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マリアよ、なぜあなたはそんなに美しいのですか

2013年12月24日

ルカによる福音書 1章26節-38節
川﨑 公平

クリスマス讃美礼拝

天使ガブリエルがおとめマリアのところに遣わされ、「あなたは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」と告げました。マリアは驚き、戸惑いながらも、この天使の語りかけを受け入れていきます。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。聖書の中でも際立って美しい場面です。多くの人にとって忘れがたい聖書の記事だと思います。教会の画家たちもまた、この場面を、競うように描きました。「受胎告知」などと呼ばれることが多い。この世のものとも思えないほどの美しい絵がたくさん描かれました。聖書を読んだことがなくても、この場面を描いた絵を見たことはあるという人は多いと思います。そのように、多くの人の心に刻まれてきた聖書の場面であります。

既に何か月も前に、今日、12月24日の礼拝ではこの聖書の言葉を読む、説教の題はこれ、と決めましたら、この教会の人たちが何人も声をかけてくださいました。今年はマリアの話をするんですね。そして、不思議なことですが、複数の方から同じようなことを言われました。「昔、子どもの頃、クリスマスの劇でどうしてもマリアの役をやりたかったのに、ついにやらせてもらえなかった」。幼稚園の頃に、とか、中学生の頃に、とか……。こういう話は、今年に限ったことではないので、教会でマリアの話をすると決まって出て来る感想のひとつなのですが、どういうわけか、「わたしはマリアの役をやりましてね」という方の声はほとんど聞いたことがないんですね。私に声をかけてくださる方は決まって、「わたしはやらせてもらえなかった」という人ばかり。男の私には分かりませんが、よほど倍率が高いのでしょうか。

このマリアというひとは、もしかしたら、私のような者が考えている以上に、多くの人にとって懐かしい存在なのかもしれないと思いました。特別な魅力を持った、不思議な美しさを宿した人であると思います。

ついでに申しますと、私どもはプロテスタント教会です。たとえばカトリック教会のように、マリアを特別に聖マリア、マリア様、などと呼ぶことはありません。マリアに祈りの執り成しを願うこともありません。けれども私は、カトリックの人たちのマリアに対する愛と尊敬の気持ちは、とてもよく分かるような気がします。やはり、マリアという人は、まことに美しく、聖なる存在だと思います。けれどもなおそこで大切なことは、皆さんもまた同じように、美しく、聖なる存在になれるということです。私は、そう信じています。

しかし、マリアという人は、いったいどうしてそんなに美しいのでしょうか。マリアよ、なぜあなたはそんなに美しいのですか。私にも、その秘密を教えてくださいませんか。この数か月、私は改めてそのことを考え続けておりました。

少し個人的な話をするようですが、今年の秋、私にとってひとつ悲しかったことは、この鎌倉雪ノ下教会のメンバーであった、比較的若いご婦人の葬儀をこの場所でしなければならなかったことでした。ちょうど3年前の今頃、初めてこの教会においでになり、すぐに主イエス・キリストの救いを信じて、洗礼をお受けになりました。その時から既に、たいへん厳しい闘病生活を続けておられました。おそらく自分の病気は、もう治ることはないだろう。その覚悟をしながら、洗礼を受ける時に、私にはっきりとこういうことをおっしゃいました。私は今、イエスさまを信じて、もうだいじょうぶ。喜んで死を迎えるとさえ、言えるようになった。けれどもただひとつ気がかりなのは、家族のこと。特にふたりの娘たちのこと。自分が死んだら、とてもつらい思いをするだろう。特に下の娘は、耐えられないかもしれない。その娘のためにも、わたしは洗礼を受けたいのだ。お母さんは、だいじょうぶだから……。そういう話を、もう家族にははっきりしてある。明日、死ぬかもしれない人間として、わたしは洗礼を受けたいと願う。そうおっしゃった時の、その方の表情が、実に明るかったことを、私は印象深く覚えています。ちょっとした衝撃を受けました。どうしてこの人は、こんなに解き放たれた表情をしているんだろう。

教会の仲間が亡くなりますと、この礼拝堂を用いて葬儀をいたします。そしてその時に、その亡くなったご本人の好きだった讃美歌を歌い、聖書の言葉を読みます。このような聖書の言葉を読んだのです。主イエス・キリストが、ある山の上で、弟子たちにお語りになった言葉です(マタイによる福音書第6章25節以下)。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうか、何を着ようかと思い煩うな。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」。

「あの野の花を見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる」。

「野の花を見なさい」「空の鳥を見なさい」。これもまた、もしかしたら、多くの人の心に刻まれている聖書の言葉であるかもしれません。私もまた、牧師として、ほとんど暗誦するほどに繰り返し読み続けてきた言葉だと思っておりました。しかし、この方の葬儀をして改めて思いました。あの野の花は、どうしてこんなに美しいのだろうか。「野の花」であります。しかも主イエスははっきりと、「明日は炉に投げ込まれるかもしれない野の草でさえ、神はこんなに美しく装ってくださる」と言われました。この礼拝堂に美しく飾られている花のようなものを想像すると、ちょっと違うかもしれません。明日は誰かに踏みつぶされてしまうかもしれない野の花です。それと同じように、私どもの存在もまた、ある意味では、はかないものです。「明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ……」。あのご婦人もまた、その厳しさをよくご存じであったと思うのです。けれども、主イエスは、あの花の美しさを見よと言われました。神が、その花を生かしてくださる。美しく装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないかと言われたのであります。そこに、神の与えてくださる美しさの、したたかさというか、神さまの意地のようなものを感じます。

どうして、このご婦人はこんなに美しいのだろうかと、私は思いました。この人は、神の恵みをいただいたのであります。主が、この人と共におられたのであります。死を覚悟しながら、なおそこで、「神にできないことは何一つない」というみ言葉を聴き取っておられたのです。そして、「わたしは主のはしためです」と、お答えすることができたのです。死をも越える、したたかな、その方の美しさは、残されたご家族にもよく分かったのではないかと思います。このような教会の仲間が与えられていたことを、私は牧師として、誇らしく思います。しかしこれは、ここにおられる皆さんすべてに、例外なく与えられた、神の恵みの道であると、私は信じます。

「マリア、おめでとう。あなたは恵まれた方。主があなたと共におられる」。しかし考えてみれば、厳しいことです。自分の人生計画にはなかったことです。結婚前に子を宿すなどということは、マリアにとって、決してうれしい知らせではなかったと思います。結婚前に身ごもる。どうも今の日本ではむしろ普通のことになってしまいましたが、当時としては、最もあってはならないことでした。実際、他の聖書の記事によれば、婚約者のヨセフもまた、マリアとの絶縁を考えたと記されています。ただ離縁で済めばまだいいのであって、当時の掟によれば、場合によっては、マリアは石打ちの刑にされるようなところでした。「あなたは身ごもって男の子を産む……」。とても受け入れたくない天使の言葉。そして、このマリアが幼子イエスを出産した時、皆さんの多くがよくご存じではないかと思いますが、マリアに与えられた場所は、馬小屋しかありませんでした。羊飼いたちは、家畜のえさ箱に寝ている幼子を見たのであります。それを見て、羊飼いたちは大いに感激いたしました。そこで彼らが見たものは、宮殿に住む者の美しさではない。この教会の建物の前に、ちょうど今解体中の古いビルがありますが、たとえばああいう建物のかげで初めての子を生まなければならなくなった、14歳くらいの母親と、やはり同じように若いその彼氏と、生まれたばかりの赤ん坊の姿を想像すればよいのです。どこが美しいのでしょうか。だがしかし、この家族は、神に守られているのであります。

マリアは、その神の恵みを、神のご支配を、静かに、ひざまずきながら受け入れています。そこに、この世のものと思えないほどの美しさが現れてきます。誰もが目を見張るほどの美しい人が、そこに立ち現れてきたのです。その美しさは、のちに主イエスが長じてのちにお語りになった、あの野の花、空の鳥の美しさにも通じるものであったのです。

天使ガブリエルは、この幼子についてこのように申しました(32節)。

その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。

神のご支配であります。神が、この世界を統べ治められるのです。野の花、空の鳥にまで及ぶ神の支配。マリアもまた、そのご支配のもとに、膝を屈めることができました。

この主イエスというお方が、のちに、あるところで、神の支配とはいかなるものか、たいへん印象深く教えてくださったことがありました。主イエスが弟子たちと共に歩んでおられた時、人びとが、幼子たちを連れてきました。ぜひイエスさまに触れていただきたいと願ったのであります。ところが弟子たちは、女子どもの来る場所ではないと、その人たちを追い払おうといたしました。ところが主イエスは、これは福音書の中でもたいへん珍しい記述ですが、これを見てたいへんご立腹になりました。そして言われました。「その乳飲み子たちを、わたしのもとに来させなさい。邪魔をするな。神の国は、この子どもたちのような者に与えられるのだ」。そして、その子どもたちをひとりひとり抱き上げ、手を置いて祝福してくださいました。ここに神の支配が見えるか、とおっしゃったのです。これも、多くの人の心を動かしてきた聖書の記事であります。自分はもう大人だからだめだなあ、という感想もあり得るかもしれませんが、それは聖書の正しい読み方ではないと思います。子どものような純真な心を持たなければ、ということでもないと思います。

この乳飲み子たちは、主イエスに抱かれているのです。ただ、それだけなのです。しかし、その幼子の姿が見せる美しさは、私どももよく知っております。私の家にも今、乳飲み子がおります。やはりかわいいものです。全存在を親の手にゆだねきるようにして抱かれています。主イエスは、その幼子を見なさいと言われました。あなたも、このような者になりなさいと言われました。マリアがしたことは、そういうことではなかったかと私は思うのです。自分の人生計画も、自分の願いもすべて脇へ置いて、ただ神の愛に抱きしめられるようにして、そのご支配の中に立ちました。そこに、あの花のような、あの幼子のような、そしてたとえば、あのご婦人のような、魅力ある美しさが輝いて来るのです。私どもも、同じ幸いの中に招かれているのです。お祈りをいたします。

ただひたすらに、あなたの愛のなかに、まっすぐに立つことができますように。さまざまな悩みや迷いもあります。けれども、それを打ち砕くあなたの確かな語りかけを、今聴くことができますように。私どものこころを開いてください。マリアのように、私どもも、あなたの愛に抱かれたうるわしい存在として立つことができますように。主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン