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祈りを待つ神

2014年3月16日

ルカによる福音書第18章1-8節
川﨑 公平

主日礼拝

前回、私が説教した時にも予告したことですが、昨日から今日にかけて、この教会堂を会場にして、中学生・高校生たちと一緒に、教会学校の集まりが行われました。毎年この季節に泊まりがけで行っております、スプリングキャンプという集まりです。先々週の礼拝で予告をしたときには、どうも参加者が少ないようだと申しましたが、その後、幸いにして出席者が増えまして、とても楽しい集まりをすることができました。

この中学生、高校生たちの集まりで何をしたかというと、先ほど読みました、ルカによる福音書第18章1節以下の〈やもめと不正な裁判官の譬え〉と呼ばれる、主イエスの語られた譬え話を一緒に読んだのです。私ひとりの感想でないことを願いますが、とても楽しい、また実り豊かな時間を持つことができたことを感謝しています。

この主礼拝に先立って行われた小礼拝には、そのスプリングキャンプで、既に昨日からこの譬え話を読んできた高校生たちも一緒に礼拝をし、この主イエスの譬え話に改めて耳を傾けるということをいたしました。まあ、教会堂に泊まるというだけでも何となく楽しいわけで、昨夜はずいぶん遅くまで起きていた人たちも多かったようですが、教会学校の先生たちもそれは大目に見てくれていたようです。「せっかくの機会だから、夜更かしもいいだろう。ただし、明日の礼拝で居眠りをしないことが条件だぞ」などという言葉を、私も小耳にはさみ、少しプレッシャーを感じながら説教の準備をいたしました。若い人たちが神さまに出会うことができるように、信仰に導かれるように、大人の皆さんもその祈りを新しくしていただければありがたいと思っています。

そこで、この譬え話であります。筋書きはいたって単純です。ある町にひとりのやもめがいた。そのやもめが裁判官に、「わたしのために裁判をしてほしい。わたしを守ってほしい」と、実にしつこくお願いをしたものだから、最初は取り合おうとしなかったこの裁判官も、ついに根負けしたという話です。そういう譬え話によって、主イエスが何を言おうとなさったのかということも、その最初の言葉から明らかです。1節に、こういう言葉がありました。

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。

主題は、祈りであります。「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」。昨日、私が中高生にお話ししたひとつのことは、これもいたって単純なことであって、祈るということを覚えてほしい、ということです。祈りとは何か。神さまとお話しすることだ。もう少し丁寧に言うと、神さまとのお付き合いをするということだ。そうすると、神を信じるということと、神に祈るということとは、結局は同じことになります。神を信じてはいるが、祈ってはいないということは考えられません。神を信じるというのは、たとえば書物を読んで神さまについての知識をいくら詰め込んでも意味がありません。書物ではなくて、きちんと神さまと、言ってみれば神さまご本人と直接お付き合いをして、ああ、神さまってこういう方なんだ。神は生きておられるんだ。そのように神を知っていく以外に神を信じる道はありません。生きた神と生きたお付き合いをする。それが祈りです。

その祈りとは、いったい何か。そのことを、主イエスはたいへん印象深い譬え話で教えてくださいました。「気を落とさずに、絶えず祈れ」とおっしゃって、そういう祈りをしている、言ってみれば模範のような人間として、ひとりのやもめの姿を描いてくださいました。町にひとりのやもめがいた。夫と死に別れて、ひとり残されてしまった。今でもそういうところがあるかもしれませんが、昔は今よりもずっと、やもめという人の立場は弱かったと言われます。そういう人がたとえば、スーパーにパートに出るなんてことはできない。ただ他者の憐れみにすがって生きていくしかない。ところがそのようなやもめが、誰かから不当な圧迫を受けて、とても困っている。そこで裁判官のところに行き、「相手を裁いて、わたしを守ってください」。たいへん運の悪いことに、その町の裁判官は、「神を畏れず人を人とも思わない」ような悪徳裁判官であって、彼女の訴えを無視し続けたと言います。けれども彼女はへこたれない。この悪徳裁判官が遂に根負けするまで、自分の主張を曲げなかった。これが、あなたがたの模範、あなたがたの祈りの模範だと言われるのです。

この譬え話でひとつ興味深いのは、5節の最後に、こういう裁判官の言葉があります。「さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」。この新共同訳の翻訳も、生き生きと訳されていると思いますが、「さんざんな目に遭わす」と訳されている言葉は、原文ではもっと激しい言葉で、「目の下を殴ってあざを作る」という意味を持ちます。昨日、中学生たちにそのことを説明した時には、ジャイアンに殴られたのび太の顔でも想像すればいい、などと言ったのですが、この裁判官はそういうことを心配したのです。あの女は実にめんどくさいな。あまり関わり合いになりたくないな。けれども、あの女をこのまま放っておいたら、いつかぶん殴られて、目の周りを紫色にした状態で仕事に行かなければならないかもしれない。いやいや、裁判官たる者、そんなみっともないことになるわけにはいかない、という思いもあったかもしれません。だから、しょうがない。彼女のために、裁判をしてやるか。

繰り返しますが、この裁判官に殴りかかるほどの勢いで訴え続けた、このやもめこそ、あなたがたの祈りの模範だと言われたのです。そして、このようにこの譬え話を結びました。

それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」。

ここでひとつ、大きな疑問が生まれます。まるで神が、不正な裁判官に譬えられているようです。神さまもまた、不正な裁判官のような存在だけれども、しつこく頼めば、祈りを聞いてくれるだろうから、頑張りなさい、ということになるのでしょうか。もちろんそうではありません。そこははっきりさせておかなければなりません。神は、不正な方ではありません。義なる神です。だからこそ主イエスは7節で、「まして神は」と言われました。そして8節では、「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」。あの裁判官のように、のらりくらりと逃げ続けるようなことは、神は、なさらない。速やかに、裁いてくださるのです。

これはしかし、主イエスが創作なさった譬え話です。そうなると、やはり問いが残ると思います。どうして主イエスはわざわざ、こういうきわどい譬えをなさったのでしょうか。なぜ、不正な裁判官と、正しさそのものである神を、対照させるような語り方をなさったのでしょうか。なぜ、不正な裁判官という譬え方でなければならなかったのでしょうか。

ひとつの理由は、こういうことだと思います。私どもは、不正な裁判官であっても、あるいは不正な警察官でも、不正な医者でも、何でもいいのですが、とにかく何らかの期待をしているのです。日本の警察にも、いろいろ問題はあるだろう。けれども不正な警察だってないよりはましだと考えるのです。日本の裁判所に多少曲がったところがあったとしても、やっぱりないと困るのです(関係者の方がいたら申し訳ありません。あくまで仮の話です)。けれども、それに比べて、神さまに期待するところは非常に小さい。不正な裁判官と、正しい神さまと、どちらが、どのくらい役に立つと思っていますか。案外、不正な裁判官に対する期待度の方が高いのではないですか。主イエスが問題になさったことは、そういうことではないかと思います。神を過小評価するな、ということです。

このことをもう少し率直に申しますと、私どもの祈りには答えられないことがある。そう思えてならないということです。一所懸命祈った。けれども何も変わらなかったではないか。そういう祈りの空しさを一度も経験したことのない人というのは、おそらくひとりもいないと思います。主イエスは「気を落とさずに絶えず祈」れと言われましたけれども、まさにそういうときにこそ、私どもは祈りにおいて、気を落としてしまうということが起こるのだと思います。祈っても無駄ではないか。何も変わらないではないか。不正な政治家の方が、まだ何かしら役に立つではないか、ということさえ、考え始めるのです。

そこでもうひとつ、私が思ったことがあります。神がこの不正な裁判官に似ているところが、ひとつある。たとえば、私どもが一所懸命祈ったとします。「神さま、何とかしてください。助けてください」。けれども何も変わりません。神さまに無視されているようです。いや、もともと神さまなんかいないんじゃないか。いたとしても、少なくとも自分のためには何の役にも立たない神さまではないか。そういうところで私どもが思い描いている神は、「うるさくてかなわん」とすら思わない、超越した存在であることが多いのです。この不正な裁判官は、「あのやもめは、うるさくてかなわないから」と言いました。もちろん、そこに愛があったわけではありません。しかし、私どもが思い描く神の姿、特に、祈りが聞かれない時に思い描く神の姿は、「うるさくてかなわん」とさえ、思ってくださらない、何ら心を動かすことのない超越神であることが、あるのではないでしょうか。

そしてそういうとき、たとえば、「み心が行われますように」という主の祈りを、私どもは、「どうせだめなんでしょ。わたしの願いじゃなくて、神さまのみ心が行われるんでしょ、どうせ。いいですよ、別に……」というような心で祈るということさえ、起こるのです。けれどもここで主が語られた譬えは違います。決して、そうではないのです。「神は、あなたの祈りを聞いて心を動かす方なんだ。冷酷な運命なんかじゃない。神はあなたの祈りを聞きたいんだ。あなたの祈りを聞いたら心を動かさずにおれない神なんだ」。そう言われるのです。その意味では、この譬えの中に出てくる不正な裁判官は、うっかり私どもが思い描いてしまう神の姿よりはずいぶん真実の神の姿に近いとも、言えるのです。

それこそおかしな譬えになるかもしれませんが、私ども夫婦がしばらく前まで悩まされたことは、生まれたばかりの息子が夜中に起きて、わんわん泣き出すことです。おなかがすいたと言う。そうすると、起きないわけにはいかない。「うるさくてかなわないから」。「ひっきりなしに泣き続けて、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」。けれども、本当にただうるさいだけだったら、最初から別室に隔離してしまえばいいのです。泣く力もなくなるまで、ほうっておけばよいのです。もちろん、誰もそんなことは考えないのです。

そして、そういうときに赤ん坊が、「お母さんのみ心が行われますように。あ、そうか、お母さんのみ心は、今はミルクをくれないってことですね。いやー、どうもすみませんでした」。そんなことを考えるはずがないし、いや、問題は赤ん坊がどう思うかということではない。世の親たちが何を考えるかなんてことも、ここでは問題にもならない。神の親心が、どう動くか、ということです。「まして神は」。神は、あなたの泣き声を聞いたら、じっとしていることなんかできない。神は、あなたがたの祈りを待っておられるのだ。そのような神のこころを、不正な裁判官の姿にさえ譬えなければならなかった主の思いは、私どもに対するまことに深い熱心であり、愛であり、しかしまた深い悲しみでもあったのではないかと、私は思います。なぜわたしを呼ばないのか。わたしを呼ぶがよい。

だからこそ主が語ってくださった、この譬えなのです。どうか、祈ってほしい。このやもめのように。そして、だからこそ、最後の8節では、「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」。人の子というのは、一切の説明を省略して申しますが、主イエス・キリストのことです。主イエスが、もう一度、必ずこの地上に来てくださると、私ども教会は信じる。ただし、その時、わたしは地上に信仰を見つけることができるだろうか、言い換えれば、神をひたすらに呼ぶ、祈りを聞き取ることができるだろうか。

これは、主イエスの疑いを言い表した言葉ではないと、私は思います。あなたがたに信仰がありますか、どうですか、たぶん、ないんじゃないですかと、私どもの信仰を疑っておられるのではないと、私は思います。そうではなくて、これは招きの言葉であります。神を信じてほしい。そしてわたしを信じてほしい。なぜ信じないのか。なぜ、わたしに訴えないのか。わたしはあなたの祈りを聞くよ。いつでも、何でも聞くよ。そう言われるのです。

昨日の夜、一緒にこの譬え話を読みながら、これは中学生でも高校生でもなくて、ひとりの教会学校の教師の方が、こういうことを言いました。最初、このたとえを読んだ時、やもめがわたしたちで、不正な裁判官が神さまだとは読まなかった。そうではなくて、神さまが、このやもめに譬えられているのだと思った。そう言うのです。興味深いと思いました。もちろん、どうもその読み方には無理があるようだと言われた上で、けれども、どうしてそういう読み間違いをしてしまったかというと、自分の信仰の歩みを振り返る時、むしろ神さまが、このやもめのように何度もしつこく、わたしに迫って来たのではないか。夜も昼も、何度もしつこく、「わたしに答えてほしい、返事をしてほしい」と、神さまが、そう言ってわたしに迫って来てくださったのではないか。だから今わたしも、祈る者とさせていただいているのではないか。……でも、まあ、それは読み間違いだったと言われたのですが、私は、そういう読み間違いに誘われたということにも、ひとつの真理が隠されていると思いました。心を打たれながら、その言葉を聞きました。本当にそうだと思ったのです。

「気を落とさずに、絶えず祈らなければならない」と主イエスは言われました。それはその通りです。私どもが、気を落とさずに、絶えず、祈るのです。けれどもむしろ、私どもの多くが体験として知っていることは、むしろ神が疲れることなく、眠ることもなく、私どもに働きかけてくださるということです。わたしを呼びなさい、わたしに祈りなさいと、むしろ神さまの方が熱心に私どもを引っ張ってくださり、祈りのこころを呼び起こしてくださる。だから、私どもは何もしなくていいというのではありません。むしろ、このような神さまの熱心を知っているからこそ、その神の愛にすべてをゆだね、私どもも、その神の愛にしがみつくようにして、私どもは祈り続ける。ここに、失望せずに絶えず祈り続ける道が開けるのです。

7節に、こういう言葉がありました。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために……」。「選ばれた人たち」と言います。私どもが祈るようになったのは、今祈るようにさせていただいているのは、私どもが神に選ばれたからです。神が、特別に選んでくださった。私どもが神を選んだのではない。神が、それこそあのやもめにもまさって熱心に、私どもを選び、この場所へと導き、祈る者としてくださった。これが私どもの信仰の根本です。

選ばれた人たち。特別に優れたエリート集団というのではありません。むしろ、特に困り果てている人たちの集団です。あのやもめと同じです。あのやもめは、自分が無力であり、しかも誰も助けてくれないことを知っていました。けれども、だからこそ、ひたすらに、正しい裁きを求めました。どうか正義を行ってください。わたしのために。そうでなければわたしは生きることもできません。そのように、神の名を呼び続けている集団、神を待ち続けている集団。そのために神に選ばれた人たち、それが教会です。

その「選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」と言われます。「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」と言われるのです。

この言葉を読む時に、もうひとつ最後に、私が思い起こすことがあります。ローズンゲンという、皆さんの中にも使っている人が多いに違いない聖書日課があります。毎日旧約聖書と新約聖書を一か所ずつ、その日その日に神が与えてくださるみ言葉と信じて、読んでいきます。改めて驚かされますが、300年近く前から、ドイツの小さな村で毎年作られ、読まれ続けている聖書日課です。今では、50を超える言語に訳されるようになったそうです。先週、私どもは3月11日という日を迎えました。言うまでもなく、私ども日本人にとっては忘れることのできない日付となりました。その3月11日という日に、ローズンゲンにおいて選ばれていたのが、このルカによる福音書第18章の7節以下であったのです。

神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。

ドイツの小さな村で作られた聖書日課です。その村で働く人たちが、私ども日本人にとって3月11日という日付が何を意味するか、分かっていたのでしょうか。分かった上で、こういう言葉を選んでくれたのでしょうか。いや、神がこの言葉を選んでくださったのでしょうか。そうに違いないと思います。

50を超える言語で、世界中でこの言葉が読まれる。その時に、世界中の人が、3年前に日本で起こったことを思い起こしてくれたのだろうかと思いました。しかし、どうでしょうか。今なお、家族を失った人。家を失った人、仕事を失った人。故郷をまるごと失ってしまった人。たとえばそういう人たちが、この聖書の言葉をどう読むだろうかと、皆さんはお考えにならなかったでしょうか。この言葉を読みながら、いったい、どのような祈りが生まれたでしょうか。慰められた人もいたかもしれない。けれどもまた、かえって嘆きが、呻きが深くなったかもしれないと、私は思います。それこそ、あのやもめのように、「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たち」の、その叫びはなお激しいものになったかもしれない。正直に言って、そう思います。神の救いは、まだ完成していないのです。けれども、だからこそ、叫び続けるのです。

この箇所について説教するために、もちろん、いろいろな文章を読みました。その中に、ルードルフ・ボーレンという、皆さんの中にその名前に親しんでいる方も多いと思います、既に亡くなった神学者の文章を読むことができました。ボーレン先生が、このやもめの姿を捕らえて、「聖なる不満」と呼びました。おもしろい言葉だと思います。われわれは、「聖なる不満」を抱いている。満足していない。ふつう、不満を抱いているというと、あまりいいイメージはない。あれが悪いこれが悪いと、いつもネガティヴな発言しかしない人は、たいてい皆から嫌われます。しかしここでは、「聖なる不満」。神との関わりにおいて、聖なる不満を抱いている。このやもめのように、であります。神よ、何とかしてください!

ボーレン先生は、さらにこうも言いました。「欲しがる勇気。望みを抱く勇気。祈る勇気」。祈りには、勇気が要るのだ。翻って思う。私どもは、勇気を失っていないでしょうか。この世と妥協して、神が生きておられないがごとく、諦めてしまっていないでしょうか。聖なる不満を捨ててしまい、偽りの満足に生きてしまってはいないでしょうか。ボーレン先生ははっきり言います。勇気を持っている人間は、妥協することができないのだ。神よ、まだこの地上では、あなたの正義が実現していないではないですか。どうぞ、あなたの裁きを行ってください。けれどもそう祈るためには、勇気が必要なのです。主イエスがこのような忘れ難い譬え話を語られたのも、このような勇気を私どもに与えるためであったのではないかと思います。

だからこそ、主イエスは最後に言われました。「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」。人の子であるわたしは必ず来る。そう言われたのです。あなたをみなしごのままにはしておかない。あなたをやもめのまま放ってはおかない。わたしは必ず、あなたがたのところに戻ってくる。このわたしを待ち続けるがよい。神の名を呼び続けるがよい。神は必ず、あなたの祈りを聞く。

ここに、どんなに深い神の熱心が込められていることだろうかと私は思います。その神の熱心に少しでもふさわしい祈りの集団、神に選ばれた、勇気ある人たちの集団を、ここに造らせていただきたいと心から願います。お祈りをいたします。

あなたに選ばれて、今ここに立ちます。まだ、天におけるようには御心が行われていないこの地上であることに、改めて気づきます。勇気をもって、他の誰の名を呼ぶのでもなく、ただひたすらにあなたの御名を呼び続けさせてください。神よ、どうぞ、あなたの裁きを、あなたの正義を、この地上に行ってください。その祈りを、共に、熱心に続けるこの鎌倉雪ノ下教会であることができますように。そのような私どもの祈りが、あなたが生きておられることの証しとなりますように。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン