私たちの生涯とは一体何なのか。それをどのように数えれば良いのか。キリストの十字架の下でこそ、神に教えて頂くことができます。

私たちの生涯は、どんなに罪深く、汚れに満ち、それにふさわしく呪われ、事実、神の怒りこそふさわしいものであったとしても、神がなしとげて下さったキリストの十字架の出来事のゆえに、赦されている生涯です。恵みの生涯です。祝福の生涯です。愛されている生涯です。

私たちの神は、真の慈しみの神、赦しの神、私たちの住まいであり、砦であることを、イエス・キリストにおいて、永遠に選んで下さったのです。

それゆえ、私たちにどのような罪、弱さにあっても、私たちは祈ることを諦めません。生きることを諦めません。

どんな労苦や災いが私たちに襲ってきたとしても、私たちは、もはや、そのようなものを見て、私たちに対する神の怒りの深さを測ることはいたしません。私たちの罪に対する神の徹底的な怒りは、キリストの十字架を見ればわかるからです。そして、その十字架は、私たちを赦し、徹底的に愛して下さった、私たちに対する神の恵みの決定的な出来事です。

だから、どんな労苦や災いが、私たちの人生を満たしても、私たちは、人生を捨ててしまわないのです。諦めてしまわないのです。

この生涯が、キリストの命によって、神のものとして買い取られた生涯だからです。

私たちの地上の命は、短く、はかないものです。けれども、それは間違いなく美しく、また誠実に生きる価値のある生涯です。その美しさ、価値とは、あっという間に飛び去ってゆくそのはかなさゆえに、もののあはれを誘うような美しさ、価値ではありません。

取るに足りない小さな私たちの命を、神が愛されるがゆえに美しいのです。私たちのために、神が御子を遣わし、御子の命をもって、救い、その御子の命に生かされたものであるゆえに、生きるに値するのです。

どうか、人生のはかなさと空しさに立ち止まってしまっている方がこの中にいるならば、私たちと共に、この言葉、神がキリストにおいて既になさったことにこそ、耳を傾け、目をとめて頂きたい。

いくら自分の命を見つめていても、答えは見つかりません。

しかし、神は喜んでそれを教えて下さるのです。

私たちの罪がどんなに深いものであるのか、しかし、神の赦しがどんなに深いものであるのか。そして私たちが神にとって、どんなに大切な宝であるのか。

それが私たちの生涯なのです。それが、私たちの日々なのです。この地上の生涯の終わりに至るまで、キリストの命に生かされる私たちであることを、いや、死の先も、私たちを生かして下さるキリストの命であることを、今日も喜び、祝う私たちであります。祈ります。

主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは赦された者です。私たちは買い取られた者です。

私たちはあなたの宝とされた者です。どんな短い命であったとしても、そのような神の宝の命であることを、私たちがいよいよ悟ることができますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン